第14話 本編 3 - 4

 鉄の扉の向こうには怯えた表情の少女がいる。

 それだけで僕は、犯罪者になれる気がしたよ。

 早めに誤解を解かないと金髪の彼が戻って来て事態が更に混迷を極めることは予想に難くなかったから、まずは彼女の警戒心を和らげることにした。さて、何をすればいいのかな。

 そんな対応策をすぐに思いつけるなら、誰だって苦労しないんだけど。

 扉の向こうの海住も握っているのだろうドアノブは少し冷たくて、ギッチリと固く動かない。気を抜けば徐々に閉まっていく辺りも、僕が信用されていないからこその行為なのだろう。

 ふぅ、まずは危険人物じゃないことを知らせないと。

「な、なんですか」

「いや、ちょっと時間が貰えないかと思って」

「私は忙しいので、他の人を当たってください」

「ここに来た理由も言ってないのに?」

「じゃ、理由だけ言って帰ってください」

 帰ることが前提なのかよ、と内心で突っ込みを入れた。春先にしては涼しい風に鼻をヒクつかせながら、扉が閉じてしまわないように改めて力を込める。

 そういえば。

「統計的には、新聞の勧誘よりも宗教の方が多そうだよね」

「はい?」

「人類の九割は信仰心に篤いから、何らかの宗教活動に参加しているんだって」

「はぁ」

「信仰心というのは神様にとっての現金収入に等しいからね。神様として奇跡を起こすためには徳を消耗するけれど、それを回復する唯一の手段が他人からの信仰心を圧搾機にかけて変換コンバートすることなんだぜ」

「……んん? それ本気で言ってます?」

 初対面の人を盾代わりにして職員室からの脱走を図ろうとした女性に言われたくない言葉だなぁ、と過去を詐称しつつ感想を述べておこう。僕を盾代わりにしたというよりも、見知らぬ他人の親切心をアテにしていたわけだし。……盾とアテ。

 ふふ。

 戯言として吐き出したテキトーな言葉(嘘八割)を、正常な脳髄が反射的に拒否してしまったのだろうか。彼女が腕に込める力が如実に強くなっていた。こじ開けようと扉のスキマにかけた指が、徐々に圧迫されていることに焦りを感じてきた。やっぱりこの学園にも、百々や猫田先生、そしてさっきの男性みたいに戯言を戯言のまま転がせる人は少ないのだろう。

 イテテ。

 平穏だからこそ、愛すべきセカイって奴みたいだな。

 指先の感覚が薄れてきた。

 これは、ちょっと急がないと。

「冗談だよ。ほんの触りじゃないか」

「もうお腹いっぱいですし」

「はっはっ、君も冗談が上手いねぇ。っていうかマジで指がちぎれそうになってきたから、ちょっとだけドアを閉めようとする力を弱めて貰っていいかな」

 妄想の範疇に過ぎないことだけど、もしもの可能性を考慮すれば恐怖に値することだ。早めに対処しなければならないのだけれど、こう言ったときに上手いこと喋れるような人間だったら社会生活に完璧な適応が出来たんじゃないかなぁ、とか思ってみたりもして。

 うぐ。

 正直は美徳だ、と誰かが言った。

 その言葉を真実と受け取ってしまったから、何処かの誰かは嘘が苦手なのだ。

「君と話がしたいだけなんだ」

 馬鹿正直にここへ来た目的を告げると、扉を内側へ引く力が若干ながら弱まった。指がちぎれそうだ、と泣きごとを言ったのも彼女の心に精神的衝撃ダメージを与えているのかもしれない。誰だって、不用意に加害者になるのは望まないだろうし。

 指先にも血液が流れ始めたのか、ジンジンと痺れるような痛みが燃えるような痛みへと変わっていく。流石にこれで切断されることはなくなったなと安堵のため息を漏らしつつ、僕は言葉を繋いだ。

「君が何処から通っているのかも分からないし、施設内でも数回しか見たことがないからね、水泳部の顧問に話を聞いてきたんだよ」

「…………」

「そうしたら、現在は使用していないプールに立てこもっている、って話だったからね。驚いたよ」

「…………」

「僕と最初に会ったとき、と言っても君は覚えていないかもしれないけれど、あの時もこのプールの鍵を持って逃げようとしていたんだろう? よければ、そんなことをしている理由とかを聞いてみたいなって」

 一向に扉が開く気配はない。その代わり、閉まる様子もなくなっていた。

 こちらから扉を開くことはないけれど、彼女が無理に閉めようとすることもない。

 果たして彼女が何を考えているのだろうと想いを馳せているうちに、扉に掛かる力は完全になくなった。彼女もドアノブに手を掛けたまま、扉の向こう側に立ち尽くしているのだろうか。

