第22話 本編 5 - 2

 呼吸が浅かった。

 身体が冷たくて震えも止まらない。この症状には覚えがある。

 熱中症だ。

 昨日、修一と海住から逃げた後に感じていた吐き気とは違う種類のそれに襲われて手洗い場へと行こうとしたが、酩酊したように身体の自由が利かず動けなかった。酷い脱水症状みたいだ。なるほど確かに、昨日はあの後、何も食べていないし眠ってもいない。肉体的な限界が近いということだろう。

 床に伸びて動けないまま、時間が過ぎるのだけを待つ。

 このまま死ぬのだろうかと視線がぼやけ始めたとき、部屋の扉が開いた。

 誰か知り合いが入って来たのだろうか――と頭すら動かないなりに視線を向ける。

「ちぇっ、今日は部活だけ見て帰るつもりだったんだけどなぁ」

 文句を言っているのは猫田オセロ。

 私立済世病院の職員中で、最も職務に怠慢な女性だった。

「おい、大丈夫か」

「…………」

「返事もないとは。よっぽどのことがあったのか」

 この施設にいる職員は大きく分けて二種類。若くして自殺を図ったため、もしくは不登校などの理由で高等学校までの教育を受けることの出来なかった人間に勉強を教えてくれる職員。そして、看護などを専門とするスタッフだ。

 彼女は前者だったはずだが、と昔々に寮の休憩室で誰かが噂をしていたのを思い出す。

 気付けば整った顔の猫田が、俺の顔のすぐ傍まで来ていた。

「お前なら身体もデカいし、色々ヘーキだと思ったんだけどなぁ」

 深々と溜息を吐くと、彼女は俺の身体をゴロリと横へ倒した。

 世界がぐらりと歪んで、重い内臓から悪魔ゲロが這い出してきそうだ。

 俺を看病している猫田の表情には倦怠感がありありと浮かんでいる。俺が美少女だったなら着ぐるみ剥がして病的に熱心な看護をしてくれたのだろうけれど、残念ながら俺は見た目も中身も男だったからな。

 あぁ、そうなのだ。

 男だったから、と苦しむこともあるのだ。

 部屋の空調を調整し、水で濡らしたタオルを全身の血管が集まっているところへあてて、手の届く位置に大量の飲料水を用意する。そこまでの仕事を終えたら熱中症の相手に出来ることはほぼ終了だ。猫田は俺の首元へ手を伸ばすと、違和感なく巻き付く首輪に触れた。

「首輪も役に立つもんだよな。急病の時は居場所も分かるし」

「管理社会に感謝、ってか」

「なんだよ、助けてもらったのに文句を言うのか?」

「そんなわけないだろ――ありがとう」

 首輪も常に装着者の居場所を何処かへと送信し続けているわけじゃない。心拍など健康状態を把握するのに必要な最低限の情報をデータセンターに送っている、という程度のことなら施設へ来た初日に教えてもらっていた。そして、その情報を元にして、俺みたいな過去からの刺し傷に苦しむ奴を職員たちは助けに来たり、薬を服用するよう勧めてくるわけだ。

 寮に常駐している看護担当者が他の誰かを手当てしていたのか、看護職員でもないのに召喚されてしまった彼女には申し訳ないことをした。が、これも彼女の仕事なわけだから甘受してもらう他あるまい。

「で、入間よー」

 仕事よりも女生徒のケツを追いかけるのが好きらしい猫田は、片付けを済ませた後に秒速で部屋を出て行くかと思ったが、なぜか俺の隣に座り込んだ。

「何があったんだよ」

「いや」

「ないってことはないだろう」

「あるよ。ふとした瞬間に生まれる空白が、過去の傷を引っ張りだすんだ」

「へぇ、そういうパターンもあるのか……」

 猫田は視線を天井に向けると、そのまま床に寝転んだ。

 男性が嫌いだと公言している猫田が、この部屋に留まることのできる理由を想像してみる。きっと、俺が自殺した理由を知っているのだろう。容易いことだ、職員である彼女が俺の過去を知っていても不思議じゃないんだから。

 越権行為だ、と怒ることもない。

 プライバシーの侵害だ、となじることもない。

 過去は変えられないし、生きてきた痕跡を否定することは自身の描いた絵を破り捨てるよりも屈辱的なことのような気がして、どうにも嫌なことほど忘れられない。誰も気にしない些細な事柄。それが、俺の心を苛んでいるものの正体だった。

「あぁ、クソ」

 身体の奥から悪魔が生まれて来るような錯覚。

 錯覚だ。

 真夏の夜に見る幻影みたいなものだ。洗濯機に放り込まれた洋服みたいに精神がかき回されて、突き崩した豆腐みたいに原型から遠ざかっていく。現実と空想の境目が曖昧になり始めたところで、ペチ、と額を叩かれたような気がした。

 猫田が添い寝していた。

 別に好みの相手ってわけじゃないから、心臓が跳ねることはない。それは猫田も同じようで、表情ひとつ変えることなう俺の頬をつまんでいる。

 玩具じゃないんだぞ、俺は。

「なぁ入間。海住って子、知ってるだろ」

「ん? あぁ」

 修一が淡くて脆い恋心を抱いている相手だ。知らないはずがない。

 徐々に復調してきた身体をゆっくりと起こして、パンツ一枚になっているのは流石に不味いだろうとバスタオルを腰に巻く。猫田に顎と視線で指示を送られて、自分で全身に掛けられた濡れタオルの交換まですることになった。

