ミズノとニーナ

hibana

ミズノとニーナ

  かつてこの世界には、神があったという。

 宝石のような姿かたちをしていて、美しく、そして硬かった。

 普段は全くの無言を貫いている、ただの石であったと記録されている。だがその石は、それを信じる者の願いを問答無用に叶える奇跡の石だったのだ。


 かつて一つの神を信じた徒は、その石を手にした時、信じるままの神をそこに顕現させた。

 願いはただ一つ、全ての人間の幸福であった。

 それは、際限なく、何の条件もなく、近くにいた人類の願いを叶え続けた。


 空は赤くなり、黄色くなり、黒くなった。魔法が生まれた。海の底に国ができ、雲の上にも世界が広がった。ある人は鳥になり、ある人は魚になった。ある人は永遠の命を手に入れ、ある人は望まれて死んだ。その場に世界の崩壊を願う人間がいなかったことは、幸運であったと言っていいだろう。


 世界は、神の顕現の一秒後、混乱に陥った。


 限りのない人類の欲望は、世界を壊しかねない。

 すぐ、神は永久に閉じ込められた。そして二度とこのようなことが起こらぬよう、この世界ではあらゆる信仰が禁じられた。何かを信じる心が、いつかまた神を呼び戻すと危惧されたのである。これは、まったく意味のない規制であった。


 激しい信仰弾圧の中で、迫害の中で、人々は殊更に救いを求めたのだから。


 かくして神は再び顕現し、そして人々は、今度こそ神を完全に破壊した。

 誰もが信じる心を自由に持ってよいとされる世界のために、本来信じるべき神を否定しなければならなかった。


 そんな時代があった。この戦いについては、別の機会に語られるだろう。


 そして神のいなくなった現代、世界は混沌とし、不安定であった。未だ強く残る宗教差別と対照的に、反動のように生まれる多様な宗教観。神の残した後遺症。魔法が消え異人と蔑まれた、姿かたちが人間と違う者たち。どこもかしこも戦争が絶えず、かつて同じ文化だった国がいくつにも分かれ、それを治めるものもいない状況。


 これは、そんな世界の隅で生まれた物語だ。かつて神に置いて行かれた愛し子の末裔と、世界に弾かれた男の、それでも生きた記録である。







 母は、ニーナの白い羽を撫でながら言った。『あなたには幸せになる権利がある』と。

『周りが何と言おうと、誰にだって幸せになる権利がある。人を愛し愛され、美味しいものをたくさん食べて笑ったり、綺麗なお洋服を着たり、素敵なお話を読んだり、そういう未来を選んでいいの。あなたにも……あなたには、幸せになる権利がある』

 それは、母が病気で死ぬ数日前のことだった。


 ニーナ=ディオン。それが少女の名前である。遠いむかし神に創られた、鳥と人間の合いの子――――その子孫だ。背中には、眩しいほど白い翼が生えている。ニーナの母にも翼はあった。もっと遡れば背中だけでなく体中が羽毛で覆われていたそうだが、今では背中から生えた翼だけが鳥らしい部分だ。

 あらゆる差別主義から逃げてきた者たちの最後の砦のようなこの街で、それでもニーナたちのような異人には仕事すら与えられなかった。住む場所もなかった母娘は地下鉄のホームで眠った。母は翼を売ってお金を稼いだけれど、その時に感染症にかかって死んでしまった。

 ニーナは、一人ぼっちだった。


「わたしは、幸せになっていい。いつかきっと幸せになれるはず」


 膝を抱えて、何度も繰り返す。


「……さむいよ、ママ」


 凍った道路で車がスリップするような季節だった。少女は見向きもされず、ぼろきれのような布をまとっただけで、その晩に凍死してしまうだろうと思われた。

 少女が死ねば、他の貧しい誰かがその翼を刈って売るだろう。そうして世界は廻っていく。これはただ、それだけの話なのだ。仕方のないことだったし、誰も彼女が生きることを望んではいなかった。


 それなのに、


 そんな見捨てられた子に、手を差し伸べる男がいた。


 不意に温もりを感じたニーナは、朦朧としながらも手に握らされたものを見た。あたたかい飲み物だ。そしてパン。だけれど温かいと感じたのは、どうやら肩にかけられた厚い布のせいだったようで。

