第26話 本編 5 - 6

 ゲイとは、男性の同性愛者を指す言葉だ。

 この広く愛すべき世界において、同性愛は蔑みと嘲笑の対象にすぎない。法律で、社会に、人々に、みっともないほどに弱々しい愛の在り方のひとつ。それが、ゲイという言葉に秘められているもののすべてだ。

「ふざけるな、ふざけるなよ」

 最初に断っておくが、俺はゲイじゃない。

 男性に対して性的興奮を覚える男ではないのだ。

 詰め寄った俺を押し返そうと、酔っ払いは微かな抵抗を見せる。

「分かった、分かったら退いてくれ」

「あ?」

「重いって、吐いちゃいそうだ」

「…………そうか」

 頭に血がのぼっていたようだ。暴力を振るうつもりなど微塵もないのに、俺は猫田の上で馬乗りになっていた。襟元を掴んでいた腕を振りほどいて、怒りで筋肉の強張った身体を無理矢理に引き剥がす。乱れた服を直しながら、猫田は妙な含みのある視線を向けてきた。

 が、俺はそれどころじゃない。

 手が震えている。激烈なまでの憤怒が身体中の血管を膨張させ、筋肉を刺激し、魂が弾け飛びそうなほどに力を溜めている。これほどまでの苦痛と屈辱を感じたのはこの短い人生でたった一度きりだった。

 そして、その瞬間に居合わせた男の顔が脳裏に浮かぶ。

 感情に身を任せて、拳を床に叩きつけた。

 打ち付けた拳は痛烈に痛み、二度、三度と打ち付ける度に体が冷えていく。

 暴力に訴える度、心が冷めていく。

 手の皮がボロボロに擦り剝け、血塗れになってようやく、俺は息を吐いた。

「あ、あの……」

「大丈夫だ。ちょっと、頭に血が上っただけでな」

「君がそこまで怒るとは思わなかったんだ。ごめんよ」

「謝る必要はない。誰だって過ちはあるものだ」

「でも」

「静かにしてくれないか。気分を落ち着かせたいんだ」

「いや、だって、冗談にそこまで」

「黙ってろよ。だからって許されないこともあるんだ」

 猫田の言葉のせいで、この世で最も殺してしまいたい相手の顔が明滅している。

 殺し損ねた男の顔が記憶の底から噴き上がってくる。

 香奈城だった。水泳部の部長を務め、この学園に知り合いの多い男。

 整った顔立ちと、清潔感溢れる言動がそこそこ人気のある男。

 あの男の、粘りつくような笑みが苛立ちを加速させる。

「本当にごめん。すいませんでした」

 服を整えた猫田がようやく姿勢を正した。暴力を振るわれない為の策なのか、へこへこと頭を下げながらお伺いを立ててくる。何も気にしていないと言えば嘘になる。なってしまうから、困りものである。

 過去の暗部への扉を無自覚に開けた罪は重いものだ。

 例え、それが悪意なき偶然だったのだとしても。

 彼女は俺の手を取ると、重税に苦しむ農民みたいに顔を歪めた。

「本当に、怒らせるつもりで言ったわけじゃないんだ。だって、ほら。君と水泳部の部長をやっている子との間に、そーいう繋がりがあったという噂で……」

「やめろ」

 怒鳴ったわけじゃないのに、部屋の静けさが耳を刺した。

 頭が割れるように痛むのは過度の怒りで血圧が上がっているからか。

 それとも、思い出したくもない記憶に拒否反応を示しているのか、どっちだろう。

 息を吐いた。ゆっくりと吸った。そうして何度も深呼吸を繰り返すうちに、少しばかりの平常心を取り戻した俺は、一応、念のため、二度と猫田がこの話題を掘り出さないように過去の事情を最低限話しておくことに決めた。

 一瞬の痛みなら耐えられる。

 永遠の苦痛を感じるよりは、数段マシなのだから。

「いいか、猫田。その噂は真実じゃない」

 俺はゆっくりと、言葉を選びながら話し始めた。

「ただし、すべてが嘘というわけでもないんだ。なにせ、香奈城はゲイだからな」

 過去に誤解されるような出来事があったのは事実だ。

 最初に接触してきたのは奴の方だった。街外れにある画廊で、アマチュアの絵描きを集めて蚤の市みたいなことをやっているところに現れたのだ。彼は数点の作品を購入して、他の作家見習いたちと交流を深めようとしていた。大して興味がなかった俺は、無視して絵を描き続けていたように思う。

 どうして絵を売ることに無関心だったかって? なぁに、自惚れていただけだとも。世界的に有名な作家にも、俺と似たようなことをやっている奴がいたのだ。蚤の市に自分の作品を出しておきながら、それを売るための努力を何一つせず、ただ自分の作品は素晴らしいから売れるはずだと、そう信じてやまない奴が。

 彼は死後に作品が評価され、現在では落書きのような絵にすら数億の値段がついている。それほどの大金が欲しいとは思わないが、ひょっとしなくても、食っていける最低限度くらいの金は入って欲しいな、とか、甘いことを考えていた。

