尾鰭を怪我した人魚姫
第11話 本編 3 - 1
「なるほど、それで私のところに来たってわけだ」
「そうなりますね」
「いや、頷かれても困るんだが」
頬を掻いて、困った顔を僕に向けているのは猫田オセロ先生だった。
今日も仕事と
「で、なんで私に借りに来たんだ?」
「だって先生、水泳部の顧問ですよね」
「そうだけど。いつも鍵を持っているわけじゃないんだぜ」
「はっは、ご冗談を」
笑いながら手を差し出すと、日常生活のありとあらゆるものに全力投球し過ぎて疲れていそうな彼女は首を傾げた。あぁ、言葉にしなければ伝わらない世界は、かくも面倒臭い。
「旧プールの鍵を貸してください」
「たわけ」
「いでっ」
「なーんで部員でもない奴に鍵を貸す必要があるんだ」
「いや、だから、海住と話をしてみたいと思って」
「ドたわけ」
「あばっ」
二度も頭を叩かれて、反抗心がマグマのように心の底から湧き上がってくる。
でも、その熱い感情すら急激に醒めて消えて行ってしまうのだから、僕の心はマリアナ海溝よりも深いのだろう。嘘だけど、単に怒るだけの体力もない無精者だっただけだった。
猫田先生は近くにある椅子、ではなく机の上に腰かけた。
周囲には他の生徒もいないし、僕には悪い噂を共有する友人もいない。そういう相手の前では、こういった砕けた態度を崩さないようだ。うーん、廊下で声を掛ける前は相応に凛とした美人女教師感があったんだけどなぁ。
ジャージを着ていたり、海住の後ろを決死の形相で追いかけているところからも、他の生徒達だって薄々感づいているだろうことは予想できるのだけど。本人が着飾っている心の鎧を無理やり剥がすようなことは、この済世病院の職員に対しても行うべきことじゃないだろう。あまりにも慈悲がないし。
ふぅ。
空き教室付近でこの先生を捕まえると、恐らくは教師の本来あるべき姿というものからかけ離れた存在を見ることができるようだった。すべてが規範的な施設の職員群のなかで、彼女の存在はどこか異質である。
だからこそ社会からのはぐれもの、自殺未遂という最低な逃げの手段を取らざるを得なかった奴らは彼女に対して見知らぬ共感を胸に抱くのかもしれない。僕は抱いているから、そういうことにしておこう。
先生は、ぐっと顎を突き出して威嚇してきた。
「海住はな、意外と気難しい奴なんだぞ」
「そうみたいですね」
「分かっているのか?」
「まぁ、顧問の先生から全力疾走して逃げているくらいだし」
「それだけじゃない。鍵と施設の無断使用率が、美術部のヤンキー並に多いんだぜ」
「美術部のヤンキー?」
「あ、知らんのか? お前とは仲良くしているって聞いたぞ」
「…………入間のことですか」
入間百々。僕が施設で最初に仲良くなった男性の顔を思い浮かべる。へぇ、彼がヤンキーと呼ばれているなんて知らなかったな。彼を見ていれば、確かにそういう扱いを受けても不思議ではないけれど。
程よく整った容姿と、どこか硬質で人を寄せ付けない態度。普段はやさぐれて不機嫌なのに、垣間見せる優しさは雨の日に猫を拾おうとする不良そのものだ。表現が古いのは、僕が実社会に溶け込むのが苦手で流行にも周回遅れだったことの証左、とでもしておこう。
いやぁ、つらいつらい。
さて。
「海住が鍵を盗んでいることと、僕が彼女に話しかけちゃいけないこと。それに何かの関連があるんですか」
「ないよ」
「うわ、意外にも素直ですね」
「小難しい話を披露するよりはスムーズでいいだろ」
「えぇ、まぁ」
「あと、クソ寒くて関連性のない例え話をするよりもマシだし」
「先生は誰と闘っているんですか」
「世界に決まってるじゃないか」
アイアムあナンバーわん、と絶妙な日本人訛りを含んだ英語を披露としてくれた先生は、そのまま指を天井へと向ける。この教室も天井が低いなぁ、と思いきりジャンプすればすぐにでも届いてしまいそうなそれをぼんやりと眺めた。
で。
このままだと話が一向に進まないことを知っているので、本題に入らせてもらうことにした。
「問題がないんだったら、鍵を貸してくれてもいいじゃないですか」
「だからねーつってんだろバーカ」
「初めて聞きましたよ」
「……言ってなかったっけ?」
言われたような気もするけれど、明言されたわけじゃない。
とぼけておこう。
はー、と深いため息を吐いた彼女は机の上で膝を抱えると、勢いよく空へ向かってフライアウェイした。が、ジャージ姿の教師に付随するイメージに負けることなく彼女も運動神経はバッチリだったようで、見事なヒーロー着地を決めた。
そして薄ぼんやりとしたドヤ顔を向けてくる。
反応に困って、僕は横を向いた。
「で、どうして鍵なんか欲しがるんだ。盗撮は犯罪だぞ」
「何も話してないのにその思考へ至る先生も危ない人ですよ」
「うるせぇ」
「……まぁ、正直に言えば、僕は海住と話がしてみたいんですよ」
「どうして?」
「と、言われましても」
話をしたい仲良くなりたい、と思うことにそれ以上の動機は必要なのだろうか。無理な因縁付けをしようと必死になって頭を捻っても、そこに見つけることが出来るのは陳腐であり失礼な言葉ばかりだし。損得を考えて友人付き合いをするのは、僕には向いていないのである。
僕が言葉を返せないのを見て、先生は勝ち誇ったように頬を緩めた。ビッと指を出して僕の顔に突き付けてくる。これまで苦戦していた相手の弱点を見つけた小学生みたいな笑み、と言ったら彼女も怒るんだろうなぁ。
短気そうだし。
「お前よぅ」
「はい、なんスか」
「変な奴に絡めば、それで青春になると思っているのか」
「そういうわけじゃないです」
「じゃ、海住とか入間に変な奴らとレッテル張りをすることで、相対的な自己評価の向上に努めているのか? 熱心なことだな、どうぞ続けたまえ」
「……いや」
「いいんだぜ。ここは、そういう奴らの吹き溜まりだ。世間からの評価としては最低も最低、口に出しただけでバカにされる類の施設なんだからさ」
朗々と語る彼女は、目が笑っていなかった。高温に熱した鉄のような、触れるには痛みが強すぎる怒りを抱えているようにも見えた。僕も彼女に倣って、怒りの言葉を返すべきだろうか。
握ろうとした拳は、込めた力が小指の先から抜けて落ちていく。
怒れないのはきっと、それが自分の感情ではないからだった。
「…………あぁ」
黙ったままでいると先生は急に真顔になった。
風船から空気が抜けていくように萎れて、今度は椅子に座り込んだ。そして、その上で膝を抱えてしまう。俗にいう体育座りだった。地域によっては体操座りともいうらしいその姿勢をとった先生は、年齢不相応な幼子にみえた。
「すまん、言い過ぎた」
「先生は考えるよりも先に喋ってそうですね」
「うん。海住も私と似たようなもんだぞ。喋ってて疲れるぞ。それでもいいのか」
「いいですよ、これはこれで楽しいですから」
「そうか」
下唇を噛んで、視線を下に落とす。その動作が意味する感情を僕は知っていて、声を掛けるのを躊躇した。相手が話すべきことを知っているのだから、無理に近寄っていく必要はない。必要なのは心を整理する時間なのだと、過去の己が語っている。
時計の長針が二度のたたらを踏んだ後、彼女はゆっくりと喋り出した。
「海住に変なことするなよ」
「しませんよ。チャンスがあってもね」
「信頼できないよ。お前も、オトコノコなんだし」
「ま、そうなんですけど」
「……あいつなら、今日も旧プールにいると思うから」
勝手に行けと手で追い払われて、待ってくれと先生の腕に縋った。
ドロをかけられたように困惑した視線を向けられて、慌てて手を離した。
ふむ、勝手に人に触るのはやめておいた方が無難だな。
で、わざわざ僕が授業をしている生徒達の奇異な視線を受け止めつつ廊下を練り歩いて、猫田先生を探していた理由なんだけど。
「旧プールの鍵、閉まっていたんですよ」
「閉まってた?」
「えぇ。だから海住もいないだろうし、先回りしておこうかと思って」
「あー」
萎れていた先生が、また元気になった。
何か理由があるのかと彼女の言葉を待つ。今度は、すぐに返ってきた。
「なら、お前は海住に追い払われたんだよ」
「マジですか」
「おう、マジもマジ、大マジよ」
「えぇ……」
「な、言っただろ? 海住は気難しい奴なんだ」
彼女はにっこりと笑うのだった。
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