 ニーナは顔を上げた。彼女の手を握っているのは、どこか疲れた目をしている男だった。


「君に、主の加護がありますように」


 その人の声は、少し震えていた。そしてニーナが何か言う前に、どこかへ歩いて行ってしまった。


 この街で。


 逃げてきた人らの集まる、この街で。追い出されれば他に行き場のない人ばかりのこの街で、人と違う行動をとるということは、どんなに勇気のいることだろう。ましてや、異人に手を差し伸べることなんて、どんなに。


 ニーナは泣きながらパンを食べた。飲み物は温かいポタージュスープだった。泣かないようにと堪えた。せっかくのスープが涙になって流れるのは、もったいないと思ったから。


 食べて、飲んで、布にくるまって、ニーナは一番寒い夜を越えた。朝日が差し込んできたとき、くるまっていたその布が、彼の衣服であったと知った。

 あの人は寒くなかったろうか。お礼すら言えていない。ニーナのような子から声をかけられることすら迷惑だろうが、どうしても『ありがとう』と言いたかった。ニーナは、彼を探すことに決めた。


 が、探すまでもなかったのである。翌朝、ニーナの寝床となっている地下鉄のホームに、大きなマスクをつけた彼がまた現れた。正確に言うと、彼はホームに降りてきてニーナの姿を視認し、すぐに引き返していったのだ。

 まるで避けられたような気持ちになって悲しかったけれど、ニーナはすぐに追いかけた。


 彼は少し速足で、なかなか追いつけない。駅を出たところで、彼が近くのコンビニエンスストアへ入るのが見えた。さすがに店内に入るのは気が引けて、ドアの隙間から中を覗く。しばらくすると、その店の制服を着た彼がカウンターに立った。


「ここで、はたらいてるひと……?」


 ニーナは困惑してしまう。もし本当に、彼がここで働いているのであれば、わざわざ地下鉄のホームに降りてくる必要は全くない。

 少し考えて、


 彼が今朝わざわざホームに降りて来たのは、ニーナの様子を確認するためだったのかもしれない――――


 そう思い当たった時、ニーナは手足をバタバタさせたいほど嬉しくなってしまった。やっぱり、どうしたって『ありがとう』と伝えたかった。


 悩んで悩んで、ニーナは彼のジャケットを羽織った。これで翼は隠せる。ジャケットは大きかったけれど、やはり翼を押し込めると窮屈だった。このままの状態で数時間もいたら、痛みで音を上げてしまうだろうと思う。ちょっとだけなら、と思って店に入った。

 彼はカウンターに立って、彼よりも若い人から機械の使い方を指導されているようだった。怒られているようでもある。それでも彼は鈍感なほどの無表情で、それを聞いていた。

 カウンターの中からは、死角になってニーナのことが見えないのだろう。近づいても、若い男はずっと彼に怒っていた。


「兵隊さんだって、これくらいできるでしょ。子供だってね、教えればできんだよ。……それとも、人を殺す方法しか知らないわけ?」

「すみません、もう一度だけ教えてください」


 ニーナは驚いてしまって、すぐにその場から遠ざかった。若い店員の怒鳴り声は、店の端まで行っても聞こえる。隣でくすくすと、笑い合う声があった。中年の男性たちだ。売り物の雑誌を読みながらカウンターを指さしている。


「あれが、退役兵の新人アルバイトかよ。世も末だね、なんで雇ったんだ?」

「用心棒代わりだろう、ここらも物騒だもんな」

「用心棒ったって…………あれで役に立つかぁ?」

「歳は俺らと同じぐらいだってのに……情けねえよなぁ」


 そう言いながら男たちは、何も買わずに店を出て行った。

 なんだかとっても気分が悪くなって――――それは決して翼を無理やり押し込めているせいではないと思うけれど――――ニーナも黙って店を出た。


 夕方、駅の前でニーナは彼のことを待つ。ニーナは働いたことがないからよくわからないけれど、朝から働いたら夕方ごろには終わるのが普通だと思っていたからだ。彼のジャケットで翼を隠して、しばらく待った。ずっと待った。

 すっかり日が落ちて、本当に気分が悪くなってしまった頃、ようやく彼が店から出てきた。

 ニーナは慌てて、彼を呼び止める。


「あのう!」


 ほとんど動かない彼の表情が、眉だけわずかに上がったように見える。ニーナは何とか気の利いたことを言おうと「ええっと、その」と逡巡はしたが、諦めてただ「昨日はありがとう、とってもあったかくて、ひさしぶりのご飯だった。本当にありがとう」とだけ恐る恐る言ってみた。彼は目を細めて見ている。


