第28話 本編 5 - 8

 この学園に来てから、どれほどの時間が経過したのだろう。

 誰も気に留めない泡沫の絵描きだった俺はその肩書きを塗り替えることも出来ず、微かに残った才能に縋りつくようにして生きていた。絵の評価を誤魔化すために、技術を盗まれぬようにと他人から距離をとっていた。夢や希望にあふれた小学生、それと誰かの役に立つような人間になりたがる中学生が俺の姿をみたなら心身に異常をきたすかもしれない。

 が、それはそれ。

 子供の頃は気付かなかった世界にも、人間は生きている。

 美しいだけがこの世界の形ではなく、醜いものがあってこそ美しいものが映えるのだ。這い寄る恐怖を振り払ってこそ主人公達の勇気が輝くようなもので、俺のようなクソ野郎は社会にとっての必要悪なのかもしれない。

「……」

 と、そんなことを考えてみたがこの理論は穴だらけのような気がする。

 遅めの朝飯を食べながら暇潰しをしていただけだしな。ま、こんなものか。

「ふぁ……ぁ」

 大きく伸びをすると背骨が鳴った。ほぐれる筋肉が気持ちよくて体をぐりぐりと動かしていると、聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ってみると、修一と海住が仲良く並んで歩いていた。

 ここしばらく話しかけていなかったような気がして、声を掛けていいものかどうか迷う。どうしたものか、と身体を動かしながら考えることにした、というのは嘘である。もし彼らと俺に縁があるのなら、こちらから話しかけなくても、向こうから近寄って来るだろう。

 絵を売っていた頃と考え方が変わっていない気もするが、ま、いいんじゃないか。入院したからといって病のすべてが根治するなら、現代社会から最近は駆逐されているはずだし。そういうものだ。うん。

「百々、おはよー」

「ん。おはよう」

 最後に話をしたときはあまり気持ちのいい別れ方が出来なかった記憶があるのに、彼は変わらない態度で接してくれた。改めて彼が優しい人間なのだと感じた。

「で、それは」

「あ? あー、これは朝飯だ」

「多くないのかい」

「ん、まぁ、そんなことはない」

 朝から営業している方の食堂へ行った後、部屋に持ち帰ることが出来る奴をいくつか見繕ってきたのだ。こういうのをなんと言うのだったかな、テイクアウトだったかな。

 持ち帰れるものはジャンクフードみたいなものばかりだったが、誰に文句を言われる筋合いもない。今更、人の目を気にするような食生活はしていないつもりだ。

「それ持って帰って食べるの」

「そのつもりだけど」

「ってことは缶詰? 作品展とか近いの?」

「似たようなもんだ。今日は部屋に籠る予定でな」

「大変そうだねぇ」

 修一は困ったように笑う。海住は彼の後ろから俺のことをじっと眺めているが、その視線に以前のような険悪さはない。始めて彼女の姿を見た頃と比べると、理由は分からないが穏やかな目をしているような気がする。

 ふむ。

「ま、仲良くな」

 猫田は彼と彼女の関係性に何を思っているのだろう。

 女性が好きな女性の気持ちを俺は理解出来ない。でも、恋した相手の恋する相手が自分でないと知ったときの気持ちなら推測することも容易い。したところで何かが変わるわけではないのだけれど。

 部屋に戻ろうとしたところで、海住が俺の服の裾をつまみ、そのまま捲り上げた。

「おい」

「この傷、どうしたんですか」

「何でもないよ」

「いや、でも」

 口を噤んでしまっても、絶対に大丈夫じゃないでしょ、と彼女の顔が言いたがっている。修一は自身も全身が傷だらけだったから初見時のインパクトも薄いみたいだけど、流石に見逃してくれるわけじゃないようだ。

 トカゲのように温度のない瞳に、僅かに火がともる。

 その正義感と人類愛に脱帽して、俺は嘘を吐くことにした。

「喧嘩したんだよ、昔なじみと」

「もしかして、部長とですか」

「…………どこまで知ってる?」

「たまーに口喧嘩しているらしい、ってのは風の噂で聞いたことがあります」

 と言いながら彼女は修一の方を向いた。部屋の前で奴と言い争うことは少なくないから、それを修一が見て彼女に語ったか、それか近くの部屋の奴らが休憩室か何かで話しているのを聞いたのか。そのあたりだろう。

 海住は俺と香奈城の過去を知らないようだ。

 勿論、修一も。

 ならば隠し通そう。この痛みは俺のものだ。他の誰にも渡す気はない。

「そこまで知っているなら、もう説明するまでもないだろうよ」

「んじゃ、部長と喧嘩したんですね」

 手を振って誤魔化す。海住は納得してしまったようだが、修一の瞳には微かな疑念が渦を巻いている。これ以上長く話しているとボロを出す可能性もあったから、早々に退散することにした。

 うん。

 普段から一人で行動するようにしておくと、こういう時に逃げやすくて助かるぜ。

 背中から聞こえてくる声を無視して部屋に戻る。

 深呼吸をしてから扉を開く、靴を脱いで散らかった室内に入る。

 布団の上に眠る猫田に視線を落としながら、頭の中で考える。

 俺は社会的に認められない性的少数者でもいいのかもしれない。傷跡を撫でることでしか癒せない痛みがあるのなら、それを受け入れるしかないのだと。

 そして、小さく呟くのだ。

「それでも俺は、病んでなんかいないんだ」

 阿保みたいに気の抜けた顔で眠っている猫田の肩を揺さぶる。

 今日が昨日よりもいい日になるように、傷跡を残したままでも朝陽を拝めるように。俺は今日も、最後さいこうの絵を描きたいと願うのだった。

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