 現実の厳しさはすべての人間が知る通りだ。

 俺にはそこまでの才能はなく、運も持ち合わせていなかった。

 もしかしたら持っていたのかもしれない。

 でも、なくなってしまったのだ。

 そんな俺に話しかけてきた男を、無下にすることは難しい。才能のない人間がより上の世界へとのし上がっていくために必要なものは、豪運か、さもなければすべてを持っている人間達とのコネクションだ。生まれながらにすべてを持っている人間は他者を悪意なく見下せるし、何も持たない人間は憎悪を募らせども届かないほどの遥か高みを羨むことしか出来ない。

 そういうものだ。

 香奈城は、貧乏な絵描きからすれば、無尽蔵な財を持っているようなものだった。

 気に入ったものを、それに支払うべく代価の多寡を問わずに購入できる。

 裕福な家庭に育った人間特有の余裕や自信を、その身体から漂わせていたのだ。

 初見で俺の嫌いなタイプの人間だと分かったが、絵を買ってくれるというなら突き放すわけにもいかない。そう諦めて話をしていたら、彼を題材に絵を描いてくれという話を振られた。報酬も弾まれる、人物画をメインにやっている俺には難しくもない仕事だった。一度依頼を受け、それがトラブルなく完遂するとまた次の依頼を受けた。そうして何度も彼の仕事を受けた。

 最初の内こそ妙な相手だと警戒していたが、羽振りも良く、作品を納入する時の問題も皆無に近かった。金持ちって奴は庶民様とは違うんだなと、うがった感想を抱きつつも仕事を繰り返したのだ。

 そして、一年が経った頃。

 画廊ではなく、彼の家を舞台として選ばれた時に。

 俺はを振るわれたのだった。

「暴力……」

「なんだ。連想できないならはっきり言ってやろうか? セ」

「いやいやいや、言わなくていいから!」

「なんでだよ」

「えっ。そういうのはホラ、青少年の育成に悪いし」

「この部屋には成人済みの男女しかいないんだが……?」

 ま、いいか。

 ともかく、自己防衛の結果として俺は彼を殺しかけた。正確には「殺そうとしたのだが殺しきれなかった」という奴だ。香奈城を殺す為に全身の力を使い果たした後、酷い脱力感に襲われたのを覚えている。

 何もかもが嫌になって、すべてを忘れたくなったのだ。曖昧で遠大な望みをかなえるためには死という救済をもってする他なく、自殺こそが当時の俺がとることの出来た最良の策だったわけだ。

「だから君はここに入れられたわけか」

「そうだ」

「香奈城くんは? 自殺じゃないんでしょ」

「俺の後を追って入って来た。財力はある、と言っただろう? 院長を脅してでも入ってくるような奴だからな」

 ともかく、俺はそうしてこの病院にやってきた。

 ゲイなわけじゃない。ゲイに襲われただけだ。

 この病院に入って来た患者の中ではかなり典型的な例だろう。才能があったけれど、それを活かしきることが出来ず、最後には身の丈に余る報酬を得ようとして破滅を迎えるのだ。まぁ、性的暴行を切っ掛けに自殺をすることを決めたという奴はそれほど数はいないだろうが……いや、居ても言わないよな。

 クソ。

 本当に悔しいものだ。昔はもっと、才能が輝いていたはずだったのに。

 全国的に有名な展覧会に最年少で入賞してメディアに取り上げられたこともある。が、その一年後、同じ展覧会に出品した少女が最年少記録を更新し、俺はレコードホルダーではなくなってしまったのだ。その上、彼女は本物の天才だった。彼女の描いた作品を見た後では、ピカソやゴッホの描いた作品すら児戯に等しい。凡才と天才、その実力差は誰が見ても明らかだろう。そして話も大してうまくないだれにもこびない俺はメディアにとっても不要な存在となり、やがて……。

「繰り返してばかりだ。同じ話を、何度も」 

 何度も。

 何度も繰り返した話だ。才能の有無を言い訳にして、都合のいい妄想に浸っていたのだ。求めるための努力をしなかった己が悪いのに、それを認めようとしないのだから。

 俺には、救いなどないのだろう。

「……おーい、手」

「あ?」

「ちから、緩めないと」

 ちー、かー、らー、と妙に間延びした声を出しながら、猫田が指差す先に目をやった。握りしめた手のひらから血が滲んでいる。床に叩きつけたときに出来た傷と合わせて、この病院に入った頃を思い出す。

 殺そうとした相手に心配される?

 死にたくなるほど嫌いな奴から愛を囁かれる?

 冗談じゃない。この手のひらの傷も、すべてあの時の後遺症のようなものじゃないか。隙を見せたが最後、俺達は死ぬまで永遠の悪夢に苛まれ続けるんだ。

「畜生、何を思って医者は俺と香奈城を……」

「自分で言ってたじゃないの」

「そうだとも。だけど、納得はしていないんだ」

 深く溜め息を吐いて目を閉じる。

 苛立った心が平成を取り戻すようにと祈りながら下唇を噛みしめる。

 胸を大きく膨らませながらの深呼吸を繰り返すうちに、猫田が俺の頭をぽむぽむと撫で始めた。無視しておいてもよかったが、なぜか、妙に引っ掛かるものがあって目を開く。

 見たことのない表情で、彼女が俺を見ていた。

「大丈夫だよ、きっと」

 彼女はそっと俺の肩に手を回すと、それが自然なことであるかのように。

 俺の身体を優しく抱き締めるのだった。

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