「あのう、ええっと……これも返します」


 そう言ってジャケットを脱ごうとした時、初めて彼が口を開いた。


「よければ着ていてください。まだ、寒い日が続くから。僕はあまり寒さを感じないんです」


 それから、と彼は続ける。訥々とした喋り方だった。

「僕にはあまりお金がありません。これ以上のことはできない。すみません」

 頭を下げるその人に、ニーナは慌てて「ちがう」と首を振る。

「わたし、お礼を言いたかったの。それだけ。服……ありがとう。パンとスープも」

 少しだけうつむいて、ニーナは手を閉じたり開いたりした。「……でも、どうして助けてくれたか聞いてもいい?」と尋ねてみる。彼はどこか厳しい目をして、眉根を寄せた。「やっぱり何でもないです、ありがとう」と言いながらニーナはすぐに踵を返す。


「……世界中のどこにも」


 驚いてニーナが振り向くと、彼は真っ直ぐにこちらを見ていた。どうやら、声を発したのは彼らしい。


「寒さと飢えで死んでいい人はいません。僕はそう信じて、戦争に行きました」


 その目はどこか――――ニーナの母と似ていた。

 ニーナは彼のことを何も知らない。何をしてきたのか、何を思って生きているのか。だけれど、きっと誰よりも生きづらい人なのだろうと思った。

 大きく手を振ってニーナは、


「ありがとう、軍人さん」


 とまた言った。






 彼から貰ったジャケットを着て、ニーナは靴磨きの仕事をするようになった。技術も道具もないけれど、憐れみもあってか1日に一人くらいは客が足を止めた。そのたび、雀の涙ほどもないコインを持って彼のコンビニに顔を出した。彼は仕事に慣れたようで、いつも一人でカウンターに立っていたり、品物を並べたりしていた。

 二人は視線を交わすけれど、会話はしない。ただそこにいるということを、確認するだけだった。


 そんな日々が続いた。ある日、


「この前まで死にそうだったのに、ずいぶんと元気そうじゃねえか」


 同じストリートチルドレンの少年たちに絡まれた。チェルコという少年をリーダーとするそのグループのことは、ニーナもよく知っている。ニーナの母に、その翼を売るよう唆した少年たちだ。


「ええ? お前が死んだらその翼、売って俺たちのメシ代にしてやろうと思ってたのに、何だよ何だよ。靴磨きなんか始めちゃってさ。誰も異人なんかに磨いてほしかねえっつうの。それを隠してやるんなら、そりゃ詐欺だぜテメエ。詐欺を働くやつは刑務所だ、わかっかよ、鳥人間。わっかんねえか、脳味噌も鳥程度しかねえって噂だもんな」


 鳥に失礼だぞ、と仲間が嘲笑する。

「ごめんなさい」と呟いて、ニーナは後ずさりした。意地悪な少年たちだけれど、ニーナの母が生前「可哀想な子たちなのよ、戦争で家族を失くした子たちだわ」と言っていた。だからニーナは、彼らのことが苦手でも、嫌いにはなりたくなかったのだ。

 逃げようとするニーナの腕を掴んで、チェルコが「金、持ってんだろ」と囁く。青ざめた顔で、ニーナはその腕を振りほどこうとした。ダメだった。チェルコはただ怒った顔で、「服の中か?」と言いながらニーナの服を無理やり破いた。


「やめて。おねがい、昨日もなにも食べてない」

「馬鹿だな、お前に生き延びる意味なんてねえだろ」


 そんなことはない、と言いたかった。声を大にして言いたかった。


“周りが何と言おうと、誰にだって幸せになる権利がある”

“人を愛し愛され、美味しいものをたらふく食べて笑ったり、綺麗なお洋服を着たり、素敵なお話を読んだり、そういう未来を選んでいいの”

“あなたには、幸せになる権利がある


 だから、わたしは幸せになっていいんだ。その権利があるんだ。

 そう叫びたかった。


「た、すけて……!」


 ほとんど裸にされながら、ニーナは遠くから走ってくる足音を聞いた。その足音の主は、やはりどこか震えるような声で「何をしてるんだ」と少年たちを怒鳴りつけた。


(あの人だ……)


