第18話 本編 3 - 8
これはたとえ話だ。
友達のいない少年がいた。彼は友達を作れない子供だった。といっても、心身に著しい問題を抱えているわけではない。彼は健康体であり、よく笑ってよく泣いて、そして人並みの幸せを享受するのに何ら不自由したことのない少年だった。
彼が友達を作らなかった理由は、ひとつ。
誰かと関わることが苦痛だったから。
誰かと喋るだけで心が軋み、誰かと笑うだけで魂が摩耗するから。
幸福を共有することが嫌いなわけじゃない。ただ、生きるのが苦手なだけだった。
これは、たとえ話だ。
……などと繰り返す小説を読んでいた。読むほどに気が滅入ってくるが作者は何を思って書いたのだろう。そもそも、心の折れた患者が右往左往する病院で読むような内容の作品でないことは確かだった。でも表紙やタイトルに心惹かれるものがあったということは、僕はこの小説を読むだけの素養があったというわけで。
自殺を経験して記憶を失う前の僕は、一体どんな青年だったのだろう。
「うーん。難しいハナシだ」
「どーしたんですか」
「や、読んだ小説が難しかったものだから」
「私には小説ぜんぶが難しいですけどねぇ」
「海住は勉強嫌いそうだもんな」
「ちょっと、それどーいう意味ですか」
海月のように水面を漂っていた海住は僕の手に持つ小説を一瞥して、そのまま泳ぎを再開した。
今日も旧プールで過ごしていた。集合したわけじゃなくて、寮を出ようとしたところを海住に呼び止められて連れてこられたのだ。何もする予定はなかったし、百々も作品制作で手一杯だったから、彼女の誘いに乗るのはやぶさかでもなかった。
ま、呼ばれたからと言って、特別なことをしているわけじゃない。青春っぽいことは、ぜーんぜん出来ていないのだ。たぶん海住も喋る相手が欲しかったのだろう。海住の後ろを背後霊か何かのように徘徊していた猫田先生のことは見なかったことにした。旧プールに来てからも泳ぐ海住を追いかけて延々と泳ぎまわっていたが、なかなか彼女を捕まえられないことに絶望したのか何処かへ消えていった。
うーん。
海住ってのは、猫田先生のお気に入りなのかもしれないな。
「くしゅ」
「あ、かわいいー」
「からかうなよ、海住」
「へへっ。そんな体調じゃ、泳げませんねぇ」
「元から得意じゃないしな。見ているだけでも十分だよ」
それで青春しているのか? などと疑問を挟むのも面倒だ。風邪っぽいと生き方も雑になるものだしね。うんうん。
熱っぽい頭で旧プールの天井を見上げる。斑な空は幸福を知らない少年でも不幸を忘れられるように優しい表情を見せている。ここが社会から隔絶された場所なのだと、妖精たちの秘密の隠し場所なのだと再認識することができる。
なんてね。
天井を見上げても何も感慨がわかなかったから、適当な言葉をあげつらって誤魔化してみた。結果として無味無臭な言葉を増産しただけだったけど、こんなもんだろ。うん。
気付いたら海住が、プールから僕を眺めていた。
「前から気になってましたけど」
「うん。何でも聞いてくれ」
「まの先輩、よく空を見上げてますよね。どうしてですか」
「あー、それは……」
特に理由もない。空模様が気になる、というのが一番正しい答えだろう。だけど味気ない答えを返すのも勿体ない気がしたのでちょっと捻った答えを返すことにした。
「バカは高いところが好きだからね」
「ふーん」
「……あっ、マジで僕のことバカって思ってるだろ」
「べつに、そんなことありませんし」
「本当かねぇ」
僕が肩を竦めると、海住は楽しそうに笑った。
誰かを笑顔にするため自己を犠牲にしたならば、それは
うん。今日はここまでだ。考える程に、頭が熱っぽくなっていく。
「ところで僕からも聞きたいことがあるんだけど」
「なんです?」
「海住はどうして一人で泳いでるんだ? タイム競うなら他の部員と泳げばいいし、まったり泳ぐのは新プールでも出来るだろ」
「…………」
「先生と泳いでいる時は楽しそうだったけど、今は、あんまり」
泳ぎに張りがないっていうか。何処か、魂が抜けているようだったから。ふと思い浮かんだ疑問を口にしただけなのに、海住の視線がゆっくりと下へ向いていく。
