第四章「ヤミ」

 バリ島民が身に着けている色鮮やかで涼しげなバティックに惹かれ、店を案内して欲しいとスナに頼むと「うちで染めたのが腐るほどあるよ」と笑われた。

スナのアトリエは最初に出会った浜辺の近くにある、小さくて古い漁師小屋である。

「この辺、他に全然家が無いのね」

「この島の住人は海の近くには住まないんだ。海は死者とランダの物だから」

「じゃ、スナはどうしてここに?」

「僕は、死者たちに近い存在だから。マサゴが死んだ時、マサゴは僕のとても大切な人だったから、息も出来ないくらい辛くて。僕は彼の魂を鎮める為に、村を一人で離れて、この浜に住み始めたんです」

 スナは壁にもたれ、隣に立てかけてある大きなカンバスを見上げた。実物の『iyashi』は本当に巨大な絵で小さな部屋のほとんど壁いっぱいの大きさがある。 

「これはマサゴが死んだその夜の海です。マサゴの手紙をあなたに送ったのは僕。このアトリエで、マサゴは僕と二人で暮らしていた。彼の最期を看取ったのは僕です」

 スナは厳粛な声で語り始めた。

「初めてマサゴと会った時、真夏の炎天下に、彼はこの浜辺で倒れてたんです。バリに着いた早々、騙されて手荷物を盗まれ、この近くに放り出されて。僕はあの頃、村の人々に隠れて絵を描いていたから、この漁師小屋をアトリエに使っていて、熱射病と脱水症状で意識を無くしていたマサゴを発見した。そのまま彼はここに住み着いた。僕の日本語は、マサゴから教わったんだ。そっくりでしょう?」

 私がうなずくと、スナは嬉しそうに笑った。ああ、だから彼の話す声やアクセントやイントネーションは真砂に生き写しなのだ。そして、完璧なまでに流暢な日本語、豊富なボキャブラリイ。

「・・・僕はマサゴになりたかった。どうしてもマサゴになりたかった。マサゴがもし生き続けることが出来るなら、僕のこの体を彼の魂の新しい器に捧げてもいいと思った。冷めたふりをしていたけど、マサゴは、本当はとても生きていたかったんだ。マサゴが死んで、僕は独学で狂ったように日本語を学んだ。村を出て、自分の人生を生きたいように生きることに決めて、ここに住み着いて、爆発したように絵を描き続けた。そのくらい、マサゴの死は僕にとって強烈な心の傷だったんだ」

 ぽつぽつと語るスナの姿が、涙で、少し光って歪む。

「ごめんね、スナ。私、こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、・・・私、あなたがうらやましい。そんなふうに、真砂に、私のそばで死んで欲しかった」

「わかります。だからいいんです。僕はあなたの代わりに、彼を看取ったんです。その引継ぎをするために、あなたをここに呼んだんです。どうか、気に病まないで」

 スナは両手で私の頬をそっと挟んで、優しく微笑んだ。

「彼が死んだ時、僕たちは村で小さな祭りをして、この砂浜で亡きがらを火葬にし、灰をこの海に流しました」

 私は小さく、ありがとう、と言った。他に言葉が浮かばなかった。





 この島に着いた夜以来、ずっと私につきまとっていたスナが、夕方、珍しく用事があるので私にホテルで待つように言う。

「今夜は僕の村でオダランがあるから」

「スナも出るの?」

スナは少し間を置いて小さくうなずいた。微妙に不機嫌なようだ。

「見たい!連れてって!」

「・・・夜のオダランはあんまりお薦め出来ないんです。みんなトランスに入りやすいから、巻き込まれると危ないし」

「でも、夜の祭りは迫力があってすごいっていうじゃない。何かあったらすぐ逃げればいいんでしょ? お葬式だって平気だったんだから、絶対大丈夫!」

渋るスナを何とか説き伏せた。スナは苦笑しながら言った。

「あなたも随分、バリナイズされてきましたね」


 夕食後、迎えのワゴンに乗り込み、約束のオダラン見物に出発した。

 正装が必要ということで、ちょうど着ていた青いTシャツに、スナにもらったバティックを腰に巻いて合わせてみた。白地にレモンイエローと金茶で描かれた花々、鳥、魚の柄で、更に金色の糸で繊細な幾何学模様の刺繍が施され、四方に金糸の房が付いている。昨日浜辺でマニキュア塗りのおばさんに、髪を三つ編みにしてもらったので、鏡の中に、やや太目のにわかバリニーズが出来上がった。私はすっかり有頂天だった。

