僕が言いたかったこと。

第20話 本編 4

 下手でも、熱意があれば芸術だ。

 逆説的に、どれだけ素晴らしい作品でも魂がない奴はゴミに違いないはずだ、などと百々が呟き始めて怖かった。絵を描くことに執着している彼にとって、芸術というものは素晴らしい世界へ飛び込む為の切符なのだろう。

 問題は、それが片道切符だったことだが。

 済世病院に来てから、色んな奴がいることを知った。

 例えば、誰かと関わることを恐れて一人で震えている海住バカとか。

 その背中を追いかけて、囲い込もうとしていた教師ねこたとか。

 そして僕に記憶がない理由は、彼らと対等に付き合うために神様が嫌がらせをしたんだと思う。ピカレスク小説に出てくるピカロと呼ばれた主人公達のように、精神的なよりどころを失うことで犯罪に手を染めて、そして社会に反旗を翻すような存在を神様は求めていたに違いない。

 だけど。

 僕には、友人が出来てしまった。

「それでは、行きましょう」

「……なんだか緊張するな」

「言っておきますが、その腕輪は外さないように」

「分かっているとも。……カーツェットから追い出されたくはないからね」

「かー……?」

 首を傾げている海住の背中を押すようにして、女子寮の中を歩く。周囲を歩いているのは確かに女性ばかりだったし、気のせいか匂いも僕らが暮らしている男子寮よりも甘いように思う。あれだ、フェロモンとか何とかって奴だろうね。

 さて。

「どうして女子寮に?」

「んー、友達と部屋で遊ぶって、青春っぽいじゃないですか」

「ははっ、そりゃ違いないけど」

「っていうか、今日はやけに上機嫌ですね」

「そうかな」

 とぼけて見せた。手首に巻かれた来客者向けのリストバンドを回しながら、海住の肩に手を置いた。驚いたように肩を竦めたけれど、彼女は僕の手を振り払うような真似はしなかった。なるほど、理由は些末なものに違いないけれど、僕という人間を嫌うことはないようだ。

 ありがたいことだった。

 神様に嫌われて、悪魔にも嫌われて世間から隔絶された病院へとやって来た。そんな僕に親しくしてくれる友人、話を聞いてくれるだけの先生、そして心を開いてくれた後輩がいれば、これから先の人生も少しは気楽に生きていけるだろう。

 あぁ。

 心を病んで自殺をした僕等は、強靭な魂や穢れなき矜持を持った人達からは遠ざけられる存在だ。腐敗した食品が周囲のものを腐らせるように、ウィルスに犯された細胞が健全なものを殺していくように。僕等の弱った心は、健全な社会生活を阻害するのだろう。だから隔離され、嫌悪される。

 社会復帰をするためのサービスは存分に用意されている。首輪を外して生活圏を変えて、別人として生きていけば苦労はどこにもないはずだ。それまでの自分、過去の自分をすべて背負い込んでも前を向いて生きていけるならば、それは人間として素晴らしいことだ。あぁ、完璧な、超人とも呼べる人間になれたってことなんだろう。


 だけど。


 それでも僕は、病んでいる方が楽かもしれない。

 もう少しだけ、この病院で誰かとの仲を深めていこう。社会に復帰して、明日を生きる力がなくなった時に、振り返って元気を貰えるように。僕は、そんな日々を望んでいる。

 海住の肩を抱いたまま、周囲の視線も気にせずに歩く。

 居心地の悪そうな、かといって僕から離れようともしない海住の耳元で囁く。

「なあ、海住」

「なんですか、気持ち悪いですよ」

「……君って、僕のこと、嫌いじゃないよな」

 海住は立ち止まると、僕の顔をマジマジと見つめていた。

 その頬がゆっくりと赤くなっていくことが最良の答えだった。その気持ちが吊り橋効果から生まれた偽物だったとしても、世間を知らないままに過ごしてきた少女が抱いていた幻想に色が付いただけなのだとしても。

「もう、そんなこと言ってたら追い出しますよ」

 扉が開いて、海住が僕を部屋へ引き入れる。

 それだけのことだ。それだけのことだったけれど。

 青臭いだけの春に甘酸っぱい恋が重なって、未来が少しだけ明るくなった。

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