 チェルコたちは卑屈な笑顔を浮かべて、「こんにちは、軍人さん」と下手な敬礼をしてみせる。


「もしかしたら軍人さんからは、俺たちがいたいけな女の子を苛めているように見えているでしょうが、ほら……このガキは異人なんですよ」


 そう言いながらチェルコが、ニーナの羽を無理やり広げて見せた。あまりの激痛に、ニーナは悲鳴を上げてしまう。

 彼は黙って近づき、チェルコの頬を平手で打った。


「僕の友人だ。今後またこんなことをしてみろ、二度と笑えなくしてやる」


 始めて聞いた、きっぱりとした声だった。


 それから彼は、脱ぎ捨てられたジャケットをニーナの肩にかけ、そしてその手を取って歩き始めた。


「あ、あの、軍人さん?」

「いいから歩いて。ちゃんと前を隠すんだよ、人に見られてしまう。君は女の子なんだから」


 チェルコたちは追いかけてこない。辺りはもう真っ暗だ。ここは公園だろうか、ほとんど駅の付近から離れたことのないニーナは、物珍し気にブランコなどを見る。

 ふと彼を見上げると、彼はひどく顔色を悪くして口元を押さえていた。


「どうしたの……?」


 そう問いかけると、彼は顔を背けて咳をする。一つ二つ咳をして、止まらずに喘ぎながら咳き込んだ。うずくまってまで、ずっと咳をしている。


「ぐ、軍人さん!」


 街灯に照らされた彼の口元から、血の混じった涎が垂れた。「血が……」と思わずニーナまで顔色を悪くする。彼はニーナの腕を引っ張って、「大丈夫」と何とか言った。


「咳をしすぎると、喉の奥の方を痛めて血が出るんだ。病気じゃない。伝染うつるものじゃないから……」


 そう呟いて、彼が立ち上がりふらふらと歩き始める。迷ったけれど、ニーナもその後をついて行った。一人にするには心配だった。

 やがて彼は、小屋のような建物の前で立ち止まり、何も言わずに中へ入っていった。ドアを閉めもしないまま、中で倒れこんでいる。思わず駆け寄っていって、しかし自分だけでは手に負えないことと知り、ニーナは途方に暮れた。迷っている時間はない。

 走って外に出て、ニーナは隣の家のドアを叩いた。


「ごめんください、ごめんください。どなたかいらっしゃいませんか」


 ドアが壊れるか、自分の手が壊れるか、痛いほど叩きながらニーナは人を呼び続ける。ドアが、開いた。


「んん……何だいね、こんな時間に」


 寝ぼけたような顔で出てきたその女性は、それでもニーナを見て顔もしかめずに目線を合わせてくれる。

「あの、隣の家の……その、えっと」

「ミズノかい」

「たぶん……そう……それで、せきが止まらなくって」

 女性は「ああ」と合点がいったようにうなづいて、ニーナについてきてくれた。部屋に入った彼女は、勝手知ったるという雰囲気で棚から何か取り出し、水と一緒にそれを彼に飲ませる。


「ミズノ、起きな。薬はもうこれで最後だからね。ほら、ベッドに行くんだよ」


 朦朧としながら、彼が立ち上がった。その肩を支えながら、女性がベッドまで運ぶ。慣れた手つきで彼の額に何かシートを貼った。


「この人ね、戦争で肺を悪くしたのよ。静かにしてれば大丈夫なんだけどね、ちょっと走ったり大きな声を出すとダメなの。薬も高いしね」


 それを聞いて、ニーナは眼前が真っ暗になったような感覚を覚える。「わたしのせいだ」と呟けば、女性は首をかしげてニーナをじっと見た。

「知らないけど。でも、あんたのおかげでそいつは今、ベッドにすやすや寝てんだよ」

「え?」

「あんた、異人なんだろ。知らないやつを頼って、ひどい目にあわされるかもしれないと思わなかったのかい」

「それは……ちょっとだけ、こわかったけど、それどころじゃなかったから」

「あんたはこわかったけど、それでもあたしのことを呼びに来た。だからミズノを助けられた。あんた勇敢じゃないか、あたしはそういう子が大好きだよ。おいで」

 女性はニーナの肩や腕を確かめるように軽く叩いて、苦笑いしながら「細いね」と言う。


「あたしはシアン。あんたは」

「ニーナ=ディオンです」

「そうかい、誰に服を破られた? あたしのお古をあげよう、もういらないものだから」


 シアンはわざわざ服の背中のところに二つ穴をあけて、ニーナに着せてくれる。不思議なことに服はニーナの体にぴったりで、暖かかった。はしゃぐニーナを見て、シアンはどこか懐かしげに笑っていた。

