ニーナ、君の笑顔が見られたら。
「まーた、そんなもの飲もうとして」
しかめっ面のシアンが、ミズノの手元からマグカップを没収する。辟易とした顔のミズノは、「シアン」とたしなめるように口を開いた。
「入るときはせめてノックを」
「返事しないだろう、ノックなんてしたって意味なし。中で死んでても困るしね」
朝の柔らかな光に包まれたリビングで、ミズノとニーナは朝食をとっている。今日はミズノも休みのようで、眠そうにテーブルの上で頬杖をついているような、そんな朝だった。
ため息をつくミズノに、シアンが詰め寄る。
「コーヒーは飲まない約束だろうに、カフェインアレルギーだろ、あんた」
「カフェイン過敏症です」
「同じじゃないか」
いいかい、といきなりシアンはニーナに向き直る。「これがコーヒーを飲もうとしたらマグカップを叩き割りな。下手すると死ぬからね」と苦い顔をして見せた。ニーナは驚いて、何度もうなづく。「シアン……」とミズノが弱ったように言った。
「僕は煙草もやめたし、もうコーヒーぐらいしか医者に止められていない嗜好品はないんですよ」
「それは医者に言ってないからだろ。お医者様だってわかってりゃストップするよ。グダグダ言わない。グリーンスムージーでも飲んでな」
言いながら、シアンはミズノのコーヒーを飲み始める。それを残念そうに見ながら、ミズノが何度か咳き込んだ。
「薬は?」
「貰ってます。よっぽどの時は、ちゃんと飲んでます」
「ってことは……やっぱり掃除の時期じゃないかい?」
「ああ……なるほど……いつもすみません……」
本当に申し訳なさそうに、ミズノは立ち上がる。ふん、と鼻を鳴らしながらシアンが、テーブルの上の皿を片付けて鋭く2回手を叩いた。
「お掃除の時間だよ! ミズノは外に出な! ニーナ、手伝っとくれ!」
何だかわからないが、とりあえずニーナは椅子から飛び降りて姿勢を正す。「いい子だねぇ」とシアンが頭を撫でた。
「僕も何か……」
「うるさい、出て行きな。何の役にも立たないんだから」
「あ、はい」
そそくさと退散したミズノを見て、ふっとシアンは笑う。それからニーナに向かってウインクを一つした。
「さあ、綺麗にしようねえ。埃ひとつも許してやるもんか。そうしたらニーナ、これからはあんたが毎日掃除してやんだよ」
「うん……!」
シアンの言う通りに、バケツを持って行ったり来たりして、時にはモップを持ち、時には雑巾を持った。
「最近は特に顔色が悪いからねえ……不衛生で死ぬ生命力の男はあたしも見たことないが……ないと言い切れないところが何とも」
ぶつぶつと言いながら、シアンは棚の下の埃を払っている。
「しっかし、何だいこの白い……羽? 随分と落ちてるね、いつから動物なんて飼い始め……て……?」
ハッとした様子で、シアンがニーナを見た。何だかわからなくて、ニーナは首をかしげる。「おいで」とシアンが手招きして、近づいて行ったニーナの翼を撫でた。それから目を丸くして、シアンは自分の手を眺める。
「ワーオ。すっごい抜けるじゃん。え、生え代わりの時期? 嘘でしょこんな寒いときに。それともいつもこれぐらいは抜けるの……?」
村娘のように口元を手で覆って、「えー、嘘でしょ」とシアンはニーナのことを見ていた。何だか委縮してしまって、ニーナは肩をすぼめる。やがてシアンが、気を取り直して「あんた、こっち来な」と言ってニーナを抱き上げた。
「あんたの羽根は自分で洗えるの?」
「ええっと……届くところは」
「やっぱり。ダメだねえ男は、そういうことには本当に無頓着なんだから。おいで、うちのお風呂に入れたげる」
何か言う暇もなく、ニーナは風呂場へ連行され、服を脱がされ、気づいたらシャワーを浴びていた。シアンは後ろで、丁寧にニーナの翼を洗っている。「お風呂はうちで入りなよ、ちゃんとあたしが洗ったげるから」とシアンが言った。恥ずかしくて黙るニーナに、それでもシアンは丁寧に丁寧に羽根を洗ってくれる。
浴室を出ると、シアンがブラシで梳きながら翼を乾かした。昔、母にそうしてもらったのを思い出して、ニーナははにかむ。
「あのね、シアン」
「何だいね」
「シアンのこと、お母さんみたいで好き。好きでいていい?」
「……。……もちろん」