 現実の鍵が開いたなら。

 次は、心の鍵を開かないとな。

「どうか開けてくれないか。少し話をしてくれるだけでいいんだ」

 その後、僕は何処かへ消えていくだろうから。

 君のことも、記憶から薄れてしまうだろうから。

 こうして言葉を並べると、僕があまり良い人間ではないことが分かっていく。海住にとっての得がない些細な出来事に時間を使わせて申し訳ないと思う。だけど、その過程を経なければ、僕は先に進めない気がするのだ。過去を失ったのに、現在に未練を残して未来を向き合わなくちゃいけないなんて、それはあまりにも滑稽で、無慈悲な物語過ぎるじゃないか。

「……本当に喋りに来ただけなの?」

 扉の向こうから声が聞こえて来て、藁にもすがる気持ちで言葉を続けた。

 家の外に放り出された飼い犬が、主に向かって懸命に鳴き声を上げるように。

「本当だよ。それだけなんだ」

「なんで私と話をしようと思ったの」

「僕がこの施設に来て、最初に喋ったのが君だったから」

「友達いないの?」

「…………」

「他の人と、お喋りすればよくない?」

 それを言われると僕は辛い。

 怒ってないよ、泣いてないよ、でも辛いところを突き刺された気がするんだ。

「友達はね、いないわけじゃないよ」

 でも、と言葉を続けて。

「君と話がしたいんだ」

 百々とは、割と意気投合しているし。彼の部屋で一緒にご飯を食べる程度には親しい仲なのだ。ただまぁ、見知らぬ人とだって、ご飯を食べるだけなら難しくないよという人の方が多いだろうから、社会という枠組みで眺めたときに僕の友人付き合いというものは酷く狭くて息苦しいものに違いない。そういうわけで、僕に友達はいないわけじゃないけど、あれ、それって本当に友達なのかっていう話。

 ん? 何の話だっけ。

 悲しかったことだけを覚えているのに、肝心の話題を忘れてしまった。

 これも脳細胞が木綿豆腐みたいにスカスカなせいなんだぜ、と面妖な言葉を社会に放流して遊びたかったのだけれど、相手が海住だったから言わないでおいた。多分、百々とか猫田先生相手なら考えるより先に口から出ていただろう。

 さて。

「三分でいい」

 適当な時間を提示してみた。交渉はまず、妥協点を探るところから。

 ウマがあえば、自然と話す時間は伸びていくだろう。

 反応をうかがっていると、扉の隙間に彼女の鮮血にも似た赤い髪がちらついたような気がする。

 あの揺れるポニーテルの向こう側に、人懐っこい表情が透けていた。それを思い出すだけで妙な胸騒ぎがするのを、何と捉えるべきだろう。そこで恋だと言えたなら、途方もない幸せ者だったろうに。嘘吐きが詐欺師の嘘を見抜くような、不毛なやり取りが、そこにはあるような気がしたんだ。

「じゃあ、さ」

 扉の向こうにいる海住は、ひょっこりと顔を覗かせた。肉食動物から逃げ延びた後の草食動物が、周囲の視察をしている時と同じ目をしている。くりくりとした真珠玉のような瞳に覗かれて、薄ら暗い気持ちなど何も持っていないはずなのに逃げ出したい衝動に襲われる。なるほど、確かに彼女はイルカのようだった。

「告白しに来た、とか言わないよね」

「流石にそれはないよ。絶対にない、と断言するのも構わない」

「即答は即答で傷つくんですけど」

「えっ、なんで」

「私、ここに来てからミョーにモテるし。知らない人に付きまとわれたりするから」

「……だから、僕も同じだと思ったのか」

 別に付きまとった覚えもないし、まぁ、彼女に対して好意的な側面があるのは否定しないけれど、それでも告白に至る病を胸に抱えているわけじゃない。だから特別身構えて貰わなくて結構だし、彼女の側から意識して視線を向けられるのも困る。

 僕は女性に対する免疫が強い主人公属性など、持ち合わせてはいないのだから。

「大丈夫だよ。僕は君に告白しようとして、ここに来たわけじゃない」

「やけに誇張しますね、そこ」

「あぁ。勘違いして、互いにイヤな思いはしたくないだろう?」

 それに、だ。

 告白してないのに振られた雰囲気があるのは、僕の沽券に関わるのだ。

 ふんす、と必死に胸を張って微粒子レベルのちっぽけなプライドを守らなくちゃいけない時が、オトコノコには存在しているのだ。その為に、常日頃から背中を刺されても倒れないような覚悟だけはしておきなさいと死んだ爺さんが言っていた。と漫画に描いてあって……うん。これ以上は信憑性がなくなってしまうので打ち切っておこう。

