第31話 最終話

 さぁ。過去の僕を殺してしまおう。

 特別することはない。語ることもない。

 だけど、これだけはやっておく必要があるのだ。

「もっしもーし」

 校舎隅の旧プールで、鉄製の扉に向かって話しかける。返事がなかったのは許可を貰えたと思うことにして遠慮せず入って行った。海住はプールサイドに腰かけていて、ひと泳ぎ済ませたところらしかった。髪が艶やかに濡れている。

 僕が来たことを分かっていながら無視してきたので背後から抱きしめると、全身に電流を流されたように飛び上がってプールの中へと逃げて行った。いてて、突き飛ばされたせいで腰を打ってしまったじゃないか。

「何するんですか!」

「それは僕の台詞。あ、いや、昔のことを思い出したから」

 話をしたいんだ、と彼女に告げた。

 海住は少し、結構、かなーり警戒しながらも僕の隣に戻って来た。

 旧プールは水底に当たった光が乱反射して、鮮やかな翡翠色に染まっていた。

「僕は死にたくなかった。けど、社会を殺し損ねたんだ」

 テロリストだったこと、そこに至るまでの簡単な経緯、その時に何を考えていたのかを簡単に説明した。全身に残る傷跡の理由が爆発だと知った彼女は、僕の背中をゆっくりと指でなぞった。見えない位置にも、痛みすらない傷があるようだ。

「それで、どうするんですか。その……記憶が戻ったんですよね?」

「あぁ。過去の僕を殺そうと思って」

 目を見開く。

「やいやいや、心配しないで。君が思っているようなことじゃないよ」

 膝が震える。逃げ出したくなる。だけど、その先には自滅しかない。

 ぐっと堪えて海住に手を差し出した。

 心臓が張り裂けそうに痛む。生の実感って奴だ。

 あぁ、今回こそは本当だとも。

「君と幸せになりたいんだ。その為に、君と一緒にいたい」

「………………」

「ダメかな。あ、一緒にいたいってのは、ほら、そういう意味だから」

「……突然ですね」

「うん。でも、ここを逃すと言えなくなってしまうから」

 過去の僕は死んだことになっている。

 裏を返せば、これからの人生は好き放題に正しく生きられるわけだ。間違ったことをしても、それを自分が正しいと信じている限りは真っ当な人生なわけだし。後悔しないためには、やれることとやりたいことを全部やらなくちゃいけないんだから、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。

「頼む」

「……もぅ、どうしよっかなー」

 などと言いつつ、彼女は僕の手を握った。惚れたものの常として、彼女の微笑みはこの世の誰のものよりも美しく見える。あぁ、外の社会に僕の居場所はあるのだろうか。彼女を幸せにできるのだろうか。僕が嫌ってぶち壊そうとした社会の荒波から彼女を守り切れるだろうか。

 でも、少なくとも、ここの院長なら、とまだ見ぬ誰かに期待を寄せる。

 僕を殺し、僕を活かし、僕に生を与えた誰かがいるのなら。

 あぁ。

 もう一度、生きてみたいと思う。

 痛くても生きたいと強く願う。

 昔の僕ならあり得なかった。今更戻ることなんて出来やしない。

 病んでいる方が、楽だと知ってしまったのだから。

 海住と握った手は指を絡め合って、さて、どうしたものかと考える。普通の恋愛譚ならラブロマンスのシーンが入るのだろうけれど、僕らにはまだちょっと早いような気もするし。ほら、まだ仲良くなる道中みたいな? でも、ちょっと肩を寄せてきた彼女がいじらしくて、照れながら抱き寄せたりとか、そういうことだけは出来て。

 幸せに胸が痛くなり、これからの不安に頭が痺れる。

 彼女の体温だけは確かなまま、時間だけが流れて。

 静かに、僕の腹が鳴った。

「……えー」

「ごめん、マジごめん」

「もー、雰囲気ないですねぇ」

「悪かったよ。でも調整できないもんはしょうがないだろ!」

「はいはーい。にひっ」

 海住がゆっくりと立ち上がった。

 大きく伸びをした少女から煌めく水滴が迸る。

「ご飯、食べに行きますか」

「うん。……その後で、職業訓練でも受けてみるかな」

 ま、その時の気分次第だけど。


 君と生きたいと願ってしまった。

 だから僕は、もう恋に病んでいる。


  <終>

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それでも僕は、病んでいる方が楽かもしれない。 倉石ティア @KamQ

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