第三章「ソラ」

『僕は、この島で許された。

 自分の宿命を呪っていた僕は、せめて最後に誰も自分を知らない場所で死のうと思った。猫も象も野生の獣は自らの死に場所を自ら選ぶ。そういう死に方がしたくて、そう思って、偶然雑誌で見たこの島を臨終の場所に選んだ。

 この島は最高だ。善と悪・・・聖と邪が太古から延々戦い続けている。牙をむき合い血を流し、火花を散らし爪を立て合い、わずかなきっかけから睦み溶け合い流動し、ほどけ、分離し・・・そんなことを繰り返しながら。

 善悪を分ける必要は無い。黒を白と言おうが灰色のままで生きようが、それが自分ならいい。邪は畏怖され、聖は親愛される。それだけだ。人種の違い、無限と有限、悲哀と歓喜、罪も罰も愛も憎悪も、あらゆる色の花として許され咲いている。僕があの家族に生まれ、水絵と出会い、二人で時を過ごし、悲しませて別れ、非生産的な一生を終える。そんな人生も悪くなかったと、この島の花たちが教えてくれる。

 結果的にここが死に場所になったのは運命で、僕は本能でここにたどり着いたのだろう。』


 緑と花、視界全体に散りばめられた強烈な色彩。常にどこかの街で鳴り続ける音楽。アバウトな時間感覚。慢性の微熱。

 毎日スナに連れまわされ、真砂の愛したバリの様々な姿を見た。ケチャもレゴンダンスも見た。あいさつ程度のインドネシア語を覚え、口に出してみると、心に灯がともるような、可憐な響きが心地よい。・・・・・・「トゥリマカシ(ありがとう)」「サマ・サマ(どういたしまして)」笑顔で心を返してくれる。

 他人の視線に鈍感になり、ノーメイク、ノーブラで過ごすのも平気になった。ドリアンの悪臭の洗礼に耐え、数々のトロピカルフルーツを制覇し、生水まで飲もうとして、さすがにスナに止められた。日を追うごとに、この島の物をより多く体の中に

取り込むことに貪欲になっていく。日本にいた時の自分がいかに心に堅い鎧を着ていたか、ここで初めて気付いた。体内の変化の音が聞こえてきそうなくらい、物凄いスピードでピュアに、ラフに変っていく自分。

 真砂の手紙に書かれたいたことの意味が身に染みた。何が正しくて、何が間違いなのかなんて、だんだんどうでもよくなってくる。大事なことは、今、自分がここにこうして存在していること、それだけ。





 ベノアビーチに出かけた帰りのベモの中で、私は初パラセイリングの余韻にひどく興奮し、大声でスナに話しかけていた。

 パラシュートを背中に着け、モーターボートに引っ張られて空を飛ぶ、というものだが、実感としては椅子に座っていて、足元には何もない、という状況。あんまり感激してカメラを持って再挑戦してしまった。バスクリンの風呂みたいに真っ青な海。微かにカーブを描く水平線。くっきりと深い緑が茂る、半島の輪郭。遥か眼下の砂浜で大きく両手を振るスナの姿。豆粒のように小さくてもはっきりとスナだとわかる。

鳥の視線、神様の視線とはああいうものなんだねー、なんてことを大はしゃぎして話すのをスナは黙って笑顔で聞いてくれていた。

「そういえば、昔、真砂の大嫌いな歌があってね。“富とか名誉なんかいらない、翼が欲しい、悲しみのない自由な大空へ飛んで行きたい”っていう歌なんだけど」

 ふとそんなことを思い出した。学校祭間際の頃、鍵を壊して屋上で会ってた時、合唱コンクールの課題曲を繰り返し練習する声が何度も何度も耳について、うんざりするように真砂は言ったのだ。

『翼が欲しい、なんて、くだらない現実逃避だ。翼なんていらない。そんな物なくても、心は、世界よりも宇宙よりも広い。どこまでも広がっていける。飛ぶ為の翼なんて必要ない』

