第8話 本編 2 - 5
百々の元に帰る道すがら、海住が浮かべていた涙の意味を考えた。
そして意味もなく海住の過去を妄想した。
僕が知らない彼女だけの物語だ。
辛酸を舐めた過去がフラッシュバックしたのかも、と考えてみた。猫田先生が嫌いで、追いかけられるのが苦痛なのかも、とも。だけど、そんなのは僕にとって都合のいい思い込みに過ぎないかもしれない。重く複雑な話題も、単純な話に落とし込むことで同情することが可能になる。同情することの出来る相手なら、人は簡単に手を差し伸べられる。
そこには共感などない。
あるのは侮蔑と優越感、それを隠すほどの欺瞞なのだ。
「ひどいやつだ、お前」
嫌になって、自分の頬を軽く叩いた。
この済世病院には自殺未遂を犯した奴が大勢いるはずだ。校内で学生服を着ている奴を見渡しても大半が首輪つきだし、街に出ても、首輪をつけているだけでここの生徒だと知られてしまうだろう。
だけど、僕等は見世物じゃないんだ。
辛い過去を背負っているなんてかわいそう、などと見ず知らずの誰かに思われたいがために首輪をつけたわけじゃない。……まぁ、こうして考えていること自体が思い込みに過ぎないのかもしれないけど。
例えば、この世を儚いものだと思って死のうとした奴と、恨みつらみを晴らしきれずに死を選ぼうとした奴とを同じ席に着かせて話し合わせたなら、きっと死へ願ったものが違うはずだ。
辛い過去があって然るべき、などと容易に考えちゃいけない。
そも、十人十色なのだから。
鬱と一生縁のない人もいれば、死ぬまで仲良しな奴もいる。重度な統合性失調と軽度な統合性失調を同列に語るには無理があるし、我儘と自由をない混ぜにして他人の生活をかき乱す輩もいないわけじゃない。
自殺願望がないのに唐突な虚無感に苦しむ人がいれば、死への渇望と同等に強い生存欲求に胸を締め付けられる人もいるだろう。過去を思い返して湿気た面を伏せる人がいれば、未来を思って顔を上げる人もいる。明日の不安に死にそうな奴も、楽しかった昨日に笑顔を浮かべる奴も。
そう考えてみると、どうにも人生というのは、一方向から語ることのできないもののように思えて仕方がなかった。……でも、海住は。
どうして泣いていたんだろう。
分からなくなって独り言ちた。
「彼女の言ったとおりに、意味のない涙だったとか?」
杞憂なら、それで良い。
美人の悩みを解決して少しでも仲良くなりたいとか、そういうことを内心で思っているんじゃないかと、疑心暗鬼に陥ってしまう。
気を抜くとすぐに漏れそうになる溜め息を飲み込むと、僕は再び歩き出した。施設内をゆっくりと歩いて元いた場所に戻る。花のスケッチは既に終わってしまったのか電柱にもたれかかるようにして百々が眠っていた。
「百々、帰ったよ」
「…………」
「おーい、起きてくれ。風邪をひくぞ」
耳元で呼びかけてみても、彼からの反応はない。余程の集中力で描いていたのだろうか。絵を描くことにも鑑賞することにも一定以上の興味はあるけれど、あくまで関心を持っているだけだしな。才能を持った人間と、持っていない人間とでは、見える世界に大きな隔たりがあるに違いないのだ。
「隣、座るよ」
百々の横に腰かけると、木漏れ日が心地よかった。本格的な夏には遠いし、暑さに苦しむのは当分先だろう。そう願いたいものだ。
百々へ視線を向けてみると、彼は安らかな寝息を立てていた。柔らかな木陰に包まれて眠っている彼は古い映画に出てくる俳優みたいに格好良い。容姿だけは二枚目そのものだし、これで急に怒り出したりしなければ、もっと色んな人にモテるんだろうなぁ。
「ま、それも神様の嫌がらせかな」
身体から力を抜いて、そのままネットへともたれかかった。野球部やサッカー部がグラウンドを使うこともあってか、周囲の家々にボールが飛んで行かないようグランドには緑色の丈夫なネットが張り巡らされている。
もたれると、ハンモックのように心地よかった。やや暖かい春の風邪に包まれて、特別疲れてもいないはずなのに、僕も眠くなってくる。そうしていると考えなくてもいいことまで、頭には浮かんでくるのだけど。
「…………」
あぁ。
僕らは、才能という言葉に縛られて生きている。