「うちも裕福ではないからね、いらないものしかあげられないけど、我慢しておくれ」

「我慢だなんて! とってもすてき。ありがとう」

「いいんだよ。さあ、あんたとミズノがどういう関係かわからないけど、目が覚めるまで一緒にいてやんな」

 最後にニーナの髪を撫でて、シアンは帰っていった。


 残されたニーナは、眠る彼の横顔を見つめる。もう呼吸はだいぶ穏やかになっているけれど、表情は苦しそうだった。早く目覚めればいいのに、と思いながら頬杖をつく。静かな部屋。時計の音すら響かない。ニーナはいつの間にか、眠りに落ちていた。


 朝、ニーナはシャワーの音で目を覚ました。窓の外はもう明るい。足音が響いて振り向くと、濡れた髪をタオルでぞんざいに拭きながら彼が顔を出した。

「……おはようございます」

「あ……おはよう」

 ぎこちなくそう挨拶をして、ニーナは「大丈夫?」と尋ねてみる。彼は肩をすくめて、「大丈夫です、ありがとう」と答えた。


「ええっと……わたし、ニーナ。あなたは、ミズノ?」

「はい。シアンが?」

「そう。とってもいい人。わたしに服をくれた。それで……あの、昨日はごめんなさい」

「こちらこそ」


 短くそう喋って、ミズノはすぐ姿を消してしまう。奥の方で何か物音がして、しばらくすると何かを皿にのせてまた現れた。


「パンと……たまご」

「どうぞ」


 びっくりして、ニーナは思わず首を横に振ってしまう。

「こんなの、わたし、もらえない」

「その卵、今日までしか食べられないんです。僕はあんまりお腹がすかないから」

 何でもないことのように、彼は言う。ニーナも、結局は空腹に勝てずにそれを食べた。それから、ため息をつく。


 どうしよう。どうやって返そう。『ありがとう』なんて言葉じゃ、到底足りない。


「僕は仕事に行かなくちゃいけません。君は……好きなように。出て行っても、この部屋にいてもいい。僕としては、あまり責任が取れるわけではないから、手助けぐらいしかできないけれど」


 食べ終えたミズノは、忙しなく仕事へ出て行ってしまった。それを見送った後で、ニーナは考える。

 自分がこれからどうするべきか、どうしたいのか。


(お礼がしたいなぁ、なにか)


 そう思って、ニーナは家の中を見て回った。ニーナのできることは靴磨きぐらいだが、あいにくミズノの持っている靴は、いま彼が履いて行っている一足だけらしい。掃除もしたけれど、勝手なことをしているようで気がひけた。

 あと、できることと言えば。


 いつだったか、まだ父が生きていたころ、ニーナたちは小さくも可愛らしい家に住んでいた。そのころ母は、ニーナによく料理を教えたのだ。

 そうだ、あのトマトスープを作ってあげよう。彼はなんだか、栄養の足りていなそうな顔色をしていたし。

 家にある材料を勝手に使う気にはなれなかったので、なけなしのお金で材料は調達した。たとえ明日飢えで死ぬことになったとしても、それでもそうしてあげたいと思ったのだ。


 くつくつと、野菜の煮える音がする。あたたかな匂いに包まれて、ニーナは軽く目をつむった。とても懐かしい気持ちになる。まだ、ほんの数年前だ。こうして家の中で料理をしたのは。とてもとても、遠くへ来てしまったような気がする。

 そうだ、あの人は大丈夫だろうか。そろそろ帰ってくるころだろうか。


『この人ね、戦争で肺を悪くしたのよ』


 ぎゅっと、拳を強く握った。

 そうまでして戦った人が、誰にもお礼を言われないまま虐げられている。

 なんだかみんながみんな、ぼんやりと悲しんで生きているみたいだ。


 どこかで倒れていたりしないでほしい。そう思いながら、ニーナは鍋をかき混ぜた。


 帰ってきたミズノは、ニーナを見て微かに驚いた顔をする。それは何というか、『いたんだ?』というニュアンスの表情だった。それからふつふつと温まっている鍋を見て、今度こそ『度肝を抜かれた』という表情をする。


「こ、これは君が……?」

「うん! ああ、でも大丈夫よ。おうちにあった食べ物は使ってないからね。わたし、お礼がしたくて」


 どぎまぎしながら言い訳をすると、ミズノはじっと鍋の中身を見ながら「勿体ないことを、しちゃいけない」と言った。それはどこか厳しい声だったので、ニーナはうつむいて「ごめんなさい」と呟くしかなかった。