どこか寂しそうに目を細めて、シアンはもう一度「もちろんだよ、わざわざ聞くんじゃない、馬鹿」と優しく言った。嬉しくなったニーナが「シアンは、ミズノのことが好きなの?」と尋ねると、「嫌いだったらこんなには世話焼かないだろうね」と答えがある。
笑うニーナの鼻をつまんで、冗談みたいにシアンは「あたしはあいつに命助けられてるから、まあ何してやんのも苦じゃないのさ。あいつのこと、好きだしね」と笑って見せた。
「シアンも?」
「ん……そうだね」
懐かしむような顔をしたシアンが話し出す。
「あれが引っ越してきたころ、あたしは押し入り強盗にあってね。あやうく殺されるところだったんだが、たまたま家に帰るとこだったあいつが強盗をやっつけてくれたんだ。
……いやぁでも、あたしにはミズノの方が怖くてね。だってありゃあ……本当に強盗なんか殺す勢いだったからさ、いやそれはいいんだ。あたしは思わず、『命さえ見逃してくれれば、そこにある金品は全部持ってってくれていい』と言った。そしたらあいつは、少し傷ついたような顔をして『いいえ』とだけ言って帰ったんだ。
その後であいつが軍人だったことを知って、あたしはなんて失礼なことを言ったんだろうと思った。それからだね、あいつとの付き合いは。ちょっと付き合ってみると、放っておけないしねえ、あの男」
しみじみと話すシアンに、ニーナは『うんうん』とうなづいた。可笑しそうに笑い声を漏らしたシアンが、最後にニーナの翼を撫でて「よし、終わり。おさがりの服をあげよう、ミズノをびっくりさせるんだよ」と愛しげにつぶやく。
家に帰ると、もうミズノも戻ってきていた。目が合うなりニーナを指さし、「服を貰った?」と端的に確認してくる。うなづくと、「シアンにはやってもらってばかりだ」とため息をついた。
それから、ニーナを呼び寄せてミズノは目線を合わせる。
「あれ、シャワーを浴びましたか。いい匂いがしますね」
「うん」
「羽根も綺麗だ」
「うん」
「天使様かな?」
思わず、ニーナは「えへへ」と照れ笑いを浮かべてしまった。途端にミズノが目を丸くして、いきなりニーナの頬を両手で挟んだ。そのままつまんで揉んだり引っ張ったりする。
「ミズノ~~~! なに~~~!?」
そう叫ぶと、ミズノは驚いた顔でパッと手を離した。
「すみません」
「もう! 痛いでしょ!」
「あの、本当にすみません。とても、その」
「なに?」
「可愛かったから」
「かわ、い……」
ニーナはひどく赤面して、
ベッドの下に潜ってしばらく出て行かないことにした。慌てたミズノが何度呼んでも、出て行かなかった。
チェルコと鉢合わせてしまったのは、ミズノが仕事に行っているお昼のことだった。食材の買い出しに出たニーナは、前から歩いてくる彼らを見て、上手く躱したつもりだったのだが。すぐに気付かれて、肩を掴まれてしまう。
「よお、チビ。探したぜ」
「はなして」
「冷たいじゃんか。俺ら、仲間だろ」
「お金、もってない」
じゃあ、と言ったチェルコがニーナの腕から買ったばかりの食料を奪った。「これでいいよ、ありがとな、ニーナ」と意地悪に笑う。
「かえして!」
「お前だけがいい思いできるわけないだろ。俺らにちょっとは分けろよ」
「それは、ミズノがはたらいて、それで買えた食べものだもん。あなたたちにあげられない」
鼻で笑ったチェルコが、「お前、あの軍人に身体売ったわけ?」と肩をすくめた。
「アハハ……戦争で頭おかしくなっちゃって、お前みたいなガキに欲情するようになっちゃった可哀想な軍人さん」
「ミズノのこと、言ってるの?」
「人殺しに尻尾振ってんのって虚しくなんねえの」
ぎゅっと拳を握って、「ミズノは人殺しじゃないよ」と反論する。その時だけチェルコは怖い顔で、「人殺しじゃねえか、軍人なんてみんな」と怒鳴った。思わず、ニーナはチェルコのことを睨む。
「ママは、わたしのママは、あなたたちを『悪い子じゃない』って言ってたけど、わたしはあなたたちのこと悪い子だと思う。ミズノをそんな風に言わないで」
それから、奪われた食料に手を伸ばして「返して、返してよ」と叫んだ。しばらくチェルコは呆然としていたが、やがて「どうしてお前の方が……」と呟いた。それは、怒りのような悲しみのような表情だった。
「こんなもの、いらねえよ」
