第17話 本編 3 - 7

 青い空を眺めていたら、全身がずぶ濡れになっていた。

 にわか雨にしては局所的で、そもそも僕が立っている周辺の地面を除いてはどこも濡れていない。これはおかしい、不自然にも程度ってものがあるのだ。取り敢えず水の塊がぶつかって来た方へ振り返ってみると、何処から湧いて出てきたのか、赤いジャージ姿の女性が経っていた。

 しっかりと握ったホースは、栄養満点に肥え太った蛇みたいに膨らみ切って、新たな獲物を逃すまいとのたうち回っている。たじろいで後ろへ下がりそうになった足を懸命にその場へとどまらせて、僕は啖呵を切った。

「何をしてくれやがったんですか」

「ん、怒っているのかい」

「怒らない人の方が珍しいでしょ、先生」

「そうカッカすんなって。青春に邪魔はつきものだろ」

 破顔一笑して、再びホースを向けてきたのは猫田オセロ。

 一応、この施設で先生をやっている人だった。本当に先生なのか、長年入院していたことで特権を与えられたタイプの患者とかじゃないだろうな、とか邪推してみる。流石にないか。

 でもよぅ。

 心の衰弱した患者に冷たい水を頭から浴びせかけるだなんて、ひょっとして心臓発作とかを狙っていらっしゃるのか? これは怒りの感情で心を温めねばなるまいと奮起してみたけれど無理だった。世界の不条理が一気呵成に畳み掛けてきても、僕の心はこのままなのか、と不安になってしまう。

 というか。

「先生、どうしてここに?」

「んー、暇だったからな」

「回答に理由がないので減点ですね」

「困るなぁ、首席で卒業するつもりだったのに。次席の奴に抜かれちまうよ」

「塵芥なプライドより自責の念を思い出して? 今すぐホースを仕舞ってくれよな」

「おっと生意気な年下のせいで手が滑った」

 彼女がしっかと掴んでいたホースの口を離すと、圧力の高まっていた水が爆発するように僕へと襲い掛かって来た。本格的な夏にはまだ遠くて、ほんのり温い天気の日にこれだ。

 刺さるほど冷たい水が実際に刺さるほどの勢いでぶつかって、これは水を無駄遣いすることで地球という生命体に反抗しているのだな? と頭が茹で上がっているようなことを考えてみたけれど、どうにも現実の冷たさに抵抗するには熱量が足りないようだった。

 ぐぅ。

「ちょ、本当にやめてください」

「嫌だよ。これは私の趣味なんだ」

「悪辣な趣味ですね」

「失敬な。将来有望な若者が芽吹くようにと、水をやっているだけじゃないか」

「僕は植物じゃないんですけど。あと、美人だから何しても許されるとか、そういうこと考えているなら大間違いですからね」

「ん? 美人は刺々しくても許されるものだろう?」

「えぇ……」

 猫田先生は、自分が美人である、ということに疑問を持っていないようだ。その自信は肌のハリと心の艶に直結するだろうから、今後も持っていてもらうことにして。

 海住が旧プールに立て籠っているから、彼女もここへ来たのだろう。鍵を勝手に持ち歩くことを許容して、それが原因となって不始末が起こることを避けたいのかもしれない。ひょっとしなくても海住のしていることが間違っていて、先生のやっていることが正しいのだろうけれど、僕には片方を咎めて片方を擁護するだけの気力や体力がないわけでして。

 泳ぎたいだけなら、新しい方のプールへ行けばいい。ソリが合わない人間がいるのだとしても、旧プールを独り占めする必要性は感じない。他人を締め出してしまうのは、独りよがりというものだろう。

 だけど。

 他人が勝手な妄想を繰り広げられるほど、人間同士の関係性は単純明快なものじゃない。よく知りもしない相手なら、尚のこと不明な点も多いものだ。だから海住と先生の間にも、僕が知らない過去や考えの及ばない思想のやり取りがあるのかもしれないのだ。

 ゆえに口出しをしないのだと、鈍感な心を誤魔化してみた。

 閑話休題。

 ずっと水を掛けられているものだから、滝行の一種かな? と脳が誤認を始めている。平たく言えば現実逃避のことだ。社会からエスケープするために自分を殺したのに、まーた同じ轍を踏むのは芸がないなと感じたから、せめて抵抗しておくことにしよう。