 困っているのか呆れているのか、よくわからない顔でミズノはスープをよそう。具なんてほとんど入っていないトマトスープだ。器を前に手を合わせ、何か呟いてからミズノはそれを口に運んだ。

 ゆっくりと飲み込んで、ミズノはふっと――――口元を綻ばせた。それから器に残ったスープを飲み干して、また鍋からよそう。目を伏せたミズノが「美味しいよ」と言った。


「今、笑った?」

「……すみません。とても……そう、ですね。美味しくて……? 違うな。たぶん、とても、嬉しかったので」


 君も、とお椀を差し出そうとするミズノに、ニーナは思わず首を横に振ってしまった。少し赤面しながら、「あなたにぜんぶ、食べてほしい」と伝える。

 ニーナの方が困惑してしまうほどに、ミズノはその表情を凍りつかせた。片手で顔を覆いながら、「参ったな」と呟く。それは引きつった笑顔にも見えたし、痛みに耐える表情にも見えた。


「本当に僕のために、作ってくれたんだね」

「ええ」

「どうして」

「お礼に。たくさん助けてもらったから」


 ミズノは完全に黙ってしまって、そのまま動きもしない。何だか悪いことをした気分で、ニーナは後ずさりながら「そのスープ、ちゃんと食べてね。わたし、ごめんなさい、もう迷惑かけないようにするから。たくさん、ありがとう」と彼の部屋を飛び出した。


 雨が降っている。彼のジャケットで、何とか雨を凌いだ。

 とぼとぼと歩く。裸足に雨は冷たい。

 ミズノも、シアンも、優しかった。あたたかくて、どこか寂しそうだったけれど素敵な人たちだと思った。ニーナはまた、一人ぼっちだ。

 次にチェルコたちと会ったら、どんな目にあわされるかわからない。もう、駅にも帰れない。

 どうしよう、と途方に暮れた。雨とは違う温かさが、頬を流れて行った。


 ママ、わたしは幸せになっていいのかもしれないけど、でも幸せになっていいはずなのに幸せじゃない人って、世界にたくさんいるのよ。私はきっと、幸せ待ちの順番はずっとうしろのほうで、いつ幸せになれるかわからない。ねえ、あの人たちは幸せになれるかなぁ。わたし、あの人たちのあとでもいいや。


 鼻をすんすんと鳴らしながら、ニーナは歩く。また一人ぼっち、また一人ぼっち。そう心の中で呟いては、空を見上げて泣いたりした。

 ぴちゃぴちゃと水たまりを踏む。足はもう真っ赤だ。


 ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃ。

 ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃ。

 ぴちゃぴちゃ、 びしゃっ。


 ニーナのものと違う、水たまりを踏み荒らす音。驚いて、ニーナは振り向いた。

 傘をさして、ミズノが立っていた。

 黙って、ニーナは見つめる。少し迷った素振りを見せながら、ミズノが歩いてきて傘を差し出した。「もし君が」と真っ直ぐにニーナを見る。そこには誰かに触れられることを拒む臆病さと、どんな暴圧も寄せつけない意思の強さがあった。


「もし、君がよければ……僕と同じパンを半分ずつ食べて、君の作ったスープを飲んで、そうして毎日を暮らしていきませんか。決して裕福ではないけれど、僕たちにはそれで十分だと思ったんです。本当に、もし君がよければ」


 ニーナはうつむいて、ただ涙を落とす。雨の中で膝をつき、彼が目線を合わせた。

「ダメ?」なんて言ってミズノは顔を覗き込む。手の甲で必死に涙をぬぐいながら、ニーナは首を横に振った。

 ダメなわけ、なかった。


「わたし……そんなに幸せになって……いいのかな」

「幸せになっちゃいけない人がいるんですか?」


 そう言って、ミズノがニーナのことを抱きしめる。「ぬれちゃう」と離れようとしたけれど、「君だけが濡れていていいはずはない」と抱き上げられた。


「それに君だけびっしょり濡れて帰ったら、僕がシアンにたくさん怒られます」

「シアンに?」

「はい……。もうずいぶん怒られました。僕は色んなことが下手くそなので、いつも怒られるんです」

「……ふふっ」


 ミズノの腕に座るような形で抱かれているニーナは、傘越しに夜の空を見る。思わず、「あっ」と指をさしてしまった。ミズノも、つられて空を見る。

 雨はいつの間にか、白い雪へと変わっていた。「君の翼と同じ色だ」と、ミズノが言った。

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