 バリの道路はとても単純なので、大体方向感覚が把握できるようになりつつあった。どうやら車は最初にバロンダンスを見た寺の方に向かっている。

「僕の種族はね。バロンダンスに出てくるカレカの血筋を引く者、と伝えられている」

「この間、昼に見たバロンダンスのカレカ、凄く可愛かった。私、カレカがとても好きになってしまった」

「僕の村の人達は、彼女や、彼女のような異端の存在を深く愛している。混血が奨励されてたり、異国人のマサゴがすんなり村に溶け込めたのもそのせいなんだ」

 松明に照らし出される景色は、先日と同じ場所なのに、全く違って見える。まるで昼間とは正反対の色と光。

 三十人程度しかいない観光客の人だかりから離れた、少し小高い所に生えている木の根元に連れて行かれた。

「ここから絶対前に出ないこと。それと危険を感じたらすぐ逃げなさい」

 しつこく念を押してからスナは去った。少しステージから遠いのは不満だが、見晴らしのいいポイントである。

 強い香の煙が辺りに広がり、やがてガムランが心臓のビートに似た波動を刻み始め、真っ暗闇の中で展開される炎の金色の世界に、私はすぐ魅了された。 

 物語の中盤、ランダとバロンの死闘。カレカの登場、前のバロンダンスの時とは役者が違うようだ。少し背が高く、憂いのある眼差し。派手に施されたメーク、きらびやかな衣装。・・・遠目でもわかる。少女カレカを演じているのは・・・スナだ。

 足が勝手に、ステージへと近づいていく。引き寄せられる。最前列に出てみた。間違いない。炎に光り輝く衣装を纏い、アルトの少女の声で悲しく歌う、あれは、スナ。

「彼はこの村のサンギャンです」

 隣に立っている青年が、ゆっくりとした日本語で言う。「サンギャン」とは神や聖霊に自らの体を貸し、神の言葉を人間に伝える、いわゆる霊媒師(シャーマン)のようなものだ。

「もしかして、あなたも真砂を知っているの?」

 彼の、スナほど流暢ではない日本語の響きにハッとした。

「マサゴに会うまで、彼にはサンギャンという呼び名しかなかった。我々はサンギャンが必要以上に一人の人間と親交を結ぶのを始めは許さなかった。だが、マサゴは神のもとに近づきつつある、聖なる存在でした。サンギャンはマサゴから”スナ”という名を与えられて初めて、自分を生きられるようになった。それは、彼を必要とする、この村中の人々にとって、とても喜ばしいことです」

「真砂はこの村の人々に愛されていたのね、最期まで」

「サンギャンの友は我々村のみんなの友です」

 松明に照らし出され純朴そうな笑顔が私を見下ろす。




ストーリーは、カレカを中心に、従来のバロンダンスのストーリーよりも深くじわりじわりと進行していく。野生の犬のように美しいバロンを伴い、華麗に舞うサデワ王子、その勇姿に両手を差し伸べて泣き叫ぶカレカに、素顔のスナが、そして真砂の面影が重なり離れる。頭の中がぐらぐら揺れて回る。

 やがてカレカは憎悪のパワーでランダに化身、スナはカレカとランダを一人二役で通し演じている。咲き落ちる寸前のブーゲンビリアのような、どす黒い紫のオーラがスナの体を包んで燃えているように見えるのは錯覚か?