「マサゴらしいね」

「スナはどう思う?」

「・・・そんなこと、考えたこともないなあ。どこかへ行きたいなんて思ったことない。今、ここで充分なんだ。・・・ただ名誉はいらないけど、富はちょっと欲しい」

 無欲そのものの顔で静かに笑う。

「ミズエは?」

「私はパラセイリングで充分だなあ。遠くに行きたけりゃ飛行機もあるし」

 ケラケラ笑って答えて、心に切望を隠した。

 ・・・もしも、真砂のところに行ける翼があるなら、今すぐ欲しい。心から。

「でも、マサゴは本当は音楽の仕事がしたかったんだよ」

「嘘!」

 そんなの初耳だ。この子は時々突然、とんでもない情報提供をする。

「だって、あの人、私が鼻歌歌うのさえ、不機嫌そうに睨むくらい、音楽そのものを憎悪してたと思う」

「でも、いい声してたでしょ」

 ・・・それはそうだ。私は彼の声にも実は惹かれていた。使う言葉は最悪の毒舌なのに、なだらかな音楽のような独特のイントネーションと、深みがあって少し響くテノール。だから、彼そっくりの話し方をするスナの声を初めて耳にした時、私の心はあんなに強く反応したのだ。

「マサゴは僕の村の祭り(オダラン)で歌われる歌をすぐに覚えてね。僕の村のみんなに愛された。楽譜のないバリの音楽に簡単に馴染んでしまうほど、すごい音感の持ち主だったんだ。でも心理学を学ぶ学生だと聞いていたんで、もったいないって思った。なぜ音楽の学校へ行かなかったのかって尋ねたら、マサゴは言ったんだ。“だって僕にはそこで学んだことを生かす時間がないんだ”って」

「・・・バカ」

 それ以外の言葉が浮かばない。情けない。私にはそこまで追い込まれて冷め切ってしまった境遇の人の気持ちは、どんなに努力しても理解できない。バカだ。真砂は本当に。






 言葉に詰まって、ふと気付くと、いつのまにかベモが立ち往生している。

「何事?」

 前方を派手に着飾った人々の行列が延々と横切っていく。花や鳥や亀や龍やらの細密な彫金と鮮やかな菜食が施された御輿(みこし)。大量の楽器が奏でる、のどかな音楽。

「本当にここは、年中お祭りだらけの島なのねえ」

「お葬式だよ、あれは」

 スナが静かに呟く。

「え? だって、なぜあんな楽しそうなの? 人が死んで悲しくないの?」

「悲しくてもおめでたい別れもあるでしょう? 日本で言えば、”卒業”とか。

バリでは、

死は終わりではなく、”魂が不滅になって神の国へ昇天する、旅立ちの時”なんだ。・・・そして、それが、マサゴの望む死の形、だったんだ。」

 目の前を歩いていた子ども達が、目配せし合って、クスクス、声をひそめて笑う。一人の子がこっちを振り向く。

 真砂?

 ・・・私が驚いてまばたきを一つすると、もう、まったく別人の顔に戻った少年は、車の中の私にニッコリ微笑みかけ、走り去った。

「・・・ねぇ、見に行っちゃだめ?」

「怖がらないなら、いいよ」


 激しく熱いガムランの調べと、人々の歓声の中、牛の形の棺がごうごうと燃え盛る炎に焼け崩れ、、むき出しになった人間の遺体が焦がされていくのが遠目にも見える。龍の舌のような巨大な炎が、遺体の骨が灰になるまで焼き尽くしていく。

 炎天下、三時間近く、壮絶な饗宴は続いた。

 遺灰が海に流されるのを、少し離れた場所に座って、ぼんやりと見つめていると、スナが「気分悪い?」と顔を覗き込んで来た。火葬の間中、ずっと黙ったままだった私を気遣ってくれている。私は首を横に振った。

「平気。ちょっと圧倒されちゃっただけ」

 すさまじい光景ではあったが、恐怖感や嫌悪感は、自分でも意外な程に湧かない。

「死は、自由なんだなあって思って。不要な肉体は無に帰り、魂はこの空に広がり、消える。真砂はここで、この場所を選んで死んだのね」


 日没後、ホテルに帰り。疲労でシャワーを浴びる気力もなく、ベッドに倒れこんだ。目を閉じると、瞼の裏に、あの遺体の焼け崩れる様が蘇ってくる。体はぐったりと疲れ果ててるのに、意識はらんらんと冴え渡っている。首の部分が落ちるシーンで、遠くで微かに何かが落ちる音を感じ、ぎょっとして身を起こした。

 窓辺の銀の一輪挿しに挿した、ハイビスカスの花弁が、床に落ちている。咲ききって朽ちた花の、血色の赤。美しい、と思った。涙が溢れて、止まらなくなった。

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