社会を上手くわたっていくための必須技能だったり、何にも役立てることのできない不必要なものだったりするけれど、才能ってものは万人が必ず持っている。誰かと比較して優劣のつく才能があまりにも多いのが、現代人にとっての災難だよね。だから無駄に傷ついて、痛みを抱える破目になって、涙が意図せず溢れたりして。
それでも、人間は生きていく。
生きていけるのが、普通の人間って奴なんだ。
それはさておき。
この済世病院へ入院するための事項。
そのひとつに、「類稀なる才能をを失うか、損なっていること」などという文言が含まれていること僕は知っている。だけど自分の才能が何なのか、一切の秘密を知らないのだ。そもそも事項そのものが眉唾物だよ。
グラウンドを未だに走り回っているサッカー部員たちの誰もが、プロになれるほどに上手いとは思えない。ひょっとすると、あの文言に含まれている類稀なる才能って奴は、僕らが社会に不良品扱いされないよう、院長が意図的に付け加えた一文だったりして。
あり得るかも。院長がどんな人かは知らないけれど、こんな社会福祉施設としての病院を作ってしまうほどの人だ。ちょっとくらい妙なことをしていなければ、逆に信じられないというものだった。
複雑に入り組んで、思い出せない栄光を過去の記憶に探しながら、大きく伸びをした。
「僕はここに、何をしに来たんだろう」
生きていくために、働かなくちゃいけない。
そう考えるだけで、なぜか息が出来なくなる自分がいた。
天野修一という名前を顔も分からない誰かに呼ばれて、叱責されて、そのまま心が砕けていく妄想が数瞬のうちに脳裏へ浮かんでは消えていく。
吐きそうになるのを、必死で堪えた。
あぁ、毎日を楽しく過ごせるなら、それで良かったはずなのに。子供の頃に夢見ていた現実は理想より冷たくて、社会は僕を突き放そうとしている。学園の外に出て街を歩けば、このもやが掛かったような気分も晴れるかもしれない。そう考えて腰を上げようとしただけで、脚が動かなくなった。
鉛が詰まったように重く、次第に身体全体が鈍重になっていく。
心に、身体が付いていかない。
呼吸も乱れて視界がぼやけてきたから、取り敢えず、今日は寮へ戻って休むことにしよう。そう考え始めると、身体の痺れが抜けて足も動くようになった。
……。
ふむ。
「これって、典型的なアレだよね」
具体的な病名は口にしないけど、全国で百万人以上は存在すると言われている心の病気だ。なるほど、僕が自殺した原因も、ここにあるのかもしれないな。
「へへっ……うわぁ、なんか、ショックだ」
生涯で十五人に一人がかかると言われている病気だとしても、自分がそうだと自覚するのは難しい。自覚したところで、それを認められるかというと、まぁ。
難しいなぁ。
「ダメな奴め」
脚が震えてきた。
欠けてしまった記憶に縋りつくのは、果たして正しいことなのか。
それが分からなくなって、僕は隣に座る男に助けを求めようとした。
「百々、僕はどうすればいいと思う?」
自殺未遂を犯しながら、絵を描くことにだけは前向きで、そのためなら周囲の人間との敵対もいとわない。社会的にみれば不誠実な行いかもしれないが、それだけの強い気持ちを持てる彼のことが、僕は羨ましい。
静かに眠る寝顔が、どうしようもなく眩しいのだ。
「…………はぁ」
堪えきれなかった溜め息がもう一度出る前に不安を、どうにかして拭い去りたい。
興味関心を惹かれるものへ夢中になっている間に限っては心の痛みを忘れることもあるはずだと、僕は百々の傍に置かれたままになっていたスケッチブックを手に取った。数枚のページをめくると、幾何学的な模様や知らない人が描かれている。そして、最新のページには、描いたばかりのスケッチが書かれていた。
スケッチブック一杯に描かれた花と、実際に咲いた花とを並べてみる。
偽物が本物よりも美しいことは、ない。
偽物が本物を超えることなど、あってはならないことだろう。
だけど、彼の描いた絵は美しかった。
「綺麗だ」
これほど美しい絵を描く男が、どうして自殺などしたのだろう。
その疑問は、春風にページが捲られると同時に、曖昧になって消えた。
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