第二章「ハナ」

連絡や約束は会った時にすませ、徹底的に秘密主義を通していた真砂が、突然真夜中に、私の買ったばかりの携帯電話に、初めて電話をかけてきた。

「もう会わないようにしよう」

眠い目をこすって出ると、あんまりな第一声。「え?」という声が裏返ってしまった。

「僕は、もうすぐ死ぬんだ」

夢かな?と思った。そう言えば、もともと病気がちだったし、最近会ってないしなあと思ったら、入院先で病室を抜け出して深夜の二時にかけているという。でも、もうすぐ死ぬからって何で今、別れなきゃいけないの? ・・・寝ぼけていた私には、そのショッキングな事態の重さが把握できなかった。

「今、家族が凄く大変で、肉体的にも精神的にも。僕も痛かったり苦しかったりするけど、ああいう両親の姿を見るのが一番しんどいんだ。水絵にはあんな思いは絶対、させたくない。それにさ、これからすごく衰弱していくから、もうとても見せれられないなって」

「私は、一緒に戦いたい。真砂の御家族と一緒に、戦って、真砂はきっと助かる。何でもするから、別れるなんて言わないで、そばに置いて」

「だってもう僕はだめなんだ、本当に。だから僕のことは無かったことにして。忘れてくれ」

理路整然とした説得に、寝起きの頭では勝てはしない。私は電話口でわけのわからないことを言いながら泣き喚いた果てに、こんな言葉で真砂にふられた。

「関係ないんだよ、水絵には」






強烈な陽光が石像に照りつけ、境内にチカチカ乱反射する。小さな寺院の後方にテントが張られ、三百人以上の観客が押し込められている。ここは二、三年前に観光客向けに開放されたばかりで、他の村の舞踏劇よりは、村民の宗教的儀礼としての色が濃く残っている、という。

「マサゴは、バロンダンスが好きで、色んな村のを見て回ったけど、この村のが結構好きだった」

チューニング中のガムランの小さな音が、耳の周りを漂う。ガムランの響きは波の音に似ている。夕べの月の海の音だ。懐かしく深く重く優しい。


バロンダンスは、魔女ランダと聖獣バロンの太古から続く凄惨な闘いを語る歴史劇である。

ランダへの生け贄として捧げられた王子サデワを哀れんだ神が、彼を不死身の体に変える。サデワとランダの激しい格闘、見守るランダの弟子、少女カレカ。降参したランダは、聖者の手で命を断たれることによって悪魔も天国へ行けると語り、自らを殺してくれと懇願、望みどおりサデワの手で昇天する。

立ち去ろうとするサデワに「ランダ様の後を追わせてください」と懇願するカレカ。サデワはその願いを拒絶、絶望のあまりカレカは数々の魔獣に代わる代わる化身し、サデワに挑みかかり敗北を繰り返し、最後には師匠ランダに化身する。憎悪でオリジナル以上に強くなったランダに対抗し、サデワは最強の聖獣バロンに変身し、二者の力は同格で決着がつかず、バロンの助太刀に駆けつけた戦士たちも、ランダに憑依され、聖剣(クロス)で自らの胸を貫き自害する。バロンとランダの闘いは人の歴史の中に宿り、未来永劫続いていく。


強烈な色彩の装飾とメーキャップ、全身を緊張させ、滑らかに張り詰めて踊る激しいダンス。たぶん島民たち自らの体の血潮の中にも息づく、熱い戦い。ガムランの音色は激しく熱く境内に響き渡り、私の耳に浸透し、心臓を打ち、血管を通って体中駆け巡る。金属音でありながら聴く者の身体に異物感を与えない。

甘い音色にいつしか心が漂う。カレカを演じる少女が愛らしくて、ついカレカに感情移入してしまう。・・・カレカのサデワへの思いは恋だ、と突然思った。ランダと闘うサデワの圧倒的な強さ、それを見守るカレカの視線は、恋。・・・どうか、その美しく強い手で、私を殺してください・・・そういう、恋。私の目からは、無意識に涙が溢れていた。バロンでもランダでもなく、カレカの心が一番私に近い。





