第19話 本編 3 - 9

 何度も水を掛けられて濡れ鼠になったから、僕は風邪をひいてしまった。

 元からやることが少なかったとはいえ、風邪を引いたことで本格的に何もすることがなくなってしまった。昼間から惰眠を貪って、起きている間は百々から借りた漫画本を読んで、趣味と呼ぶほどに打ち込んだものがない人間にとって、退屈な時間ってのは死を意味するのだと知った。

 これじゃ、自殺をする必要もないな。

 学校に行かず、仕事もせず、そして病気になって動けない。そんな人間は、死んでいるも同然なのだ。望まずに病からすかれた人は、どれほど苦労したことだろうと胸が痛くなる。そんなことを考えていたせいか、昨日は極彩色の世界に明滅する白黒の光、芽吹いて散り行く花々のように生命が宇宙を漂う夢を見た。

「で、今日も安静にしておくように、と」

「うん。医者にはそう言われたよ」

「大変だな」

 頭が重くて体調がすぐれないだけで、気分は悪くないんだけどなー。

 言い訳を聞いて首を縦に振るほど、ここの医者は甘くない。病気で体調が悪化すると心にも影響が出ることをよく知っているのだ。学園生活と呼べるものに対しては放任主義ともとれる自由を掲げているのに、どうして体調管理だけは万全なのだろう。

 不思議だ。

 ……僕等はまるで、ケージに飼われている動物のようだった。

「修一」

 呼びかける声に顔を上げる。いつも相互に迷惑をかけあっているタイプの友人が、僕にプリンを差し出していた。

「甘いもの、食べるか」

「いいよ。大丈夫だって」

「無理はするなよ。風邪で倒れても、助けてくれる奴がいるとは限らないから」

「もー、百々は心配性だなぁ」

 何かあったとしても、この施設は病院……に付属している施設みたいなものだし。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる幼馴染みたいな雰囲気を全身から発している妙な親友が、僕に優しいものだから病気もすぐに良くなるだろう。

 それにしても、どうして彼は僕に優しくしてくれるのだろう。友人が風邪をひいてしまったからといって、普通はここまで尽力するものでもないだろう。遠くとも一因を作った猫田先生や海住が僕を看病するなら説明がつくけれど。

 何か特別な理由があるのだろうか、と首を傾げてみる。見つめられて気まずくなったのか、百々は頬を朱に染めた。

「なんだよ」

「や、君は本当に僕に対して優しいな、と思って」

「気に入った奴には施しをする。それのどこが悪いんだよ」

「悪くないよ。ただ、どうして君がそれほど僕を気に入っているのか、と思って」

 それは、と彼は口ごもった。

 本当に恥ずかしいこと、友人にも告げられないようなことなのだろうか。彼は耳まで赤く染まった後、何かを決心したように首を横に振った。バシバシと己の頬を叩いて喝を入れると、のぼせ上っていた彼の肌は元の色に戻っていた。

「……子供の頃みていたアニメの、主人公の兄貴がな」

「うん」

「格好良かったんだ。気難しいけど奔放で、怒りっぽいけど優しくて」

「あ、僕も知っているかもしれない。主人公は、魔法の杖を持った女の子だよね」

 彼が頷いたところを見るに、小学生の頃の僕らは同じアニメをみて育ったのだろう。世界に溢れる現象をカードに封じ込めて、現実を崩壊させようとするラスボスに立ち向かっていくというストーリーだった。

 幼い少女が主人公だったから、両親には秘密で見ていた。夕食前は誰もいないからと、祖父母の寝室にあったブラウン管のテレビを使っていたことを思い出す。この記憶は、たぶん、本物だろう。

 いいアニメだったとも。こうして、誰かの心を揺さぶることが出来たのだから。

「俺には兄弟がいなかったけど、兄になることがあったなら、こんな人になりたいって思えた。だから、お前には優しくしたいんだ」

「なんだよ、僕は弟だってのかい」

「年下だろ、お前」

 口端を吊り上げて、彼は楽しそうに声を上げた。彼が欠伸をして、大きく背伸びをする。そういえば今日は、彼の左腕に入れ墨が入っていることを知った。尋ねてもいいものか迷って、結局何も聞かないまま彼から視線を逸らしてしまったけれど。

