第12話 本編 3 - 2

 海住に嫌われているという情報を猫田先生から教えられて、胸に去来したのは深い絶望にも似た失墜の感覚だった。その滑落ぶりは第三者からみても酷いものだったらしく、触れられることに対して控えめな拒絶を示していた先生ですら、肩を貸してやろうかと声を掛けてくれるほどのものだった。

 いや、大丈夫ですとも。

 そんな、まだロクに喋ってもいない相手に嫌われて凹むだなんて、そんな性格の人間ではありませんから。そもそも親しくもない相手に向けられた無償の愛情や憐憫ほど規律正しく生きることをモットーに生きている人間の心を傷つけるものはないんだぞ、と数年前に読んだ新書の帯に書いてあったことを記憶の片隅にねつ造してみる。効果は全くないけれど、誰かのタメになれば幸いだ。

「とまぁ、そういうことがありまして」

 結局、プールの傍に来ることになった。

 もちろん、旧プールの方だ。周囲に人気はなく、何かがこの場所を訪れるにしても迷子になった猫とか羊くらいのものだろう、という予感がある。そんな場所だ。

 校舎の影になっているわけでもないのに全体的に薄暗く、近場に作られた雑木林も手入れが校門前のそれより乱雑なせいか、この場所が数十年も前に廃棄された土地に思えてしょうがない。半分は当たっている辺りがダメだし、まぁ、水道が動くだけマシなんだろう。

 っていうか、ここを熱心に使いたがる海住って。

「割と不思議な性格……なのかな」

 まぁ、そういうもんだろう。

 何に納得したのか自分でも分からないけれど、物語がここから始まるということだけは確かだった。僕はエンディングを先読みして計画的な行動を起こすタイプの人間じゃないけれど、少なくとも望んだ結末になるように現在の様相を変えるための努力だけはしてみる奴なんだ。

 生真面目タイプの人間でありたかったわけだし。

 まぁ、海住と会話して、彼女との親睦を深めるという目標を達成した後は、海住とも疎遠になるかもしれない。初志貫徹な人と読むべきか、それとも気紛れで他人の生活をかき乱す奴と捉えるべきか。フラグ全回収を目指すギャルゲー主人公みたいに完璧な人生を送れたらいいのに、と達成不可能な目標を立ててみた。

 だって、ねぇ。

 他に、することもないし。

「寒いなぁ」

 部屋を出てくるときに、せめて上着を一枚、多く羽織って来るべきだったと早くも後悔している。五月の空模様を過信し過ぎていたようだ。曇り空の下にはコンクリートに覆われた現代都市、密林よりも深い人間の思想と愛憎が渦巻く社会が広がっている。そこに裸一貫で乗り込むのがバカな真似だと分かっているなら、やっぱり服は多めに着込むべきなのだ。

 などと脳細胞を灰色に尖らせていたら、くしゃみが出た。

 これは、本当に寮へ戻ることも考えるべきだろうるか。

「でもなぁ」

 学校の敷地内に設置された時計台に目を向ける。昼ご飯には、まだ早かった。

 寮に戻るという案は割と真剣に考えてはいるのだけれど、昨日の夜に深酒をしていた百々が目を覚ましているか、それが不安なのだ。喋る相手がいないのに部屋へ戻っても、特にすることはないし。

 服を取りに戻るだけってのも寂しいし、一人で黙々と食べる食事は誰かと賑やかに囲む食卓に並んだ料理の半分ほどしか味が分からない。心に住むウサギちゃんが真っ赤な血の涙を流しているようだった。

「歌でも歌おうかな」

 退屈に耐えかねて、そんなことも考えてしまう。

 そういえば。

 調理息具の類はそろっているのに、僕の部屋にはゲーム機の類がひとつも用意されていなかった。音楽再生機器の類もなかったのだ。施設へ私物を送り出す際に家族がまとめてくれなかったのか、それとも僕の自殺要因のひとつにゲームがあるのか、それは分からないんだけど。割と現実的な話として、僕が病院にいる間は家族が家でゲーム三昧の生活を送っているということも考えられる。

 いやぁ、世知辛い。家族の絆もその程度か。

 うーん。

 と、この辺りで華々しい過去の栄光や家族との思い出を引っ張り出せればいいのだけれど、未だに記憶は戻っていない。むしろ過去にあったと信じていた記憶がどこかのドラマでみたワンシーンだったり、小説で読んだ物語を改変して空想しているだけだったりして、ますます記憶の糸がほつれている有様だった。

 ソシャゲ疲れとかも、自殺の理由になるものかな。イベントの度に炎上するセルラン一位のゲームにハマり過ぎた結果、社会生活から外れて行って自殺とか? 字面だけなら妙な破壊力があるけれど、実際に自分がそういう奴だったら嫌だなぁ。一生ネットの晒し者にされそうだし。

 流石にそれはないだろう、と自分の中で相対的に恥ずかしい理由を潰してみた。

 確証がないために安心することもない。が、時間つぶしにはなるのだから。

 空を眺める。

 薄く引き伸ばされた雲が、煙のように流れている。時折、切れ間から覗く太陽が僕の瞳にチカチカと眩い光を差し込んできて、その瞬間だけは暖かさを感じて、完全には信じられない過去の記憶が浮かび上がってくる。

 小学生の頃、目にゴミが入ったときは太陽を見ればいいと思っていた。

 はるか遠い宇宙から届く熱量が、瞼の裏側に入り込んだゴミを取り除いてくれるものだと信じ込んでいたのだ。その妄想を容易く取り除いてくれたのは、確か、同級生からの懇切丁寧なアドバイスだったように思う。家が近所にあったために、頻繁に遊んでいた女の子だった。

 欠伸をすればいいの。

 涙が出て、ゴミを洗い流してくれるのよ。

 僕が欠伸が出せなくて困っているところにも、その子は口を無理矢理に大きく開けばいいよとか、誰かが欠伸をしたら釣られて欠伸が出るから大丈夫だとか、そういうことを教えてくれた。普通の、何処にでもいるような女の子だった。残念ながら名前は思い出せない。それどころか、顔すら思い出せない有様だ。

 親切にしてくれた相手になんてことを、と思わないでもないけれど、僕の場合は彼女との思い出そのものが自殺原因になっているかもしれないからなぁ。あまり迂闊に、過去には触れられないのだ。

 瞳に向ける熱量を虫眼鏡でマシマシにしよう、などと無謀な考えを思いつかない程度には理科の授業をしっかりと受けていた子供だったけれど、あれってマジで危なかったのかも。ひょっとしたら失明していたかもしれない。そう考えてみるだけでも、根拠のない妄想ってのは恐ろしいものだった。

 大きく伸びをして、春っぽい空気を取り込もうと努力してみる。

 薄暗い森のなかでは、キノコの胞子ばかりが肺に入ってくるような気がした。

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