第9話 本編 2 - 6
大量のイラストが散乱した部屋でくつろいでいた。同じ寮の上階に暮らしている入間百々の部屋である。持て余した暇を有効活用して彼に手料理を振る舞い、その代わりに酒を奢ってもらうことになってこの部屋へと招かれたのだ。
ふむ。
片方が女のコだったら、ここでイベントシーンのひとつもあったかもな。
そんなことを考えた。
部屋に散乱した無数の画用紙には下書きが施されている。無造作に放置された芸術の残りカスを見ていたら、これは完成することはないのだろうな、完成しなかった作品が日を浴びることはないのだろうなと少しばかり寂しい気持ちになる。
それはそれとして、汚い部屋だった。
例え芸術を作るためだったとしても、掃除くらいはすべきじゃないのか。
床を黒い虫が走り回っていないかと、不安で酔いが醒めそうになった。
「あっ」
「ん? どうした、修一」
「聞きたいことがあったの、忘れてたよ」
「何の話だ。学校案内なら終わったはずだが」
「そうじゃなくて、海住って人のことなんだけど」
昼間に出会った少女の名前を口に出すと、百々は渋い顔になった。
何か悩み事でもあるのか、額に指をあてて狼のように唸る。娘を人質にとられた父親みたいな表情のまま、彼は画材で埋まってしまった机に手を伸ばした。青い箱に詰められた煙草に火を点けて、彼は少しばかり落ち着いたように見える。
「海住? あぁ、知ってるとも」
「本当かい、百々」
「嘘を言ってどうするんだ」
「で、質問していいかな」
百々は口元を歪めると、深々と息を吐いた。
煙草のせいか、吐息は白く濁っている。そこに含まれているニコチンの量を考えて、健康被害で言えば禁煙による精神への影響の方が強そうだなぁ、と一人で勝手に頷いてみる。科学的な根拠が本当に正しいのか、それを知るのは実際に科学的な解析を行った本人だけだろうし。行った実験が正しい理論に基づいているのかも、特別な知識を持たぬ人間は知ることが出来ないのだ。
それが社会だ、などと隔離された僕は思ってみる。
ふへへ、社会不適格者だからね。
こんなことを口走っても、白い目で睨まれる程度で済むのだった。
「しかしまぁ、どうして海住のことを」
煙をぷかぷかとふかしながら、百々がそんなことを聞いてくる。
が、答えようがないので黙っていた。
「赤いポニーテールが珍しいのか。それとも、美形だから?」
「んー、両方ともアタリかな」
「なんだよ、お前もか」
「え?」
「あいつ、顔もスタイルもいいからな。ただまぁ、親しくなりたいなら辞めといた方がいい」
「どうして」
「なんだ、そんなことも知らんのか」
短くなった煙草を持ち替えて、彼はゆったりと息を吐く。
溜め息は、白い煙になった。
「あいつはプールジャンキーだぞ」
「え、どう意味?」
「そのままの意味だよ」
「塩素中毒なの」
「んなわけあるか、と言いたいところだけどな。ひょっとするかもしれん」
ふと思い出した過去を振り払うように、彼が首を横に振る。
差し出してきた煙草を丁重に断ると、彼は追加の煙草を口元へ咥えた。いつの間にかの二本目をスパスパと吸い始めた彼を、ぼんやりと眺める。彼と親交を深めるようになってから半月ほど経ったが、こうして煙草を吸っている姿をみるのは二度目だった。
前は確か、途中まで上手く描けていた絵が気に入らなくなって破いたとき、だったかな。荒んだ心を癒すためにはアルコールか煙が良いのだと彼は言っていた。
ふむ、海住という少女と彼の間には何らかの確執があったと考えておいた方がいいだろう。
友人の言葉すら疑いながら聞く。
そんな僕は似非人間みたいなものだった。
「で、プールジャンキーってどういうコトなんだい」
「さっきも言っただろ」
「そうじゃなくて、もっと具体体に。旧プールの鍵を持って逃げ回っているってのは、僕も聞いたことがあるけど」
「それだけ知ってりゃ充分だろ。あいつ、取り壊し予定のプールに閉じこもって、一日中泳いでいるって話だぜ」
