第25話 本編 5 - 5

 人生は選択の連続だ。

 恋焦がれた相手に思いを伝えるか否か。嫌いな奴と目を合わせるか否か。大学へ進学するか就職をするか。仕事を辞めるか働き続けるか。毎日のように無数の選択を繰り返して、人間はたった一人の力では何も成し遂げることのできない人生を生き抜こうと努力をする。

 それはとても、愚かな行為のような気がした。

 人間に特別な力なんてない。長く生きた分だけ何かを得られるというのなら、世界最長寿の人間がこの世で最も幸福な人間ということになってしまう。俺達が幸せか否かを判断するために必要なものはやはり周囲との比較であり、当人が何を考えているかなど些末な問題に過ぎないのだ。

 修一と海住がどれほど幸せそうな表情をしていても、病院の外に出れば前科持ちじさつみすいのレッテルを貼られた可哀そうな奴ら、という見方しかされないだろう。同じ穴のムジナが傷をなめ合っているだけ、という奴だっているかもしれない。

 だけど、仕方ないんだ。

 俺達は、そういう風に生まれたんだ。

 持って生まれた才能と、生まれ育った周囲の環境。

 

 

 そんなの、強い奴だけが唱えられる理論に過ぎない。身勝手にも程がある。

 だけど、済世病院の外の世界にいるのは強い人間ばかりだ。死への逃避を考えずに済んだ人間も、いつか何かに逃げ出したくなるはずだった。その逃避の先に暗い未来がないことだけを、勝手に願っておくほかないのだが。

 世の中全部、クソったれだ。

 ……。

 ふぅ。

 今日は校舎の中庭で絵を描いていた。病院に囚われている生徒達を描きに来たわけじゃない。不登校や学費不足などを理由に勉学が出来なかっただけの少年少女達を眺めていた。

 最初の内は下を向き、他の誰とも関わろうとしなかった子供達がやがて友人を作り前を向いて歩けるようになっていく。なるほど、この済世病院という施設が世間から認められている理由には、彼らのような「死にたいとは思わなかった生徒」たちの存在が必須なのだろう。

 彼らは恋仲になろうとも、この学園を追い出されることはない。俺達と彼らの間には目に見えなくとも心ではっきりと感じられるだけの溝があり、例え彼らがどれほど青春とやらを謳歌したところで病人たちには関係がないのである。

 そして、嫉妬や羨望を感じることのできる人間なら、まず間違いなく一年以内に才能を再開花させるか立ち直るかして社会という地獄に戻っていく。戦うこと義務だと言わんばかりに、彼らは血みどろになりながらも抗い続けるのだ。

 折れた心が治ってしまったがために、彼らは傷つくことになる。

 果たしてそれが正しいことなのか、俺は答えを持ち合わせていないのだった。

 あぁ、そうだ。済世病院で高校までの勉強を終えた生徒向けに、より専門的な勉強を教える施設、というものがあるようだ。短期大学みたいなもの、らしい。最近になって妙に俺の部屋へ遊びに――というか酒を飲みに――やってくるようになった猫田がそんなことを言っていた。

 この施設は精神面のケアを重点的に行いつつ勉強を教えている、そのケアが不要になるのだったら、素直に勉強だけ励めばいいと別の施設を紹介されるのだという。そこで二年ほど勉強をすれば、短大を卒業したのと同程度の資格は貰えるらしい。

 現代社会において、学歴は本人の素質以上に重要視されている。

 だから行く人も多いのだろう。

 さて。

 絵を描くのにも飽きて、自分の部屋へ戻ることにした。

 適当に片付けた道具を持って、鼻息混じりに道を歩く。

 すれ違う同輩達から目を背け、急に後ろを通り過ぎる奴がいれば筆を振り上げて威嚇をした。唐突に現れた香奈城は鳩尾への強烈な一撃で対処して、そそくさと逃げることにした。まぁ、あいつはほっといても大丈夫だろう。

 殺しても死ななかった奴だ。だったら、放っておけばいい。

 肩や腰にカナシロの気持ち悪い手が触れる前に撃退できてウキウキの気分だった。だがそれも自室に入るまでのことである。玄関に最近見慣れてしまった靴が置いてあったので、まずは走って逃げられたりすることがないように鍵を閉めてから静かに部屋へ入っていく。