そう叫んで、チェルコは食料を投げつけるようにしてニーナの胸を押す。大きく体勢を崩して、ニーナは道路に飛び出す形で転んだ。
迫ってくる車が見えた。ニーナはぼんやりと『せっかく買った食べものが、』と思いながら、それを見ていた。
病室に入るなり咳き込むミズノを見て、「ああ、まったく……走ってくるなと言わなかったかい?」と言いながらシアンが水を手渡す。マスクをずらして、ミズノは青い顔のままそれを飲んだ。
「ニーナは」
「まあねえ……」
「はぐらかさないで、ください」
「……頭打ったみたいで、いつ目覚めるかわかんないってさ」
ミズノが悲痛な顔で、包帯の巻かれたニーナの頭に手を伸ばし――――恐る恐る髪を撫でた。「まさか一人で買い物に行くとは思わなくて」と、シアンは言い訳のようなものを口にしてしまう。緩やかに首を振ったミズノが「それはこの子なりの気遣いだったのだから、悔いるのはこの子に失礼だ」と柔らかく言った。
「ミズノ……」
「ニーナのことを見ていてくれますか」
「どこに行くんだい」
「僕は、」
ふっと、ミズノは目を伏せる。「僕はダメだなぁ、本当に」そう呟いて、病室を出た。
ニーナの手を握って、シアンは。
いつだったか、強盗を退治した後のミズノの顔を思い出していた。あの、傷ついたような自虐的な表情を。
シアンはニーナの手を祈るように握りしめ、そして。
「すまないね、ニーナ。あの馬鹿のところに行ってくるよ、あんたの代わりに」
そう囁いて、シアンも病室を後にした。
息を切らしながら、シアンは「あの馬鹿、何度走るなと言ったらわかるんだろうね」と毒づく。
「何だよ」と悲鳴を上げる少年の声が聞こえて、立ち止まった。道の真ん中で、数人の子供たちが倒れている。その中のリーダーらしい子供を、ミズノが右腕で持ち上げてナイフを突きつけていた。
少年は大声で喚きながら、手足をばたつかせている。一方でミズノは、その少年の処遇を決めかねているようで、ただぼんやりとその様子を見ていた。
「あ、あのガキは勝手にこけて撥ねられたんだ! 俺のせいじゃない!」
「どうしてあの子を不幸にしようとする?」
「不幸にだって? いいカモだから遊んでやってるだけだろ」
何も言わず、ミズノが叩きつけるように少年を離す。少年は、腕を押さえながらミズノを睨みつけた。ミズノが口を開く。
「あの子の母親のように、最後にはあの子を死なせるつもりなのか?」
「俺が、あのガキの母親を殺したって? 何の冗談だよ」
「お前に売るようそそのかされて翼を切った時に、感染症にかかって死んだ……そう聞いた」
少年は何か皮肉を言う時のように唇を歪めてから、しかし何も言えないままで「え……?」と情けないほど呆けた顔をした。しばらくぼうっとした後で、いきなり歯軋りをする。
「……それだって、実際人を殺したやつよりマシだよ」
ミズノが、表情を変えるのが見えた。少年はちょっと笑って、「あんた」とどこか下卑た言い方をする。
「何人殺したんだ。わかるだろ、その分たっぷりご褒美貰ったんだろうからさ。戦場にいりゃあ、女も子供も関係なく殺したんだろ?」
僅かに口を開いたミズノが、少年に近づいて目線を合わせた。じっと少年の目を見て、素早く、その首に手をかける。
「お前のような子供を守るために戦ったとは、思いたくないな」
とっさのことで、シアンもそれを止められなかった。少年の目にはありありと恐怖が浮かんでいる。シアンは、恐らくそれと同じものが、自分の中にも生まれただろうと思った。その時のミズノの声は、一度も聞いたことがないほど冷たかったから。震えて、シアンはその場に足を止めてしまう。
首を絞められながら、少年は悔しそうに涙を落とした。
「ったんだ……お、れは」
怪訝そうな顔をして、ミズノが力を緩める。
「好きだったんだよ……俺は、あの人が好きだったんだ……!」
ゆっくりと、ミズノが手を離して立ち上がった。ひとしきりむせた後で、少年は叫ぶ。
「俺に金があればいくらだって助けてやった! でも、俺には何にもなかったんだ、だから、何かしてやりたくって、翼を売るのはいい考えだと思った。金になるし、翼さえなけりゃあ、あの人だって働ける。だから俺は言ったんだ。それであの人は、その通りにした。お礼だって言ってくれた。
なのに……なのに!