「水掛けるの止めてもらっていいですか、先生」

「えー、ヤだよ。これは私の老後の楽しみにするんだ」

「意地悪なバアさんだな! ……先生、僕もね、歩いて五歩のところにホースがあるわけですよ」

「脅しても無駄だぞ。まぁ、試すだけならいいけど」

「へぇ、ってか、顔に掛けないでくださいよ。息苦しいんですけど」

「はぁ? いいじゃないか、寒空の下で水を浴びるのは気持ちいいだろう?」

 にこやかな顔で笑う先生は、こちらの都合などお構いなしにホースから水を放ってくる。旧プールの傍にあった水道に接続されているホースを引き抜いて彼女の攻勢を押しとどめるのもいいけれど、その隣にあったホースを手に取って戦う方のも充分考慮に値する案件だ。

 だって、格好いいし。

 先生が水道の傍から離れた位置に陣取ったのも、そうした抵抗を許容しているからこそに違いない。などと全世界が自分に寛容であることを前提として結論を出してからホースを取りに向かった。

「待ってろよ先生、僕を濡らしたことを後悔させてやるぜ」

「別にお前を濡らしたからって、特別楽しいわけじゃないんだけどなぁ」

「だったら今すぐ止めろって」

「んにゃ。暇だし、なんかムカつくから嫌だ」

 えぇ……マジかよ。

 あーぁ、小学生の頃に友人と似たような遊びができたなら、きっと楽しかったんだろうな。留まることを知らずに流れていく時間も、行動に付随する周囲への被害や、後始末の大変さを考えずに遊ぶことが出来たなら尚更に。

 それはそれとして。

「あれ! こっちだけ水が出ないじゃないか」

「旧プールだからな。壊れても放置してあるんだよ!」

「分かってて宣戦布告したのか。卑怯だぞ!」

「はっはー、情報戦に負けた奴が遠吠えしてやがりますねぇ」

 この施設で、今一番笑っている人は猫田先生だろう。

 そう思うほどに、彼女ははしゃぎまわっていた。

 僕も走って、その場を離れる。

 水に濡れた制服が重くて、むしるようにボタンを外す。

 解放感が胸に去来した直後、不意に旧プールの方から声が聞こえてきた。

「ふたりとも、何をしているんですか……?」

「あぁ、海住か。別にケンカとかじゃないから安心しろよな」

「そのくらい分かりますよ」

 いい歳して、と海住の呆れた顔が言葉以上に雄弁だった。恥ずかしくなって、走り回っていた僕は方向転換をして水道の方へと馳せ戻った。蛇口を急いで閉めると、再び元気になり始めていた猫田先生のホースも、しゅんとしぼんでしまった。

 いやぁ、でもなぁ。

 売られた喧嘩は買わないと、一生後悔するって子供の頃に学んだんだ。セール期間に買いたいと思ったものは、セール終了後も欲しいままだし。後から慌てるよりも、手に入る時に勝っておいた方がいいだろう。ん? 話が違うって? まさかァ。

 そういうわけで、僕は悪いことしてないからな。

 旧プールに鍵をかけて、海住が僕の元へと寄ってくる。彼女が胡散臭いものを見るような目を向けてきたものだから、怒られるんじゃないかと冷や冷やした。

「まったく、ずぶ濡れじゃないですか」

「なんか、ゴメン」

「いいですよ。っていうか、先生と仲良しですね」

「んー、似た者同士、だし?」

 たぶん。きっと。メイビー。

 海住は曖昧に頷くと、今度は先生の方へと向き直った。ただし距離を詰めることはなく、何かに警戒しているように見えた。もし猫田先生が襲い掛かって来るようなら、躊躇なく僕を盾にして逃げるだろう。

 いつものことだな。うん。

「先生、嫉妬でもしてたんですか」

「んなわけないだろ」

「ですよね。嫉妬するようなことありませんもんね」

 海住は、ちょっと冷めた目で猫田先生を見ている。普段から追いかけられているようだし、苦手意識があるのだろう。百々のことも嫌いみたいだし、病院に来てから無駄に告白を受けて振ってきたせいで敵も多いだろうし、大変だなぁ。

 友達、いるんだろうか。

 友達がいないままに送る青春のことを考えて、ぐらりと足元の平衡感覚が壊れる。

 ぶるっと背中が震えて、くしゃみが出た。

「まの先輩、はやく帰って身体あっためないと。春でも風邪はひくんですよ」

「ん、そうだね」

「ほら、分かったら早く。この場を脱出しましょう」

「え、後片付けは」

「オセロ先生がやってくれますって」

「あっ、おい海住。鍵を私に……ちょっと待てよ!」

「ざんねーん、待ちませーん」

 海住にせっつかれて、せっせと後片付けをしている猫田先生から離れていく。

 背中を押されて、そのまま男子寮まで送られてしまった。

 (たぶん)年下の少女に心配された僕は、やっぱり弱い人間なのだろう。視界の外に弾き出していた事実を眼前に突き出されたことで、頬が熱くなる思いだった。

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