 ともかく。

「頼むよ。特別、聞きたいことがあるわけじゃないし」

「それなら、まぁ……」

 引っ込んでしまった海住だが、迷っているのは揺れる声色から伝わってくる。

 じっと扉の前から動かずにいたら、分かった、と声が聞こえた。

「ここでいいなら」

 鉄の扉の向こうに、彼女がいるのだと分かる。隙間からは暖かい風が吐き出されていて、逆に彼女の方には涼やかな風が吹き込んでいるのだろうけれど。

「ありがとう」

 ここに至るまでが長かったけれど。

 普通の人達なら、出会って、挨拶をして、それから。

 小説にすれば僅か三行の内容をこなすために、僕は半月も掛けてしまった。ここからようやく、僕の願う人生というものの一場面が始まるのだ。そう思うだけで、挟まれた指先の痛みも薄れていくというものである。

「寒いし、入れてくれてもいいんだぜ。あっ、待って冗談だよ」

 僕と彼女を繋ぐパスとびらのスキマが細くなるのを見て、慌てて条件を修正した。喋れるなら、場所なんて何処でもいいのだしね。

 扉のスキマから顔を出して、彼女が僕に薄く視線を投げかけてくる。

「ところで、何をしゃべるつもりで来たんですか?」

「実は決めてないんだ」

「えぇ、じゃ何の為に……」

「あぁ、待って。色々と噂を聞いたし、それについてとか」

 閉まってく扉のスキマに指を突っ込んだ。

 痛みをこらえながら、なんて扱い辛い相手なのかとほぞをかむ。

「分かったよ。変なことは聞かない。約束する」

「信用できません」

「はは、めっちゃ同意したいんだけどなー」

 悪いことをしていないのに非を認めることができるのは聖人君子などではなく、己の人生すら守る気のない臆病な嘘吐きだろう。根本的な部分で致命的にズレた妙なたとえ話になっているような気がしたけれど、まぁ、それはそれとして。

 僕は海住と話がしたい。その願いは変わらないのだから、達成するためには様々な手を使わなくちゃいけないのだった。

「明日、じゃなくてもいいのだけど。一緒にご飯を食べないかい」

「?」

「その、とぼけた顔やめてくれよ」

「だって、おっしゃる意味が分かりませんし」

「……まぁ、その場で閃いたことを喋っているだけだからネー」

 意味のない話じゃないだろう。その確信があるから、怯えることなく口に出すことが出来た誘いも文句なのだけれど。

「ここのルールは、君も知っているだろう」

 施設に入寮――というか、いつの間にか搬送と拘束を受けたあの日、目にした一文をそらんじた。そして、入間百々と話しているうちに僕の中で固まってきた病院側のイメージを適当な言葉に落とし込む。

「青春を送ること。それが、私立済世病院の鉄則だ」

 類稀な才能を持った若者たちが、挫折を乗り越えることが出来ずに自殺したなら。

 やる気と努力だけで進み続けてきた少年少女が、超えることのできない壁にぶち当たって動けなくなっているなら。それを手助けするのがこの施設だ。といっても、施設は環境を提供するのみであり、最後に這い上がるのは本人の手で、という非道なものだけど。

 それでも、時間があるなら。周囲に、自分と同じ痛みを経験した奴がいるなら。

 少しだけでも頑張ってみることが出来るかもしれないのだ。

 来世での幸福を願って自殺に成功した奴がいるのなら、異世界転生に失敗した若者が救われるために必要な物語だって存在する。僕は死後の世界も並行宇宙の存在も本気で信じてはいないけれど、死にきれなった僕達が、死にたくないと願い続けるために必要なものはハリボテの嘘でも存在すべきだと思うから。

「どうだろう。ご飯くらい、一緒に食べて貰えると嬉しいんだけど」

「……私、いつも食堂なんですけど」

「あぁ、食堂でいい。混み具合を知らないから、時間の指定は君に任せるよ」

 彼女は口元に手をやって――いるのだと思う。扉の向こう側の、陽の当たらない場所にいるから正確な動作や表情などを知ることはできない。けれど、少しは警戒心も薄れたようだ。

 もう一言か二言、継ぎ接ぎした言葉を口にすべきかと唇を湿らせる。

 ゆっくりと扉が開くと、サンゴみたいに赤い髪の少女が、外の世界から差し込む光をみて眩しそうに目を細めた。数日ぶりに眼前へ立った少女を観た感想としては、この子はこんな綺麗な子だったろうか、という疑問が八割を占めている。

 プールに入っていたのか濡れている髪と、気怠そうに細めた目と、洗い立ての真っ白なカッターシャツ。一人だけ夏を先取りしたような海住が、僕をじっと見つめていた。

「分かりました。いいでしょう」

 背の低い彼女は、僕を見上げて胸を張った。

「ご飯を食べるだけですからね」

「……あぁ」

「それと、妙な詮索はしないことです」

「分かっているとも。約束するよ」

 ありがとう、と僕は軽く頭を下げた。吹き付ける風が温かくなったのを感じて、寒かったはずの身体に僅かな汗がにじんだ。

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