せっかく出来た金を、あの人は全部娘のために使っちまって、自分は少しずつ弱っていってとうとう死んだんだ。
なんだって……! なんだって、そうなるんだよ……! なんであの人が死んで、あのガキの方だけ生きてんだよ!」
うつむき、拳を握りながら、「俺のせいかよ」と少年は呟いた。
「俺のせいなのかよ。俺があんなこと言わなければ、あの人は幸せでいられたのか?」
そうして号泣しながら、少年が両手で地面を殴りつける。見ていて痛いほどに、殴る。
「そうじゃないだろぉ!!!」
泣いて地面に伏せりながら、「どうしたって幸せになれなかったんじゃないか、どうすりゃよかったんだよ。どうすりゃよかったんだよ!」と何度も喚いた。
ずっとそれを見ていたミズノが、眩暈を覚えたような顔をして後ずさる。「やめろよ」と頭を押さえながら言った。
「それ以上、俺に無駄だったと思わせないでくれ。俺たちは、こんな……」
「無駄じゃねえか! 戦争が全部食い散らしてんだ。
俺たちにだって幸せになる権利はあるのにそれが回ってこないのは、あんたら軍人が、戦争の間中ずっとそれを消費し続けてるからだ。あんただって敵の兵だけじゃなく、女子供を蹂躙して奪ったもんをいい気になって食ってたんだろう?
俺に、国なんて関係ないね。敵も味方も関係ないね。俺の家族を殺したのはあんたと同じ軍人だったし、全ての貧しさはあんたらがずっと戦争なんてしてるせいだ。それならそれで、責任とって戦場で死んじまえばよかったんだ!」
頭を抱えて、ミズノが何か言う。それは聞こえなかったけれど、とにかくシアンは一歩踏み出して「ミズノ」と呼んだ。もっと早くに、止めるべきだったのに。そう悔いながらも、「帰ろ」と声をかける。途方もなく疲れた顔で、ミズノは顔を上げた。
その時、シアンの後ろから「なーにしてんだ、そこ!」と鋭い声が響く。振り向くと、警官服の2人組が、こちらに駆けてくるところだった。まずい、とシアンは思いながら「何でもないです、お巡りさん」と行く手を遮る。しかし、間髪入れずに少年が「こいつ、俺のことを殺そうとするんだ」と助けを求めてしまった。
警官の一人が、驚いた顔をしてもう一人に銃を出すよう合図する。
「本当かい……? ダメだなぁ、子供を苛めちゃあ」
違うんです、と言おうとするシアンを遮って、「はい」とミズノが答えた。
「さっき、殺そうとしました。今は殺そうと思っていません」
「ミズノ! あんた黙って!」
何とか状況を打破しようと、シアンは警官の前に立つ。
「撃たないで、お願い。この人は戦争に行ってきたんです。あまり体調がよくないの。ちょっとノイローゼがあって、よくわからないことを言ってしまうんです。それにあの子供とは、色々あって……」
銃を抜いたほうの警官が「所長、あれは最近越してきた退役軍人ですよ」と耳打ちした。所長と呼ばれた男は、見るからに色めき立って「あれが?」と聞き返す。それから、部下らしき男に銃を下ろさせ、こちらに近づいてきた。
が、数歩進んで立ち止まる。後ろで、部下らしき男が「こら、やめなさい!」と叫んだからだ。見ると、先ほどまで地面にへたり込んでいた少年が警官の銃を奪おうとしているところだった。
最後に警官の股間を蹴り上げて、少年は銃を手にする。それから素早く構えて――――
引き金は引かれた。
弾は真っ直ぐに、ミズノの腹を撃ち抜く。思わず、シアンは悲鳴を上げた。
膝をついたミズノが、自分の腹に開いた穴を見つめる。口元を押さえて、吐いた。吐瀉物の中に大量の血が混じっている。
それでもミズノは、ゆっくりと立ち上がって少年に一歩近づいた。また吐いた。今度は血だけを。そして、僅かに口を開いた。
「撃ち殺せよ。それで気が済むんだろう……?」
少年が肩を震わせた。そのまましばらく見つめ合い、少年の方が目をそらす。