 話したいことは、話してくれるだろう。何より、他人の趣味に踏み込む際に否定から入るのは何か違うし。

 優しい青年に風邪をうつしてはいけないから、と百々を部屋から追い出して数分後、部屋にインターホンの音が響いた。何か忘れ物をしたのだろうか。鍵も掛けていないし、そのまま入って来ればいいのに。

 というか、あまりベッドから出たくはないんだけど。

 重い頭を引きずるように這い出して、そのままの格好で玄関に向かう。

「なんだい百々、忘れ物かい」

「……へー、彼とは親しい仲なんですね」

「友達だからな。というか、すれ違わなかったのか」

「流石にないです。会っても逃げますし」

「ふーん」

 キョロキョロと室内を見回す海住を、僕はベッドの上から眺めていた。

 その姿は、群れからはぐれた小動物には似ても似つかない。

「それで、ここへはどうして?」

「お見舞いに決まってますし。あと、気になっていることもあるので」

「へぇ。君が、僕に?」

 意外なのか、と彼女は頬を膨らませた。嫌な思いをさせたかな、と胸がざわつく。

 風邪を引いた友人の見舞いなんて随分と青春っぽいのに、この機会を逃す手はないだろう。少しでも彼女を引き止めようと、僕は体を起こした。ここで気の利いたことを喋れたらいいのに、と喉の奥に小骨が刺さったような気がした。

「ところで、言いたいことがあるんですけど」

「なんだよ。もったいぶらずに言ってくれればいいのに」

「この部屋、汗臭いですよ」

「えっ」

「……」

「えっ、そうなのか?」

 百々が来ている間に換気を済ませたはず、なんだけどなぁ。慌てて窓を開けようとした僕の背中に手を当ててくる海住に振り返ると、彼女は心底楽しそうに笑っていた。

「冗談です」

「……………………」

「あの、あの」

「……………………」

「痛い! 痛いですって、髪を引っ張らないで欲しいですし」

「僕の心も同じくらい痛いんだよ」

 こちとら青春真っ只中の青少年だぞ。年齢的には二十を超えているけれど。でも、現役高校生や中学生に負けず劣らず純粋でピュアッピュアな部分だって持ち合わせているんだぜ。それをガキっぽいなんてバカにするのは、枯れ果てたじいさんだけで十分なんだ。

 ぷんすか。

 などと怒っていたら、海住は眉尻を微かに下げた。

「もー、お土産あげませんよ」

「風邪ひいたの、海住のせいでもあるんだからな」

「むぅ。それを言われると困りますけど」

「で? お土産ってなんだい」

「ふっふーん、気になりますか」

 差し出してきた紙袋を覗く。

 購買で売っているプリンだった。風邪をひいているときは冷たくて甘いもの、というのがここでの常識になっているのだろうか。実のところ、百々からも同じ差し入れを受けていた。あとは、施設内を徘徊して診察を行っている黒服の人とか。

 うーん。

 僕は子ども扱いされているんだろうか?

 海住が封を切ってしまったから、とプリンを食べながら、揺れるポニーテールを眺めた。

「で、話って?」

「青春って言葉の意味を、私も考えてきました」

「へぇ」

「友達と仲良くなること、です」

 ほーん。

 なるほど。

 誰か、似たようなことを言っていた気がするな。

「それはいいけど、どうやって仲良くなるんだよ」

「へへーん。私は誰かと違いますからね、ちゃーんと考えてますよ」

「で? なにをするつもりなんだよ」

「女子寮に、来てみませんか?」

 ……ふむ。

「意味が分からないよ」

「えー」

 スプーンを僕に突き出して、彼女はにこやかに笑って見せる。

「大丈夫。私が、サイコーの青春を送らせてあげますから」

 釣り上げた口端に、プリンの欠片がついていた。

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