「あぁ、無理に答えなくていいよ。これは好奇心から聞いたもので、医師が診療のために行う問診とは違うんだから」
「…………そうですね」
「深く考えなくていいって。ごめん」
迂闊だった。僕は過去を尋ねられても知らぬ存ぜぬで通せるけれど、この施設にいる人間の多くは過去に一物を抱えている。触れられたく無い傷跡に触れられる程、屈辱的な痛みもないだろう。
海住は曖昧に微笑んだまま、プールサイドへと上がって来た。濡れた競泳水着は彼女の肌に吸い付いて、身体の線をくっきりと浮かび上がらせている。濡れる前はどんな色だったろうか、と眺めていたら彼女が自分の身体を抱いた。
うわっ、蔑むような目だ。
「いやらしー」
「そ、そんなつもりは」
「じゃなんですか。どーせ、まの先輩はむっつりでしょ」
「失敬な。ぼかぁね、やるときはやる男なんだぞ」
ベッドの上で女性と語り明かした記憶なんて、ないんだけどね。
海住は僕の髪をわしわしとかき回してから、羽織るためのタオルを取りに向かった。休憩用の小部屋へと入っていくと、真っ白に洗濯されたタオルをローブのようにまきつけて、僕の隣へと戻ってくる。
ちょこんと真横に座ったからには、嫌われたわけではないようだ。
「まーの先輩。どうして、私と喋りたかったんですか」
「……前にも説明しなかったっけ?」
「もう一回。確かめておきたいので」
「この施設に来て、最初に喋った患者が海住だったから」
同族意識みたいなものだよ、と付け足した。
海住は視線を宙へ彷徨わせて、歌うように尋ねてくる。
「オセロ先生と仲良くしているのはどうして?」
「悪い人じゃないから。まぁ、傍若無人のケはあるみたいだけど」
「入間と仲良くしているのは?」
「彼は、僕に声をかけてくれた初めての人だから。それに、気も合うし」
「ふーん。トクベツな理由、ないんですね」
「そうなる、のかな」
素直に答えを返していたら、海住は盛大な溜め息を吐いた。
「なんだよ」
「まの先輩、恐ろしいほど無防備ですね」
「そうかな」
「じゃ、まの先輩。この施設に来てからのこと、詳しく説明してくれますか」
「え? いいけど。まず」
「はい、ストップストップ」
初日から全部を話そうとしたら差し戻しをくらった。突き出した手のひらに青色の炎が揺らいで見えるほど迅速な動きだった。
「そうやって、自分を曝け出せないんですよ、普通」
「はぁ」
「といって、過去に自信を持っているわけでもなく」
「記憶喪失だからなー」
あっはっは、と笑う。海住的には面白くなかったようで、スマンと謝った。
「もっと身構えてよ。心に壁を張って生きている私がバカみたいじゃないですか」
「僕だって自己防衛して生きているつもりなんだけど」
「ダメダメです。まったく」
言い淀みと、溜め息。海住は数度繰り返して、その間、僕は黙りこくっていた。
言葉ってのは難しいものだ。何かを成そうとしている人の背中を押すこともあれば、臆病な人間にトドメを刺すこともある。だから迂闊に安易な言葉を使ってはいけないのだ。
普段の僕が言えたことじゃないけれど。
濡れた肌が渇いた頃に、彼女はようやく喋り始めた。
「私、事故に遭っちゃったんですよ。それで昔ほど、はやく泳げないんです」
そっとタオルをめくって、健康的に筋肉のついた脚を外気に晒した。邪な僕には眩しいくらいの白い肌だ。
本当は目を逸らしてしまいたかったけれど、彼女が指を差したものだから、仕方なくそこへと目を向ける。凝視しなければ分からないほど薄くなっていても、そこには傷が残っていた。交通事故が原因となって施設に来た、のだろうか。だけど自殺者だけに首輪が付けられているのだとしたら、その事故は故意に起こしたものになるはずで。
僕が妄想にも似た想像を繰り広げていたら海住が答え合わせをしてくれた。
「言っておきますけど、ここへ入った理由は事故とかじゃないですよ」
「あぁ、やっぱり?」
「飛び降り自殺、をしようとしたんですけどねぇ」
「……わぉ。想像したら眩暈がした」
「そんな怖いものじゃありませんよ。ぜんぶ諦めて、ふわっと落ちるだけです」
ジェットコースターより遅く、天使が迎えに来るより早く。地獄への一本道、地面へ叩きつけられるだけの未来を想像して、いい気分にはならなかった。
