【二章】入間百々の××の生活。
第21話 本編 5 - 1
絵を描き終えた後、いつものようにサインを施した。
俺の名前は入間百々、自殺未遂者だという他には特筆するような特徴を持ち合わせていない一般的な男性だと自認している。施設で職員と患者を識別するための首輪もつけられているが、まぁ、割と似合っている部類だろう。
外見的な特徴など、ないに等しい人間だと思っている。
その上、特技と呼べるものも持っていない。絵を描くことが何よりも好きだし絵を描けなくなったなら生きる意味もないと考えているけれど、残念なことに生まれながらの才能を持ち合わせておらず、天才に追いつくための努力も不十分という有様だった。
が、絵を描くことの少ない奴が俺の作業を傍から見ていると、こんな言葉を言いたくなるものらしい。
『すごい速いね』
速筆という意味だろう。美術家を志したものなら誰にでも描けるような、そんなありきたりの絵を描くのに要する時間ならば、他のアマチュア芸術家と比べてもずば抜けているという自信があった。だけど俺の欲しい言葉は、そんなものではない。速度は技術を誤魔化す言い訳にはならないのだ。
俺が言われたいコトバ。
それは。
「死にたくなるほど、綺麗だな」
「ん? 何か言った?」
「……いや、何でもねぇよ」
「そうかい。あー、それにしても食べ過ぎたなぁ」
食堂から部屋へ戻ろうと立ち上がったばかりの友人、天野修一は微かに膨らんだ腹を擦っている。この済世病院へ来てから食が細くなったという彼は、俺から言わせれば女みたいな男だった。体躯は細く、顔立ちにもカドがない。もう少し分かりやすい女顔だったなら、男連中から妙なからかいを受けていただろう、とも思う。
話してみると割と面白い奴だし、その辺りも気に入っている相手だった。うてば響く受け答えって奴は、コミュ障を自称する奴が多いこの施設において対人関係を円滑にするために重要な要素のひとつだしな。
ただ、修一も完璧な人間じゃない。目元には爬虫類のような、温度を感じさせない冷たさがあるのだ。それが少しだけ怖くて、自分から話しかけるには勇気のいる相手だった。
「俺の半分しか食ってないだろうが。カツ丼だって大盛じゃなかったし」
「いやぁ、百々が食べ過ぎなだけじゃないの」
「そんなことあるか」
テメェが細すぎるんだよ、と彼の背中を叩いた。何が面白かったのか、修一を挟んで向かい側を歩く海住という少女も口元を緩めている。本人の性格や問題視される行動の数々などは無視するとして、彼女の容姿は俺が一度は描いてみたいと思うほどに整っていた。丁寧に結ばれた艶やかな髪も、必要な筋肉が適量についた華奢で小柄な体躯も、神に与えられた
男どころか同性も寄せ付けず、また水泳部に所属していながら部員たちとは共同練習をしないなどかなりの問題児ではあるものの、その姿形だけは神に愛されているのだった。
芸術作品として惚れることの出来る少女。
そんな少女に、修一は恋焦がれているのだろうか。
「…………」
修一の肩に話しかけるため手を伸ばそうとして、やめた。彼は海住に視線を奪われていて、そして海住も修一との会話を楽しんでいるように見えた。その光景に疎外感を覚えない、と言えば嘘になる。なってしまうから、視界に入らないよう顔を背けることにした。
友人ってのも面倒なものだ。
尋ねられないことが、多過ぎる。親しい友人になったと思っても、その先に踏み込むためには勇気と動機、それから最高のタイミングというものが必要になってくるじゃないか。それが、俺には難しいようだ。
修一は優しい男だった。
病的なまでの正義漢でもある。
相手に道理と常識を押し付けるばかりが正義ではない。真の正義とは、己に対して嘘を吐かないことだ。だから正直者は自殺を図る。己の信じた理想と社会にはびこる不正との隔絶を知り、その苦痛から逃れるために安易でありながらも最も確実な方法を選んでしまうのだ。
俺から言わせれば、それは阿呆の極みでしかない。
だが、知っている。
そんな阿呆な手段を取らなくては、生きていくことが出来ない奴らがいることも。
「それで、明日の予定なんだけど……百々?」
「ん? あぁ、悪い。聞いてなかった」
「考え事かい。悩みがあるなら言って欲しいんだけど」
「ねーよ。あったとしても絵の構図とか描き方を悩んでいるだけだ」
「ふーん。あなたも悩むことがあるんですね」
嫌味たっぷりに皮肉を飛ばしてきた海住が、ふぁぐ、と小さな欠伸を漏らした。
整った顔立ちが歪むほどのものではなかったし、まだ可愛らしい方の動作だったことに美人って奴は得だな、とありきたりな感想を抱く。
知らない人間ばかりが座っている教室で勉強する気になれないのは三人とも同じようで、誰も寄っていくかどうかの提案をすることもなく病院の敷地を出てしまった。普段通りに男子寮の方へ足を向けた俺達とは違う方向へ歩きかけた海住は、一瞬、修一の背中を見てこちらへと駆け戻って来た。まーの先輩、と妙な呼び方で修一を呼んでいる。
そのまま部屋に帰るのは嫌、ってことだろう。
