第16話 本編 3 - 6
食堂を出て海住の後ろについていく。
僕は犬みたいだった。
散らかっていたものを片付けるからと締め出されて十五分、ずっと錆びた鉄の扉を睨み付けている。昨日に比べれば温かい天気に救われているようだ。食後の眠気もゆっくりと体に染み込んでくる毒のように広がっていて、僕は大きな欠伸を漏らす。
このまま海住が籠城を開始したら。そもそもプールに散らかるようなものあったっけ。思考は暗く、他人を疑う者ばかりが巡っている。それじゃいけないと首を横に振ってみると、旧プールの錆びた扉が、キリキリと音を立てて開いた。
中から覗くのは、海住の不安そうな顔だった。
「あのー」
「ん?」
「今更の話で恥ずかしいんですけど。私、あなたの名前を知らないんですよ」
「えっ、それは本当かい」
「何度か助けてもらったし、私から助けてって言ったのも覚えているんですけどね」
「あれっ、自己紹介してなかったっけ」
「……その、ごめんなさい。私が覚えてないのかも」
困ったときに頼むと助けてくれそうな人、ってのしか覚えてません。それだけ言うと、海住は扉の影に隠れてしまった。彼女との邂逅、それと昨日の会話を思い出そうと記憶をほじくり返してみたけれど、はぁ、なるほど。
そうか。僕も名乗っていないのか。
「ごめん。肝心なところが疎くて」
水泳部の部長を自称していた金髪の青年よりも社会性がなかったようだ。いやぁ、そりゃ確かに、所属も素性も不明な相手とお喋りしようなんてハードルが高すぎるよな。
相手が名乗らないことに対して文句を言っていたはずが、僕自身も似たようなことをしていたなんて恥ずかしい。穴があったら手榴弾を鞄一杯に詰め込んで逃げ込みたいぜ。
ちゃんと謝って、改めての自己紹介をすることにした。
「僕は天野修一。半月ほど前に、この私立済世病院へとやって来た患者だ」
「あれ? 意外と、最近なんですね」
「らしいよ。あと――」
過去が曖昧で、記憶も破損していることを告げようか。だけど友人としての親愛度が低い相手に重大な秘密を打ち明けられても、普通は受け入れることが出来ないだろう。そう考えて、ここに来てから数日の無難な行いや、百々と仲良くなった経緯などを説明するにとどめた。
ちなみに、この場合の普通とは僕のことである。仕方ないね、世間の常識だって誰が作っているのか分からないんだから。
海住は扉の隙間から、するりと表に出てきた。胸がつっかえて扉を押し開いたけれど、特に制服が汚れている様子もなかったので安心した。
「それで、なんて呼べばいいんですか」
「何でもいいよ。百々みたく、修一とか」
「あの人と一緒なのは嫌です」
番犬が不審者に歯を向けるように、海住も顔を微かに歪めて唸った。イルカよりもシャチっぽい表情だ。名前負けしていないのは素晴らしいことだネ、ということにしておいて。
「先輩、でいいですか」
「うわぁ、他にも沢山いそうな呼び方だ」
「いませんよ。私、交流したのは同い年の子だけですし。年上で交流があるのは先生とか、部長? くらいだったと思いますし」
「そっかぁ……」
「不満なら、マノ先輩で」
「まの?」
「あまの、だし」
マノマノー、と彼女は屈託なく微笑みかけてくる。他人との壁に高さの揺れがある少女だこと。あと、彼女から見た僕は年上として映っているようだった。良かった、十代の子に同い年認定されたら凹むところだったぜ。
渾名付けが終わったところで、彼女はくるりと身体を反転させた。
その足取りは軽く、目的地は旧プールの屋内だ。
「それじゃ行きましょう。私の御城へ!」
「一応ツッこんでおくけれど、ここも病院の施設だからな」
決して海住の所有物などではないのだ。
扉を開けてすぐの場所に靴を脱ぎ捨てて、脱衣所を横目に青と緑が混ざったような色をした天井を見上げて歩く。くるぶしまで消毒液に浸かってから、僕らはプールサイドへと向かった。
思っていたよりも広々としている。高校生が泳ぐプールとしては距離が短いけれど小学生の頃は、これでも十分に広かったなぁと二十五メートルプールで感傷に浸ってしまった。うぅ、三十歳にもなっていないというのに、これで将来大丈夫なんかな。
はぁ。
藻が繁殖した緑色の水槽を想像していたのに、良い肩透かしを食らってしまった。
ぐるりと室内を見渡すと、隅に設置された棚に見慣れた物品が並んでいる。
「おっ、ビート板だ」
「そこに目を向けるとは。ひょっとして泳げないんですか」
「いいや、平泳ぎなら大丈夫だよ」
ただしクロール、お前は本当にダメなんだ。などと、隙があれば僕自身について語っておこう。海住にも、僕のことを知ってもらいたいし。
自由形のことを本当に自由に泳ぐことだと思っていた小学生の頃の僕は、体育の授業で溺れそうになっていたからね。うん、この記憶だけは本物だという確信がある。プール下のトイレが汚くて、近所で捕まえたタガメをそこに持ち込んでいた同級生がいたことも。ビート板も使ったことがあるけれど、水中に沈めたヤツの浮力を侮った結果、顎を撃ち抜かれたことに対する恨みも残っている。