今度こそシアンは、ミズノの前に立って彼の襟を掴んだ。「この……」と泣きながら怒鳴る。
「この馬鹿……! ここが戦場に見えるのかい!」
ミズノは驚いた顔をし、憑き物が取れたように「シアン」と言って笑った。そうしてゆっくりと、バランスを崩し、その場に倒れる。シアンは必死にミズノを抱き寄せて、「お巡りさん、見逃してください。死んでしまう」と何度も頭を下げた。
所長と呼ばれた男が、「こちらの落ち度もあるしなぁ」と言ってため息をつく。
「……早く病院に連れて行きなさい。彼が軍人であることで罪に問われるような社会に、私たちもした覚えはない。このガキは連れて行くがね」
そう言って警官たちは少年を連れ、去っていった。
残されたシアンは、意識のないミズノを抱きしめる。
「馬鹿だね、本当に。あんたがいなきゃ、ニーナが悲しむに決まってんだろう。あの子を泣かせたいのかい、ミズノ」
呼吸が熱い。戦場は大抵、酸素が足りなかった。
『なぜ戻ってきた、奴らを殲滅したのか』
そう、上司が怒鳴っている。俺は首を横に振りながら、「抵抗の意思なし」と報告した。上司は一瞬何か考えていたが、すぐに顔をしかめて『いいからやれ』と言う。
『我らにも、捕虜を連れ帰る余力はない。野放しにもできないのだから、殺せ』
途方に暮れて、俺はただ首を横に振り続けた。殴られても、そうした。鼻血が出て、初めて俺は「何のためにこんなことを」と口を出す。
『何のためにだと?』
上司が、俺の襟を掴んで絞めた。
『
……生きるためだろうが。全員が、生きて帰るためだろうが!』
ああ、そうか。あなたまでそんなことを言うのか。あんなに、国を守るため戦うと言ったあなたが。結局、自分たちが生き残るために殺すのだと。
わかっているとも。俺だって生きて帰りたかった。
だけど、何のために生きればいいのかということだけは、誰も教えてくれなかったな。
戦場に帰りたいよ……そうだ、俺たちはあそこで死ぬべきだったんだ。
目を開けると、全てが白かった。ミズノは辺りを見渡し、そこが病室であることを知る。
「ミズノ」と声をかけられて、瞬きをした。口を開き、喉を震わせる。
「シアン……ごめん」
シアンは一瞬怒ったような顔をして、すぐに悲しそうに目を細めた。それだけだった。
片手で顔を覆って、「本当にごめん」とミズノは呟く。指先が濡れた。自分が泣いていることに気付く。
「情けないな。本当に。僕は僕なりに、守りたいものを守れたと思って帰って来たんだ。帰れる場所なんてどこにもなかったよ。僕らのせいで不幸な人だっていた。どうしてこんなに情けないんだろうな。ニーナのことだって、責任を持てるはずないのに。僕はどちらにせよ長くない。こんなことならあの少年の言う通り、戦場で死んでおけばよかったね」
誰も、何も言わない。代わりにミズノの押し殺すような泣き声だけが病室に響いていた。
「だけど」と声がする。
それは、ミズノの声でもなければシアンの声でもない。
「だけど、生きているあなたはわたしを助けてくれたよ」
ミズノはハッとして、声の主を見る。「……にーな?」と呼びかければ、ニーナは彼のベッドに肘をついて「やっぱりミズノの方がねぼすけさんだったね」と笑った。
そっと手を伸ばして、ミズノはニーナの曲がった翼を撫でる。「痛かったろうね」と囁けば、「あなたほどじゃないよ」とニーナは目を細めた。
「ねえミズノ、いつかわたしをお嫁さんにしてくれるでしょ? してくれなきゃイヤだからね。あなたが、わたしのことを幸せにしてくれるの。わたしが、あなたのことを幸せにしてあげる」
歯を食いしばって、ミズノが泣く。時折声をあげて、子供のように。ニーナはそんな彼のそばで、いつまでも笑顔を見せていた。
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