「実は入間に相談がある。愚痴かもしれないけど」

「……聞いてやるよ。助けて貰ったし」

「へへ、それはいい心掛けだ。絵の描けない画家ってのは時間が有り余っているものだしな」

 歯を見せて笑った猫田から、思わず首輪を隠そうとした。が、この首輪に盗聴器まで仕込まれているなんて聞いたことがない。ひょっとして、と考えたこともないではないが、実際にそんなことがあるのだろうか。いや、流石にないよな。

 ない。

 そういうことにしておこう。

 猫田は大きく息を吸うと、勢いよく体を起こす。俺の為に用意したはずの飲料水を取ってカポカポと飲み始める。旨そうに息を吐くと、彼女は俺へと向き直ってあぐらをかいた。

「最近、海住が元気なんだ」

「いいことじゃないか」

「うん。だけど、気に食わないんだ」

「どうして」

「天野って男のこと、知っているだろう?」

 頷く。

 天野修一のことだろう。閉鎖的な空間であるほどに人間関係も閉じていくもので、彼の知り合いは多くない。だから修一について詳しく知りたいことがあるなら、本人に直接訪ねるか、数少ない友人を探し当てるしかないのだった。

 猫田は空になったペットボトルを俺の頭にぶつけてくる。

「あいつが気に入らないんだ」

「へぇ。職員様の癖に患者を選り好みするのかい」

「嫌いじゃないよ。だけど、文句を言ってやりたくてね」

「本人に言えばいいじゃないか」

「……ここがどんな施設か、忘れたわけじゃないだろう?」

 自殺者や社会不適格な人間ばかりを集めた施設だ。そんな場所でも自身の悪評ばかりを聞く破目になったら、いよいよ居場所がなくなってしまう。そのことを猫田は十全に理解しているようだった。

 だから修一のことをよく知りもしない相手ではなく、あえて親しくしている相手に愚痴を語って聞かせるのだろう。親しい相手の悪口ってのは、よほどのひねくれものでも口にしないものだからな。

 彼女はそれから、天野の嫌いなところを順に挙げていった。

 話が長いこと、面倒な部分にばかりこだわること、その他諸々。

 この施設に来てから彼と接触することは多くなかったようだが、その度に猫田は修一の嫌いなとこ探しをしていたようだ。ずっと傍にいる俺が気付かないような些細なことも挙げて、いかに自分が修一という人間が嫌いなのかを説明していた。

「だから、さ」

 途中から意図的に心を閉ざして、彼女の話を聞いていなかったような気がする。

 彼女は延々と話していたようだ。

「海住が天野のことを嫌いになるよう、細工をして欲しいんだ」

「……俺が? なんで?」

「あのふたりと接点があって、かつ親しい相手なんて君くらいのものだからね。勿論、喧嘩させろってわけじゃない。海住が天野に、男って奴を感じないよーにして欲しいんだ」

「そんなこと言われたって」

「出来るよ。出来るとも、君なら」

 猫田は自信ありげに俺の肩を叩くと、新体操の選手も驚くほど綺麗なバク転をして立ち上がった。俺が完全に復調したのを察したのか、部屋に散らかした熱中症対策の諸々を掃除することもなく帰っていった。

 マジかよ、と嘆息する。

 彼女が修一と海住を引き剥がしたい理由を、聞き損ねてしまったんだが。

「どうしよう」

 俺が何をするべきか考えて、分からなくなったから絵を描くことにした。

 元来、絵を描くための筆など不要なのだ。

 気分がいいからと妙な理屈をつけて絵具を指でとり、部屋の壁に思いつくまま塗り込んでいく。写実的なだけが取り柄の俺が空想上の人間を描くと、それは現実で会った誰かの意生き写しになることが多い。嘘だけど。でも、何処かにいるんじゃないかと思わせるだけのリアリティがあることだけは間違いない。

 どれだけ綺麗に見繕っても、継ぎ接ぎの人形ではフランケンシュタインの名を免れ得ないが。

 中性的な人間が描き上がると同時にインターフォンが鳴った。

 洗面所で手を洗ってから玄関へと向かう。突然の訪問者は猫田か、修一か。海住という線はないだろうし、ひょっとすると見知らぬ誰かが俺に絵を描いてもらおうと持ってきたのかもしれない。

 んなわけないか。

 ゆっくりと扉を開く。

 隙間から伸びてきた腕は、咄嗟の判断によって壁との間に叩きつけられた。

「いたた、酷いことをするじゃないか」

「帰ってくれ」

「ハハ、帰ろうにも、これじゃぁね」

「気合でひっこ抜いて帰れ」

「んー、困ったなぁ。聞く耳持たずって感じかい」

 ギチギチと扉が軋む。

 渾身の力を込めて部屋への侵入を果たそうとしているのは見知った相手。

 ドアの隙間からこちらを覗いていたのは俺と浅からぬ因縁を持つ相手。

 自殺の原因を作った男だった。

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