 クライマックス、バロンの戦士達が聖剣(クロス)を手に現れ、ランダの呪いで自害していく。

 全身をガムランに叩きつけるように演奏する奏者たち。時間が歪む、空間がうねる。握り締めた私の掌も汗ばんでいる。きつい花の香り、そういえば鈍い頭痛がさっきから続いている。

『サデワ、どうか私を殺して。その手でこの私を』

 私は反射的にステージに降り、一番近くの戦士に走り寄り、聖剣を奪うと、自らの胸に突き立てた。

「ミズエ!」

 振り返って叫ぶスナの目に松明の炎が映っていたのを覚えている。走り寄ってくる。押さえつけられ、抱きすくめられた。全身が熱い。筋肉が収縮してガチガチになり、喉からオウオウと獣のような咆哮が溢れ止まらない。意識はどうにか残っているが、体が自分のものではないみたいだ。血管をめぐる絶望と悲しみ。同時に世界中にもう何も恐怖はない、自分が絶対的に強い存在になった気分。今なら真砂がいるあの場所へ行けるはず。

「ミズエ、聖剣を放すんだ!」

耳元で鋭くスナが叫ぶ。

「いやだ! 真砂、真砂、そっちへ連れてってそこへ!」

 剣の先が胸に当たる。火のように熱い刺激が乳房に走った、と同時に、スナが物凄い力で聖剣をもぎ取る。私は魂を引きちぎられるような衝撃に跳ね飛ばされ、ショックで気を失った。

「ミズエ!」 

 花の香りの聖水が頬にかかる。ガチガチに緊張していた全身の力が、がくんと抜ける。無意識にしがみついていたスナの肩、化粧品や香の匂いの向こうに微かに懐かしい匂いがする。







 自分が夢の中にいるのはわかっている。

『iyashi』の浜そっくりの光景。耳元を、金色の羽虫のような妖精たちがクスクス、ケラケラ笑いながら飛び去る。海一面に光の煌めき。太陽よりも眩しい月明かりと、暗黒よりも黒い闇。無色透明な白の砂。この世のものでは有り得ない強烈なコントラストの中に私は立っている。

 足元を見下ろすと、私の影法師は影ではなくて真砂だった。影のように足を私のつま先にくっつけて、仰向けに横たわってこちらをじっと見ている。やせて頬がこけて、少し日焼けして、短く髪を刈り、白地に金色の、スナがくれたあの柄と同じバティックで仕立てたシャツを着た、私の知らない姿の真砂。

 悲しいけど、わかった。ここは黄泉の国の入り口で、この真砂は、この浜辺で死んだ時の、そのままの真砂だ。

「ねえ、真砂。あなた本当にここで死んじゃったのね」

『会いに来てくれて嬉しいよ、水絵。なのにこんな、死んじゃっててごめん』

月の様に輝く愛しい笑顔。

『君が悲しむ顔を見たくないからって、君から逃げてここへ来たこと、ここで死ぬ直前に初めて間違いだったと気付いた。一緒に苦しんで、ちゃんと目の前で死んであげなかったから、君の中で僕はちゃんと終わらなくて、あれから君はずっと先に進めないままなんだね。苦しみも悲しみもきちんと身をもって経験しないと、人は本当に“終わる”ことはできないんだね。・・・もう、取り返しがつかないと諦めてたけど、スナに出会って、彼が僕を理解してくれて、僕の魂を守ってくれたから、それに君が本当に僕を好きでいてくれて、ここまで来てくれたから、やっとちゃんとさよならをしてあげられる』

 真砂の長いごつごつとした指が恋しくて、そっと手を伸ばすと、影法師もこちらに手を伸ばしてくる。触れると、紙のように手応えがない。

『さよなら』

 体温のない真砂の、長い指が、私の手を握る。その手の皮膚が、爪が、肉が、骨が、砂時計の砂のように、少しずつ形を残しながら、解け、崩れる。愛しい笑顔から眼球が、白い歯が、少し硬い髪も、風に乗って、私の手足を愛撫するかのように絡みついては消えていく。

 声の出ない悲鳴。

 私は、指の隙間にやっと残った一握りの白砂を抱いて、ひざまずき、嗚咽した。

 たった今、私の中でやっと真砂は死んだ。

私の運命の人は真砂だった。もうどんなに帰りたくても帰れない、愛しく残酷な聖域(サンクチュアリ)。


 真っ黒な海。沖の遠くから来る、壁のような、山のような暗黒。低い呼吸の気配。波ではなく、生き物。近づいてくる巨大な影を、じっと動けぬまま見ていた。

 ・・・飲み込まれる!

 ・・・”死”が真砂の名残り、たった一握りの砂をも、固く握った拳から、残さず拭い取っていってしまう。

私を現世に残したまま。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る