うーん、あまり良い思い出がなくて残念だな。
旧プールには、一通りの備品が揃っているようだった。海住も日がな一日泳いでいるわけではなく、気が向いたときは備品の整理や清掃なども行っているらしい。まぁ清掃に関しては、やらないままだと不潔だしな。
一通りの案内が終わると、海住は乾いているところを探して、ごろんと横になった。制服のままだけど、それでいいのか。体育の授業とかで校庭に寝転がるのにも抵抗がなかった人なんだろうな。僕もそうなんだけど。
「よっと。隣、失礼するよ」
「はいはーい。……こうして案内していると、なんだか転校生を案内しているみたいですね」
「あぁ。未だに友人も少ないし、部活にも所属していないダメ転校生だけどな」
「アニメとか漫画なら、とっくに友達が一杯いるんでしょうけどねー」
「それが、どうにも難しいんだよなぁ」
大きな欠伸が聞こえて横を向く。海住はビート板を枕にして夢の国の入り口に立っていた。目を閉じて惚けているところは可愛らしい。百々が喋らなければ格好いいのと似た理屈だろうな。
それからしばらく、ぼんやりと平穏な時間を過ごした。
差し障りのない言葉を交わして、長閑で退屈な時間の流れに身を任せる。たまに体を起こしてプールに手を突っ込んでみる。温かった。熱いとまでは言わないけれど、夏場のプールほど身を切る冷たさではない。
それにしても、だ。
隣に知り合って間もない相手がいるのに海住は眠れるのか。胆力のある子だなぁ。
「海住、寝てていいのか」
「だいじょーぶです。ここ、ほんと誰も来ませんし」
とろんとした瞳で彼女は答えてくれた。僕が無害な人間だと分かって、心の防壁が薄くなっているなら嬉しいけれど、たぶん眠いだけだろう。結構喋ったし、青春ポイントも少しなら入って来るだろう。無防備を晒してもらっても変なことをするわけにもいかないし、と僕の方から解散を宣言した。
ここで寝ようとする彼女を揺り起す、ために触れるのが躊躇われて声を掛けるだけにとどめた。何度も首を横に振られてしまったが、風邪をひいてもつまらないだろう、ここに放置して風邪をひかれると良心が痛むんだ、と無理に起きてもらった。
部屋に戻ってくれるなら、どれだけ寝て貰っても構わない。太陽が出ている間に惰眠を貪っていても怒られない環境が、この済世病院なのだ。だって、それは魂を癒すための治療として眠っているわけだし。
あ、そうだ。
「聞きたいんだけど、海住は実家から通っているのかい」
「いいえ? ふつーに寮からですけど」
「でも、寮には男子しかいないから」
「私のとこ、女子しかいませんけど」
「……そうなのかい?」
「もー、鈍いですねぇ。マチガイが起きちゃいけないから、ですよ」
彼女が頬を膨らませたのを見て、考えを巡らせる。なるほどと得心した。
これで男子寮と女子寮を分けているのは確定した、そしてその最たる理由もはっきりした。自殺を経験した僕等は、厭世的になるばかりが筋じゃない。自暴自棄に陥って、異性へ積極的で暴力的なアピールに走ろうとする人がいないわけじゃないのだ。そのあたりは病院側も配慮と苦慮と考慮を重ねて施設へ入所させているに違いないのだけど、成程、男女を分けてしまうってのもアリなわけだ。
青春を送るべし、ってのもいいけれど、漢字が違うと感じが変わるもんねぇ。
あくまで大人達が想定しているのは、健全で真っ当な青春なのだろう。
寝惚けていた海住が再三の背伸びと欠伸で目を覚ましてから、僕等は旧プールを離れることにした。肩甲骨がパキポキとなっていたし、限界まで背中を伸ばした彼女が軽く飛び跳ねたときに胸元が揺れて視線を吸われた。これじゃ信頼もなくなってしまうから、と慌てて目を逸らす。
旧プールから出た後、忘れ物をしたから、と海住は一度ひっこんでいった。元気よく走り去って行った彼女の後姿に、ふと新しい目標が浮かんでくる。欲望と言い換えても良いだろう。
彼女が泳いでいるところを、見てみたい。
それが、僕の願いになった。
空を見上げれば、屋内プールの天井とは比べ物にならないほど澄んだ青色をしている。雲との距離感は人間のそれよりも分かりやすく、あまりに遠い場所にあって触れられないものを観ていたら、上へ落ちる感覚に眩暈がした。首を下に向けて、喘ぎながら深呼吸をする。
旧プールは落ち着く場所だった。恐怖は感じないし、寝転んでいるだけで時間は流れるように過ぎていく。蕩けるような眠りに落ちるのも簡単だったに違いない。嗅ぎ慣れない塩素のにおいが小学生の頃を思い起こさせるのか、それとも海住という少女が僕にとって悪を成す存在ではないと魂が信じ切って油断しているのだろうか。
考えても分からないことは多いけれど、ひとつだけ、心配なことはある。
また、彼女と話す機会に恵まれるだろうか。
「……ふぅ」
そんなことを考えていると、不意に背筋を冷たいものが走った。
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