「海住。お前、眠そうだな」
「別にー。寝不足ってわけじゃないですから」
海住は修一に歪んだ顔を見せたくなかったのか、顔を背けてから特別大きな欠伸を漏らした。その動作に自分も釣られてしまいそうになったけれど、今日はまだねるわけにはいかない。日課の分の絵を描き終えていないしな。
「で。さっきは何の話をしてたんだ」
「明日の予定だよ」
「絵を描いて飯を食って寝る」
「百々って、それ以外の時間の過ごし方を知らないのかい」
「悪ぃかよ」
「いいけど、なんていうか、もっと青春っぽいことをしてみたいじゃないか」
セーシュン! と修一が阿保っぽく両手を天高く上げる。海住も真似たが、俺は両手をクールにポケットへ押し込むと何も見なかったことにした。修一の顔が僅かに下を向いて、早くも己の行動を後悔しそうになった。
「まぁ、百々は忙しいもんね」
「おう」
「それじゃ、僕らだけで何か考えようか」
「そうですね。売れない絵描きさんには、永遠に絵を描き続けてもらいましょう」
「黙れよ、泳げない人魚の癖に」
愛する相手もいなくてヒロイックな感傷に浸っていたところに偶然現れたのが修一だっただけだ。海住という少女は、結局誰のことも好きにはならないだろうという根拠のない確証が俺のなかにはある。
それなのに、見返りを求めずとも他人を愛してしまいそうな天野修一という男が、彼女に惚れているんじゃないかという疑惑が俺の口を滑らせた。迂闊な一声は最近ようやく他人との交流を思い出したばかりの人魚姫には重すぎたようで、羽根のように軽く校内を自由に走り回っていたはずの脚は枷を嵌められたように重く不自然な動きになり、やがて彼女は立ち止まってしまった。
あぁ、違う。違うんだ。
走るなら泳げるはずだ、とは思わない。
綺麗な絵と未熟な絵があるように、理想的な泳ぎはそれ以外のすべてを価値のないものにしてしまう。趣味でやっているだけの連中と、勝負の世界に生きる人間とが違うことくらい、こんな俺でも知っている。
だから違うんだよ。そんなの、俺が求めていた反応じゃない。
「大丈夫かい、海住」
「へ、平気ですよ。まの先輩が心配しなくても、私でなんとかします」
「無理はしちゃだめだ。背負いきれないなら、僕も一緒に背負うから」
彼らが視線を交し合って、海住が頷き、苦しそうに胸を押さえていた手を修一に伸ばす。彼は優しく手を握り止めると、俺の方へと顔を向けた。
心を置き去りにして、身体が一歩、後ろへ引いた。この施設で、自殺未遂者だらけの狂った病院で親しくなった友人から、俺の身体は逃げ出そうとしていた。
「……百々。君は海住に言うべきことがあるはずだ」
「なんだよ、最初に喧嘩を売って来たのはそいつじゃ」
「百々」
静かな声だった。
見開かれた瞳は俺の心の底を覗き込むように、深く俺の中へと滑り込んでくる。修一は格段に怒っているわけじゃないようだ。悲しんでいるのだろう。揺れ動く瞳は親しい友人と、その友人が傷つけてしまった少女の脆い心のどちらに向いているのか。
それを想像するだけで、頭が痛くなる。
「海住、済まなかった」
「別に、気にしてませんし。今日は偶然、心が弱っていた、というか。それだけの話ですし」
「……俺は先に帰る。明日は、お前等だけで楽しんでくれ」
海住はこのまま、修一の部屋へと向かうだろう。傷ついた少女が優しい男に何を求めるか知ったことじゃないが、俺には彼らの間にある心の繋がりを叩き切るだけの度胸も資格もない。
この一週間、毎日のように昼飯と夜飯を共にしてきた友人に背を向けると、俺は逃げるように自分の部屋へと向かった。心臓を数千本の針で突き刺したような痛みと、喉元に重い鉄の鎖を巻きつけたような息苦しさ、そして内臓が焼け付くほどの後悔が俺に襲い掛かってくる。
そうだ。
俺は昔から、唐突に死にたくなることがあった。
仔犬の死骸を見つけた小学校の頃を思い出す。
何も悪いことはしていないし、自分には手の施しようのない事態と直面してしまっただけだったのに。他人の手を借りようと伸ばした腕を振り払われた挙句、いわれのない罪を背負う羽目になってしまった過去のことを。
何も関係がない話だ。
それでも俺にとっては同じ話なのだ。
誰も悪くはない。
悪いタイミングが重なっただけだ。
だけど、過去は俺を縛り付けている。
途中から走り出して、ようやく辿り着いた部屋へ転がり込むと、絵を描くためだけに準備しておいた画用紙を引き裂いた。何も描かれていない真っ新な画用紙を破けば明日の不安も消えると信じて、ただ闇雲に一枚の画用紙を細かく引きちぎる。
バラバラになって床一面に散乱した画用紙の海へ膝をつくと、荒くなった呼吸を正常に戻す為と言い訳をしながらその場にうずくまってしまった。あぁ、これほど生きるのが辛いなどと、生まれたばかりの俺に誰も教えてくれなかったではないか。
これなら、いっそ。
――クソ。
記憶を失ったまま
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