終劇の襲撃。

第29話 本編 6 - 1

 この学園を出るために必要なのは、真っ当な社会生活を送るために必要なものだ。例えばそれは存分な資金であったり、誰かを真摯に想う心だったり、十全な健康だったりする。この学園に入院することを赦された僕たちが、生命と引き換えにしても守り通そうとしたものを捨てることによってのみ、ここを出ることを赦されるのだ。

 多分。

 というわけで僕は病んでいる方が楽だろうと思っていたのだけど。

「え、マジで?」

「あぁ」

「本当に退院するの?」

「おう。不肖、入間百々。この度晴れてこの学園を卒業する運びとなった」

 にこやかに笑った百々の部屋は、すっかり片付いている。

 僕と一緒に飲み明かしていた頃みたいに、空き缶が転がっていることもない。絵具で汚れていた床も、随分と綺麗に磨き上げられていた。

「えぇ……とりあえず、おめでとう。海住にも教えてあげればいいのに」

「や、アイツはおめでとうとか言ってくれないだろ」

「あー、それは一理あるね」

 今日は僕一人で彼の部屋に遊びに来ていた。というか、お呼ばれした。

 百々が猫田先生とよく一緒に行動するのをみかけるようになってから、既に一か月が経過しようかという頃合いだ。何か妙な雰囲気だったけれど、彼が隠し通そうとしていたのはこのことだったのか。

 外の社会に出るのが不安で僕と距離を置いていた……ってことでもないようだ。

「猫田先生も関係あるん?」

「なんでそんなこと聞くんだ」

「や、だって、気になるじゃないか」

 ここしばらく海住へのストーカー的恋慕がなくなっていたと思ったら、百々にべったりしているわけだし。いや、彼らが恋人関係にあるという確たる証拠をつかんだわけでもないんだけど、この部屋に遊びに来ると猫田先生のものらしき衣服が置いてあったりするものだから、つい詮索してしまう。

 へぇ、百々が。

 ふーん。

 ……意外だった。それしか感想が浮かばないのが、友人として少し寂しい。

「外に出たら何をするんだい」

「仕事だとよ。当分は経過観察も含めて施設の関係各所での労働をすることになるらしい」

「具体的には?」

「ま、工場とかの期間工だな」

「絵は描かないの?」

 僕の質問に、一ヵ月前の彼だったら迷うことなく首を横に振っていただろう。

 だけど、彼は変わってしまった。誤魔化すでもなく、恥ずかしがるわけでもなく、ただ困ったように首をひねるだけだ。頭の中で未来の自分を思い浮かべて、そこにいるべき自分というものをしっかりと見定めて、それからようやく、口を開く。

 僕は耳を疑った。

「分かんない」

「な、なんでさ」

「絵を描くのは楽しい。生き甲斐でもある。だけど、もう、これ以上の高みに上る必要がないって思っちまったからな」

 あんぐりと開けた口がふさがらない。出会った頃の彼からは想像もできない言葉を聞いてしまった。その心境の変化は猫田先生と出会ってのものなんだろうか、いや、そうとしか考えられない。でも、なぜ?

 ……あぁ。

 人生に、彼女ねこただけがいればいいと。

 そういう結末ゴールを認めてしまったのか。

「そっかぁ……」

「残念そうだな」

「うん、まぁね。君の絵、好きだったから」

 百々は目を丸くした。僕が発した言葉を想定していなかったように。

 彼の絵は結構、素直に褒めていたつもりだったんだけど、伝わっていなかったのだろうか。うーむ、友達としての資格をはく奪されてしまいそうだ。そんなことする奴じゃないとは思うけど。

「ま、連絡はするよ」

「? 施設に?」

「んなわけないだろ。ケータイ……あ」

 百々と目が合った。

 そうだ、ナンテコッタイ。

 この施設に来て、今日の今日まで問題にしていなかったことこそ問題だ。

 

 心の弱い人間ほどネットに依存してしまうということだろうか、それとも他の理由があるのかは知らないが、僕らはここに入院する際に携帯電話を取り上げられているのだ。いやまぁ、僕の場合は持っていなかっただけかもしれないけれど、ここの入院患者全員がスマホもガラケーも持っていないなんて有り得ないだろう。

 社会から隔離されている。

 それは、電脳世界についても同じだったわけだ。

「そういや、今日までケータイ使ってねぇわ」

「百々は持ってたの?」

「そりゃな。ま、ちょっと待ってろ」

 言うが早いか、彼は部屋を出て行った。残された僕は殺風景になった部屋で独りぼっちになる。彼が何処へ行ったのかを想像するのは容易い。恐らく、職員室だろう。あそこに常駐している先生たちに生徒の携帯をどこに保管してあるかを尋ねれば、まず答えが返ってくる。この施設に入所した時点で使わなくなるわけだし、解約されてても不思議じゃないけど。