ふーん。それだけなら特別、変なことをしているわけじゃないのか。それにオセロ先生の言っていたことと一致する。彼女は、この施設内の何処かにある旧プールにて一日の大半を過ごしているのだろう。だから、百々に案内をして貰っている間も、彼女の姿を一度しか見なかったのかもな。人間の数が多いだけではなかったのだ。
「しかも、鉄壁だからな」
「プールの守りが?」
「違う。いや、それも堅いが、それ以上のものがある」
百々はぐいっと顔を近づけると、蝙蝠のように笑った。
これは事実として確認したわけじゃないし、寮の談話室で他の奴らが噂しているところを聞いただけなんだけどな、と彼は断りを入れる。僕が頷いてみせると、彼は話を元に戻した。
「貞操だよ」
「……はい?」
「あいつがここへ来てから半年なんだが、既に十数人から告白を受けている」
「マジで」
「しかも、誰一人として色よい返事を貰えなかったそうだ」
「うへー」
「な、すごいだろ」
百々は楽しそうに笑った。けど、こっちは笑えない。心に難があって自殺しようとした人が、更に傷を増やすお湯な真似をしちゃいけないだろ、とか。告白される側も他人から好かれているから幸せに違いないと考えること自体が罠の可能性だって存在しているのだ。
嫌いな人ばかりに好かれて、居心地の悪い居場所で息も出来ない毎日を過ごすハメになってしまったなら、誰もが逃避行の方法を考えるだろう。その逃避行の先にある種の地獄を夢見て、そして消えていく人々がいることも忘れてはいけない。
うん。
まぁ、海住が美形だというのは認める。容姿がいいから、という理由だけでも気のある男連中の間では話題になっているだろうし、色よい返事をした相手がいないからこそ、高嶺の花としての価値もあるというものだ。個人的な話をすれば、彼女の心の壁があまりにも高いなら、それこそ会話をしようという初歩的で色気もない目標すら達成が危ぶまれてしまうものだから、出来れば彼女に――誰でもいい、その相手が、僕ではなかったとしても――親しい人間がいてくれればいいなとは思う。
その方が、仲良くできそうだし。
煙草を吸いきった百々は、三度青い箱へと手を伸ばした。短い期間に一気に煙草を吸うのは、あまり良い傾向じゃなかったはずだ。ジョッキを何度も傾けて、その都度イッキ飲みをしているようなものだろう。そんなことをして大丈夫なハズもなく、かといって本当に危ない状態になれば首輪についた生体センサーが兆候を発見して病院側へと何らかの指示を出してくれることだろう。
それはさておき。
「あの、もうひとついいかな」
「あぁ」
「どうして百々は、海住のことを目の敵にしているんだい?」
「……お前みたいに勘のいい奴は嫌われるぞ」
「あは、無理に言わなくてもいいよ」
それに、嫌われるのは勘がいいからじゃない。
正直者だから、というわけでもない。
思ったことを考えるより先に口走るバカだからさ。
「…………」
質問に対して、百々は黙ったままだ。口にくわえた煙草の先は赤く燃えて、彼が息を深く吸い込むたびに灰が長く伸びていく。答えるつもりがないなら、このまま回答なしで質問は終わってしまうだろう。そう考えて、僕も机の上に置いたままのチューハイに手を伸ばした。かなり久しぶりに飲んだ酒は、なぜ社会人はこんなものを飲むのだろうと不思議に思うほどに不味い。
不味いのに、一度飲むと手放せなくなっていくあたり、酒に含まれるアルコールは麻薬みたいなものだと思うようになった。
小指の先ほどに短くなった煙草を既に過去の残骸で満タンになっている灰皿に押し付けると、百々は灰に残っていた煙をすべて吐き出す為に深い息を吐いた。
あいつはな、と彼は前置きして真面目な顔になる。
僕は身を固くして、彼の言葉を待った。
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