 なぜか猫田が転がっていた。あと、空になった酒の缶が二本。

 気持ちよさそうな顔で、仰向けのまま腹を出していた。幸せな雰囲気の中うたた寝をしているけれど、ここは俺の部屋しろなのだ。狼藉を赦しておくわけにもいかない。

「起きろ」

 呼びかけても起きる気配がなく、今度は揺すってみた。一瞬だけ薄目を開けたから起きたことは間違いないのだが、誤魔化す為なのかゴロリと体勢を変えてうつ伏せになってしまった。

 まったく。

「いい加減にしろ」

 ベシ、っとカタチの良い彼女の尻を平手打ちした。尾っぽを踏まれた猫のように飛び上がると虎が吠えるように抗議の声をあげた。

「訴えるぞ変態野郎」

「他人様の部屋に無断侵入した挙句酒を盗み、その上布団まで借りている奴の方がヤバいと思うんだが」

「は? 私の尻は国宝級だぞ? その程度の些末な罪に負けるはずがないだろ」

「負けるってどういうことだよ……」

 互いに罪を犯し合っているので相殺されました、なんてことはないだろう。

 転がっている缶を見て、深い溜息を洩らした。

「酒はタダじゃないんだぞ」

「お前の金でもねぇべ。施設からの援助でしょ」

「俺の金だ」

 自信満々に宣言をすると、猫田は意味が分からないとばかりに首を横に捻った。海住ほどではなくとも整った顔立ちをしているから、口を半開きにして惚けた顔をしていると一層面白く感じる。

「どうやって金を稼いでいるんだ。お前はバイトやってないはずだろ? 個展とかの賞金だとしても、お前の作品は箸にも棒にも掛からんとの噂だが」

「それで落ちた作品を、誰だか知らんが売ってくれる奴がいるらしいんでね」

 まだ腑に落ちていない顔をしている。

 仕方ない、ある程度は詳しく話しておくか。しつこく聞かれても面倒だしな。

「チャリティバザールに出品しているんだと」

「なんだよ、そういうことかぁ!」

 今度はこの世すべての法則が分かったとばかりに、猫田は豪快に笑い出した。酒が入っているせいもあるのだろうが、普段よりも精神が不安定なんだろうか。喜怒哀楽の表現が激しくて、なんかげんなりしてきた

「なるほど、そこでの売り上げがお前にされているわけか」

「そうだよ、その通りだ」

「お前の絵には買うだけの価値があるってことだな、あはははは!」

「笑うとこかよ。……ったく」

 能天気に笑い続ける彼女をみていると、俺も釣られてしまいそうになる。本質的に何も分かり合えないはずの相手なのに、なぜか、共感するところもあるみたいだった。ひょっとすると俺にも、社会的動物である人間の、社会に帰属すべき部分というのが残っているだけなのかもしれない。

 それはさておき。

「なんでここにいるんだ」

「んー、暇だから? あと、今日は非番だから」

「他に遊びに行く所あるだろ……彼女いないのかよ」

「いや、私は女ですし」

「誤魔化すなよ。分かっているんだから」

 頬を膨らませた猫田は怨みの籠った眼で俺をみると、小さく「いないよ」と呟いた。前まで熱を上げていた海住には振られっぱなしだし、そもそも彼女は修一に奪われて……盗られて……持っていかれて? しまったわけだし。身体と心に残った熱量を吐き出す場所が見つからずに腐っているのか、ふむ。

 だったら一人で腐っていろ、俺に迷惑をかけるんじゃねぇといいたい。

 だが、少なくとも済世病院の一患者として猫田に世話になったことがあるのも事実ではあるため、まぁ少しくらいは慰めてやるかという気持ちがないわけでもない。なくはないのだ。

 ……クソ。

 修一と出会ってから、俺も丸くなってしまったような気がするぞ。

 勢いをつけて飛び起きた猫田は、部屋の隅に置いてあったリュックサックを引きずって俺が座る卓袱台の前へと戻って来た。病院の外で買い込んできたという酒やらおつまみやらを鞄から取り出して、酒盛りをしようぜ! とダメな大学生みたいに誘ってくる。