 ただし百々がこの施設を出るってことが確定しているなら、外に出て必要になる携帯を使えないままにはしておかないだろう。その辺りの契約が各社との間でどういう風に取り交わされているのかは知らないけれど、ま、僕が深く考えるべきことじゃないし。

 ふぅむ、どうしたものか。

 手持無沙汰を言い訳に、彼の部屋を探索してみようかな。

「いやいや、ダメだろ」

 それは友人に対してもやっていいことではない気がして、五分ほど考え込んだ末に諦めた。僕は心の弱い人間だが、悪い人間になるつもりはないのである。多分、この身体に付いた無数の傷も、悪に対抗して出来た傷……だといいなぁ。

 ぼんやりと時を過ごす。

 ごろごろと床に転がって、もう一週間もすれば退去してしまいそうな――正確な日付は聞いていないのだ――百々との別れを惜しむ。退屈な時間に欠伸が漏れそうになった頃にようやく、百々が部屋に戻って来た。

「ただいま」

「おかえり、ってそれ」

「おう。俺の私物……だったものらしい」

「僕のは?」

「自分で取りに行けよ、と言いたいが。修一は持ってないらしいぜ」

 百々が自慢げに掲げたのは古い型のスマホだった。少なくとも一年は使い込んでいたのだろう、傷塗れになっている。

「充電器も借りたから大丈夫。うーん、パスワードは……」

 部屋のコンセントにプラグを差し込み充電を開始すると、早速、携帯の電源を付けた。振動と音に少しだけビビりながら、これから何をするのかとワクワクする自分がいた。

 使うのは相当に久しぶりだろうに、彼はうんうんと唸りながらも携帯のロックを解いていく。苦労して開いたホーム画面には僕も見たことのある有名なブラウザのアイコンくらいしかない。機能性重視、必要なものだけあればいい、という考え方をしていたようだ。

「で、これを、こう」

 彼が画面をタップしていくと、本体に紐付けられた番号が出てきた。

 電話番号である。どうやら、すぐにでも使えるらしい。……ここ数か月の料金はどうなっていたのか、気になるのは僕が貧乏性なんだろうか。

「ん。これをメモっておけば安心だな。俺は病院に掛ければいいし」

「ありがと。でも、電話していいのかな」

「いいんじゃないか? だって、それは禁止されてない」

 ガハハ、と彼は笑う。絶対に適当を言っているのだろう。業務中は携帯の使用を禁止されているかもしれないし、そうなると僕が彼に連絡を出来るのは夜の間とか、土日ぐらい……だよな? 

「不自由だなぁ」

「でも、これが時代の最先端を行くアレだからな」

「アレってなんだよ」

「アレはアレだよ。情報端末」

 そんな古ぼけたものを最新と言うでないわ、まったく。

 数か月ぶりに使うスマホは随分と機能の更新が必要らしく、彼はそれからしばらく、文句を言いながら操作をし続けていた。

 この平穏な時間も終わってしまうのかと考えると、少し寂しい。

 でも、それも仕方がない。僕等は病人。病気が治ったなら、この施設の外に出なくちゃいけないんだから。

 閑話休題。

 帰ろうかなと腰を上げた僕を、百々がぐいっと引っ張った。

「なにすんだよ」

「まぁ待て。面白いことを思いついたんでな」

「面白いこと?」

「お前の名前を検索してやるよ。へへ、記憶の手掛かりがあるかもだろ?」

「なーんで自信たっぷりなのさ」

「バカか。この施設に入るための条件、忘れたのか?」

「……あ」

 類稀なる才能をを失うか、損なっていること。

 それはつまり、元々は何かしらの才能に恵まれていたと言うことだ。それが海住の水泳みたいに全国大会などが開かれているものに対する才能だったなら、僕もどこかで受賞をしている可能性が高い。

 質問をしても答えてくれない職員に聞くよりは、もっと、ずっとマシなわけだ。

 っていうか、それを今まで気づかなかった僕って一体なんなんだ。情弱か。

「え~、どうなんだろうなぁ」

「これでしょーーもない記録だったらどうする? 県大会三位とか」

「競技によるでしょ。サッカーなら割とすごいじゃん」

「じゃぁ、フェンシングとか。競技人口少なすぎて凄さ分からんしなー」

 適当なことを喋りながら、検索フォームに僕の名前を打ち込む。

 サジェストされた言葉は、

 同姓同名の誰かだろうと、そんな物騒なワードは含めずに検索を掛ける。

「おいおい、お前と同じ名前の……の……」

 笑っていた百々がゆっくりと真顔になっていく。

 口をつぐみ、じっと画面を見つめている。

 あぁ、僕も彼と同じ気持ちになれたらよかったのに。だけど、検索結果とともに表示された僕自身の顔写真、そしていくつかのホームページのタイトルが過去の行いのすべてを物語っていた。


、自殺未遂により……」

 

 僕は、すべてを思い出した。

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