ダンスが終了してまだ寺院から出ないうちに、ぽつぽつと降り出した雨は、駐車場に着くころには物凄いスコールになり、私たちは近くのチャイニーズレストランに駆け込んだ。屋根はあっても窓が無く、吹き込む雨を避けて奥の席に案内されたが、雨音はかなり激しく響いてくる。

ガムランの余韻に少しぼんやりした頭で、なぜかふと、聖書のノアの箱舟の大洪水を連想した。このスコールは、この島の小宇宙を繰り返し洗浄しているのだ、と思った。

「私、真砂は本当は私をあんまり好きじゃなかったんだ、ってずっと思ってた」

食後のジャスミンティーを啜っているうちに、温まった喉から独り言のように零れた。黙ったままのスナの静かな横顔に語りかければ、今も真砂に届いてしまうのではないかと錯覚してしまう。

あの頃の私は劣等感の塊で、「真砂はなぜ私なんてブスで頭も悪くて、不器用な女をかまってくれるんだろう」と始終思い悩んでいた。気まぐれかもしれない。そのうち気が変わって、もっと綺麗な女の方がいいって、あっさり捨てられちゃうかも。でも私の方は真砂を逃したら代わりは現れるはずはない。

少しでも安心したくて、ある時私は「どうして真砂は私のこと好きなの?」と超恥ずかしい質問をした。だがしばらくの無言の末に返ってきた答えは一言。

「うーん、生きてるから、かなあ」

「何、それ!」

「だって、自分がどうしようもなく一人だなあって強く感じて、ひどくまいってたちょうどその時、目の前に出現したから、・・・一番近くにいたからさ、つい手出しちゃったんだ」

「じゃ、あの朝、教室に来たのが他の女の子だったら、その子でも良かったんじゃない?」

「・・・そうかも」

 ひどーい!と叫びたかったが、真砂があんまり深刻な顔で、きっぱりとそんな発言をしたものだから、しかもその声があんまり綺麗で、何だか神妙な感じだったから、返す言葉が浮かばなかったのだ。

「真砂は神経質過ぎるくらい避妊にこだわってたし、別れを切り出す少し前からは触れようともしなくなった。ぶっきらぼうな人だったけど、私は本当に彼が好きだったし、いつか皆に祝福されて結婚したいなんて人並みの夢を持ってたのに、彼は最初から別れの時まで私を切り捨てることばかり考えていた。一緒に病気と戦いたかった。彼の子供が欲しかった。何でもいいから、彼と過ごした日々が本当に存在した証拠を残して欲しかった。なのに『関係ない』ってひとことで、突然無理やり終わりにされちゃった」

真砂と別れて5年、私がどんなに苦しみ抜いて彼を忘れようとしたか。自分を責め、真砂を憎み、やっとのことで思い出を封じ込めた。なのにあんな手紙を今更よこすなんて。

「・・・マサゴは本当にミズエのことが好きだったんだ」

黙って聞いていたスナが横顔のまま呟く。

「最後の日々、本当にマサゴはきみを大好きだった。それだけ信じてください。気付くのが遅すぎたけど、ミズエのそばにいると冷静になれなかったから、距離を置いてみなければ気付かなかった、っていうのも本当だ。・・・マサゴの人生には未来というものが始めから存在しなかった。だからこそ目の前に現れたミズエの不器用な生命力に惹かれ、怖れたんだ」

まるで真砂自身の言葉のように、スナの言葉は私の心に染みとおって来る。

「それにね、何を選んだかじゃなくて、それを選んでどう行動したかってことが肝心なんだよ。マサゴがミズエを選んで、二人の日々をどう過ごしたか? 最後の場所にバリを選んで、ここで何を見、感じたか? それを考えてあげて欲しい」

たぶん、スナはこの島での真砂の最後の友人だったのだろう・・・あるいはあの手紙を私に送ったのは彼なのかもしれない。

彼は自分を「真砂の生まれ変わり」とか「自分が真砂自身だ」と言い張るけど、そういう真意が何となく理解できるような気がしてきた。彼は友人として真砂の心を引き継いだ。

そして、今、真砂がこの島で見た、感じたことをすべて私に追体験させようとしてくれている。そういう在り方を彼なりの言い方で「生まれ変わり」と呼ぶのだろう。


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