「こういう場合、普通は手料理をしてくれるんじゃないのか?」

「無理だな。私、彼女に料理をしてもらう側の立場だったから」

「あっそ」

 さりげなく自慢されてしまったが、無視して酒を飲むことにした。

 適当に話をしながら、浴びるように酒を飲む。テレビを見るでもなく、漫画を読んだりゲームをしながら酒を飲むこともない。酒のアテがカルパスでもポテチでもなく眼前にいる女との会話になるまで、延々と酒を飲み続けた。

 夜も更けて、帰らなくてもいいのかと猫田に尋ねてみる。

 ニッコニコとバカみたいに笑いながら、彼女はこう言った。

「今日も泊ってくから、ヨロシク!」

「…………まぁ、吐かないようにな」

「大丈夫だって、二回も同じことは……三回……いや、四回くらいまでなら」

「廊下で寝かせるぞ」

「だぁーいじょうぶだって!」

 大きな声で笑うと、彼女はガバガバとアルコールの入っていないジュースを飲み始めた。体内のアルコール濃度を下げるつもりなのだろうけれど、デカいペットボトルを見目麗しい女性が一人で抱えるもんじゃないと思う。というか注ぎ口から直接飲むのをやめろ、本当にやめろ。

「ふぅ。手洗いに行く」

「ん。いってらっしゃい」

 ゆっくり立ち上がると、足元が揺れているのが分かった。ふらつきながら用を足した後は、洗面所へ向かって軽く顔を洗った。鏡に映った俺は随分とやつれている。目が僅かながらも血走っているのは酒の影響で間違いないだろうけれど、頬が一ヵ月前と比べて痩せこけている気がした。

 もしかすると。

 猫田を慰めているつもりで、俺が慰められているのかもな。

 部屋に戻った後、猫田の話に適当な相槌を打ちながら互いに飲んだ酒の数を数えてみる。予想していたよりも猫田が飲んでいないことに驚いた。

「で、……聞いてるのか?」

「あぁ勿論。勿論だとも」

「眠いならベッドで横になるといい」

「……あぁ、そうさせてもらおうか」

 まだ酒は残っていたが、これ以上飲んで気分を悪くしてもいけない。そう思って布団に横たわると、なぜか猫田もついてきた。一緒に寝ようとしているばかりではなく、後ろから強く抱き締めてきている。

 これは、何の冗談だろう。

 男では生み出しようのない柔らかな感触があり、奇妙なほどの温かさと熱量を感じ、そして猫田に縋りつかれているような錯覚に陥る。いや、これは本当に錯覚だろうか。

 腐りかけた魂が告げている。

 お前に誰かが救えるなら、この一瞬しかないのだと。失われた過去も、過ぎ去りし青春も、塗りつぶす為には動かなければならないと。

 だから俺は、猫田に尋ねてみることにした。

「どうして、こんなことを?」

「分からないのかよ」

「分かってたら聞かないだろ」

「んー、それもそうか」

 はぁ、と彼女が溜め息を吐く。

 その吐息の熱さに苛立ちと嫌悪を覚えるのが数日前の俺だった。今日は不思議と嫌いじゃないけれど、それは酒が入っているせいだろう。猫田は何かを恥ずかしがるようにゴソゴソと動いてから、小声で意味の分からない言葉を放った。

「健全な男女がひとつの布団で寝たのなら、やることはひとつじゃないか」

「それは――どうだろうな」

「ふふっ、言わんとすることは分かるよ」

 互いにその意志がない場合もある。そして想いが双方向じゃなくったって、やる奴はいる。人間同士の関係性は社会的ルールによって一応の規定が定められてはいるものの、実際のところは無法地帯なのだ。誰かが誰かの情事をクソったれだと思うこともあれば、誰かが誰かとの関係性をうらやむこともある。

 で。

 女が好きな彼女が、俺に近づく理由があるならば。

 それは――。

「君が私を愛してくれたなら、それは奇跡的な確率で引き起こされたものだ」

「おいおい、何だってそれが奇跡だなんて言うんだよ」

 半笑いで言葉を返したら、ぐい、と肩を引っ張られた。

 猫田は俺の上へ乗って、覆いかぶさるように抱き締めてくる。引き攣った顔の俺を大真面目に覗き込んでくる彼女の瞳は、普段、仕事をしている時よりもずっとずっと真剣な色をしていた。


「だって君はゲイだろう?」


 答えようのない言葉を向けられて、俺は静かに唇を塞ぐしかなかった。

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