「よく生きてるね」
「やー、学校の屋上から飛び降りたら、見事に中階のベランダにひっ掛かりまして」
にこやかに笑った彼女は、脚に細い指を這わせた。骨が砕けたのか、肉が抉れたのか、痛みに喚いたのか、苦しみに泣いたのか。彼女が経験したことを想像するだけで内臓に重いパンチが入ったように気分が悪くなった。
……。
でも。
彼女のおみ足に視線を奪われるんだから、僕って奴も大概だ。
「あ」
というか、結構大切なことを忘れていたぞ。
「海住が一人で泳いでいるのって、傷を隠したいから、なのか?」
「悪いですか」
「へぇー、あぁ、いや、悪くないよ。ただ、意外だったというか」
「……私だって、女のコですし」
「そんな意味じゃないよ」
「じゃぁどんな意味なんですか」
海住は拗ねて頬を膨らませてしまった。
うーん、正直に言ってしまおうか。言わないでおこうか。
などと迷う前に、唇が自然と動いてしまっていた。
「海住は美人だし、脚の傷だって宝石の装飾みたいなもんだよ」
「…………まの先輩?」
「あ、傷があればいいってのじゃなくて、傷があっても気にしなくていいっていうか」
上手い言葉が見つからないのはいつものことだけど、今回は酷いな。傷があるから美しいなんて、狂人の考えることじゃないか。脳の中枢組織に深刻な影響を与えてきそうだ。
慌てて言い訳を見繕っていると海住に頬をつままれた。なぜか彼女は笑っていた。
「先輩、ほんとーに無防備ですね。無謀とも言えます」
「なんだよ。意味わかんないよ」
それでいいと言わんばかりに、彼女は僕の頬を突いてくる。なにか魅力でもあるのかと自分の頬に触れてみたけれど、普段より少し熱いくらいで柔らかくもないしハリもない。剃り切れなかった産毛みたいなヒゲが、微かな刺激を指先に与えてくるだけだった。
実を言うと、と彼女は自分の唇に人差し指をあてた。
「この施設に来てからは、ここでしか泳いでないんです」
「他の水泳部の人とは?」
「泳いだことないです。だって、他人に肌を晒すのは怖いですし」
「猫田先生とは泳いでいたじゃないか」
「一応は施設の職員だし、相談も受けてくれますし」
「……あの人のこと、嫌いじゃないんだな」
海住は、コクリと頷いだ。
カギ泥棒として先生と追いかけっこをしているけれど、当人同士が憎みあっているわけではなかったのか。悪友って感じなのだろう。そんな相手がいた記憶がない僕には羨ましい限りだけど。
海住はタオルを身体に巻きなおすと、そのままパタンと横になった。
「ふぅ。話したいこと、半分は話せました」
「もう半分は?」
「……自殺に至った経緯、知りたいんですか」
「君が話してくれるなら」
などと、相手を試すような言葉を口走る。
僕は、本当に悪人なのだと思う。
彼女は足をばたつかせて考えた後、首を横に振った。
「次の機会にしておきます。私ばっかり話すのも不公平ですし」
「そうだねぇ。僕も昔のことを思い出せればいいんだけど」
「ふつーに、今楽しみなこととか、面白いと思っているものを話せばいいんですよ」
「そう言われても。女の子と喋るのは苦手なんだ」
「うっわ、今日一番嘘くさい台詞出ましたね」
なんて酷いことを、と腕を組んで威嚇してみたら足蹴にされてしまった。本当に脚が飛んでくるのだ。げしげしと、綺麗な脚が僕を軽く踏みつけてくる。その足を掴んで、そのままプールに落とす素振りを見せると彼女もそれなりの抵抗をしてきて、ジョークと本気の境目で、ずっと力比べを続けていた。
僕は何もしていないんだ。人生がゲームで、ここにセーブポイントがあったとしても、記録に書けるようなことは何もしていないんだ。これも人徳のおかげ、なのだろうか。うーん。
疲れて動きが鈍くなった海住の脚を掴んで、くすぐってみた。流石に怒ったのか本気で抵抗されて、服を着たままプールへと落ちてしまった。まぁ、猫田先生に濡らされたときほど理不尽じゃないし、元は僕が悪いってことにしておくか。
濡れ鼠になって、僕は盛大なくしゃみをかますのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます