第10話 本編 2 - 7

 真剣な顔をしていた入間百々は、処刑台に立たされた革命家のように悲痛な声を漏らした。

「モデルを頼んだら、断られたんだ」

「……」

「絵のモデルだぜ。特別な技術もしんどい運動も必要ないのに、頼んで二秒で断られたんだ」

「はぇぇ、そうなの」

「というか、普通はそうなんだよ。受けてくれる奴の方が珍しいんだ。お前みたいにな」

「ふーん」

 そういうものなのか。

 自己評価というものも千差万別だし、社会的な自己評価が平均から離れている人ほど、絵や動画に自分を残すことを嫌うと聞いた覚えがある。確か、想像と違う自分が周囲に晒されてしまうことを本能的に恐れている、だったかな。

 とにもかくにも、百々が海住のことをあまり好いていない理由というものが分かった。彼女は、彼に絵をかかせてくれなかった、つまりは彼の芸術を邪魔した奴扱いをされているということだ。

 小学生の喧嘩みたいな、些細な理由。

 それが分かって安心したような、それでいいのかと不安になるような、複雑な気分だった。

 僕が勝手に頷いていると、百々は後だしジャンケンよろしく何かを呟いた。

 それが聞き取れなくて、何度か聞き直す。すると、彼も答えてくれた。

「裸婦画を描こうとしたんだよ」

「ラフ? あの、下書きみたいな奴か」

「違う。裸婦だ。裸の婦人と書くアレだよ」

 彼の言葉を脳内で反芻して、その言葉が示す行為を想像してみる。古い時代の絵画に描かれている女性たちは海住より幾分もふっくらとふくよかな女性ばかりだったけれど、そういった女性と似たような恰好を彼女がすることになったなら。

 芸術のためとはいえ、あまり心好いものではなかった。

「なぁ、百々、ひょっとしての話なんだけど」

 間違っているといけないから、念のために前置きをして。

「君、知らない女性を脱がせようとしたのか?」

「それの何がいけないんだ」

「えぇ……」

「正直、女性としては好みじゃないんだがな。まぁ、絵のモデルとして海住ほど適切な奴はいないだろうし。いいか、理想の絵画というものは――」

 彼は聞いてもいない芸術の解説を始め、それを語り終えると、結局は海住が依頼を受けてくれなかったことが原因となってスランプが引き延ばされてしまっているんじゃないかと意味不明の愚痴を言い始めた。それも終わって数分後、今度はこの世が終わったみたいに深い溜息を吐いている。

 バカかこいつ、などと思ってはいけない。

 絵描きにせよ小説家にせよ、創作のプロを目指そうとする人間は少なからず世間の常識を自分色に塗り替えてしまう傾向があるのだから。それが極まっていくと酒を飲んでいないのに幻覚を見るようになったり、一般の人と意思疎通が出来なくなっていったり、自暴自棄になって世界崩壊を目論んだりするようになったりするらしい。

 いやまぁ、テレビでナレーターが言っていただけなんだけどネ。

「しかし、それは百々のせいだと思うけどなぁ」

「修一まで俺のせいだって言うのか」

「だって、普通は見ず知らずの異性に脱げって言われたら逃げるだろ」

「それでも、芸術のためなら」

「そこ、君と他人を区別してない証だよ。君が芸術の為にすべてを犠牲にできるなら、芸術のすべてを破壊してでも自分を守りたい奴だっているんだから」

 まぁ、つまり。

 僕の存在自体が詭弁みたいなものなんだけど。熱っぽく語り続けていた百々は、そうした自分とは反対ものの存在を思い返すことで心の制御を取り戻したように見えた。依怙地になった芸術家ほど御するのに困るものもないだろうから。

「で、海住の話をすると機嫌が悪い理由は、それだけ?」

「嫌いなわけじゃない。ただ、好きじゃないだけで」

「はいはい」

「……んー、なんか、バカにしてないか?」

 酒が深まって来たのか、百々の目が潤み始めていた。

 泣き上戸だろうと笑い上戸だろうと、あまり深酒をする人には関わらないのが鉄則だ。早々に目的を達成して、退散する準備を整えておくことにした。

「で、旧プールの場所だけ、教えて貰っていいかな」

「ん? 別にいいが、あれは確か――」

 百々に説明を受けながら、脳内で旧プールの場所を思い浮かべてみる。普通なら、生徒が立ち入らないような場所に旧プールは存在していた。悪の秘密結社がアジトを作っていても、特別不思議には思えない。

 そういう場所だった。

 それからしばらくは、彼と話をして夜を過ごした。

 この施設では――もちろん指定された場所に限るけれど――煙草を吸ってもいいし、酒を飲むことも許可されている。寮内部は、普通の病院とはかけ離れた空間だった。休憩室で遊んでいる人がいれば、こうして友人の部屋へ出向いて夜通し語り明かすのもいい。

 体質に合わない薬を無理して服用するだけじゃなくて、こういった心の治療法もあるのだという大規模な実証実験を行っているのかもしれない。だとしたら本人の同意がないような気もするが、まぁ、自殺未遂を犯した後の意識が混濁しているときに契約書の類にサインをしたんじゃないだろうか。それも立派な犯罪なのだけれど、それでも、社会に出るよりはずっとマシなのだった。

 ふぅ。

 酔いの深まった百々の代わりに近所のコンビニへ向かったとき、広い交差点の歩道で演説をしているスーツ姿の男性が見かけた。済世病院の取り組みは成功していて、社会から脱落したものを救うことこそが発展や繁栄に繋がっていくのだと。そんな、夢物語みたいなものを朗々と語っている人がいる。講壇もなく、周囲には熱心に聞いていると思しき人もいない。あぁ、本当に、その行いに意味はあるんだろうか。

 僕達が、『治療』される意味も、いったいどこにあるんだろうか。

 壊れた玩具を直しても、それが完璧に元通りになるとは限らないんだ。

 百々がスーツ姿の男性を見たなら、何やら不思議な色を目に浮かべそうだった。

「どうなんだろうね」

 未来に希望を語るには覆っている不安を取り除かなければならない。だけど、それは一人で抱えるには余りに堪える仕事だったので、急いで部屋に帰ることにした。鍵の掛かっていない室内に入ると百々はぐったりと床に寝転んでいて、話しかけてみても反応がない。ひょっとしてアルコール中毒なるものか、と慌てて彼の首元へ手を伸ばすと、息はあるようだ。

 いや、死にかけでも息だけはしているだろう。

「おい、百々」

「んー?」

「大丈夫かい。もし具合が悪いなら」

「わーかねぇよ。ちょーっとねむいだけじゃんかよ」

 心配して話しかけてやったのに、ぶんぶんと腕を振って追い払われた。どすんと尻もちをついて、そこで思い当たるものがある。首輪のことだ。本当にヤバいなら、施設の職員がやってくるはずだろう。酔いが極まって眠っていただけ、と考えるのが適当なのかな。くそぅ、不安になっただけ損をしたわけか。ちぇっ。

 風邪をひかれても困るので毛布を掛けて、盗まれる様なものなど何処にもないだろうからと鍵は掛けずに部屋を出ることにした。

「……おやすみ」

 挨拶をして部屋を出る。

 これからのことを考えて、これまでのことが分からなくて。

 それでも朝日が昇るというのだから、僕は神様って奴が嫌いになってしまいそうだった。

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