第7話 本編 2 - 4
ぶっきらぼうな性格をした女教師が教室を出て行ったあと、僕は教卓の下に隠れている海住へと声を掛けることにした。特別に親しい相手でもないのだから、放置して百々の元へ帰るのも悪いことじゃないのだろうけれど、僕には彼女と話をしてみたいという目的があるからね。
まぁ、そういうものだ。
そうでもしなければ、これから一生、僕は彼女と会話が出来ないような気がした。ナードは美人を傍から眺めていた方が似合うんだろうけど、それだけで満足できるほど出来た人間じゃないしね。
教卓の元へ歩いて行って、その下を覗き込むようにして声を掛ける。海住がジョック好みな
「出てきなよ。先生も出て行ったし、もう隠れる必要はないだろ」
「うん。ありがと」
「……海住?」
なぜか、彼女は膝を抱えたまま、俯いていた。
二度目でようやくあげた顔には、薄らと涙の跡が滲んでいる。心配になって彼女の名前を呼ぶと、彼女は何でもないように顔を横に振った。その動作の最中にも、彼女の涙腺が僅かに緩んだような気がした。
「んにゃ、大丈夫。ホント、ありがとね」
声が妙に沈んでいる。普段の声の調子など知らないが、他人の心の機微が全く分からないほど、人間というものを知らずに育ってきたわけじゃない。何より、痛みには人一倍敏感だった。
「どうして泣いてるんだよ」
「泣いてないから」
「でも」
「だって、退屈だったんだもん。欠伸が漏れただけだし」
彼女がわざとらしく口を開いて見せると、白く尖った犬歯が僕の目を引いた。
そして、彼女にも首輪が付いていることを改めて知る。薄い桃色の首輪だった。
彼女以外があの色の首輪をしているところを見たことがあるだろうか、とここ数日の記憶を辿ってみた。残念ながら誰の姿をも思い出すことが出来なかったけれど、それだけに特別感がある。
僕しか紫の首輪をつけていないことにも、何かの理由があるのだろうか。
はふ。
間の抜けた溜息が彼女の口から漏れると、僕も釣られて欠伸をしてしまった。彼女は指で目尻を拭うと勢いよく立ち上がった。そのまま教卓の天板に頭をぶつけて、ふらふらとよろめいている。
ちょっとだけ笑って、僕は彼女に手を差し伸べた。躊躇いもなく僕の手を取ると、彼女は自分の頭を大事そうに撫でた。そして今回は、間違いなく目尻に涙が貯まっていた。
「大丈夫かい」
「い、痛かったよ……」
「狭いところにいたのに、急に動くからだよ」
「そうだね。うぅ、隠れる場所間違えたかなぁ」
僕から手を離すと、彼女は照れたように頬を掻いた。
海住の指は、想像していたより、ずっと細くしなやかだった。
「どころでさ」
「うん」
「本当に、いいんだな」
「なんのこと?」
「……僕にできることなら、何でも手伝うよ」
出来る限り誠実な言葉に聞こえるよう気を付けながら、僕は彼女に思っていることを伝えた。美人に涙を見せられて、黙っていられる人間じゃないのだ。例えウソ泣きだったとしても、この狭い病院内で社会不適格者を騙すようなメリットなど、これっぽっちもないのだから。
海住は目を丸くして僕の顔を見つめると、子供のように笑い出した。
「な、なんだよ」
「ダメだよ、そんなこと言っちゃ」
「どうして」
「そうやって、軽々しくなんでもって言わない方がいいよ。性格の悪い人に付け込まれるから」
「別に、君は悪人じゃないだろ……ないよね?」
「さて、どうかなぁ」
彼女は楽しそうに頬を緩めると、ぺしぺしと僕の肩を叩いてきた。
実年齢こそ分からないけれど、頭半分ほど背の低い彼女は後輩っぽくも見える。
セーラー服の下に覗く白いシャツが、少しだけ眩しかった。
「えっと、この前も助けてくれた……よね?」
「二週間くらい前だけどね」
「あはは、あの時はごめん。今日みたいに追われてたんだ」
「別にいいよ」
「オセロ先生、しつこいからね。君も、気を付けた方がいいよー」
「……変わった名前だよなぁ」
「分かる分かる! 私だってイルカだから、あんまり他人のこと言えないんだけど」
にしし、と彼女は特徴的な笑いを漏らした。
ま、確かに彼女の言う通りだ。
対する僕はというと、あまりに平凡な名前なので彼女らが羨ましかったりもするのだけれど、それを言ったところで何も始まらない。変な渾名を付けられても困るし、身分不相応に格好いい名前で呼ばれるのも向いていない。
だから、僕は僕のまま。
自殺未遂を犯していようが、記憶の欠片を失っていようが。
僕は、天野修一のままなのだ。
「やー、割と話せる人で良かったよ。オセロ先生が秘密をバラしたから、めっちゃ怒ってくるかと思ってたし!」
「んなことないよ。君にも理由があるんだろ」
「うん!」
彼女がニコニコと笑いながら身体を左右に揺らす。
高めの位置に結われたポニーテールが、
色はトマトみたいに鮮やかな赤だ。イルカの背びれには似ても似つかない色味だけど、不思議と彼女の姿が水族館の水槽を悠々自適に泳ぎ回るイルカたちの姿に重なる。この閉鎖空間たる病院内にいながら、自在に駆け回っているところを見た影響だろうか。
メトロノームみたいに規則正しい周期で動く彼女の髪を見ていたら、僕の身体も左右に揺れ始めた。ひょっとして共振? と詳しいところまで覚えていない物理現象の名前を思い浮かべてみる。
ちなみに、ポニーテールは僕のお気に入りの髪型だ。海住が美人であることも相まって、数時間はぼーっと眺めていられそうだった。
僕が体を揺らしていることに気付いたのか、海住が首を傾げた。
「ん? どったの?」
「いや……」
「え、何か変なこと言っちゃった?」
彼女が僅かに表情を曇らせた。
不快感か、不信感か、不安か。分からないけれど、悪い感情は早めに拭い去ってしまうしかない。そう思ってしまったがために、よく考えもしないで、僕は変な言葉を口走ってしまった。
「あんまり、可愛かったものだから」
「へ?」
「いや、君自身もそうだけど、髪型がよく似合っていて、それで」
これ以上変なことは言うまいと、慌てて口を閉じる。
彼女はポカンと僕を見ていたけれど、言葉の意味をおそまきに理解したらしく思い切り笑い出した。恐らくは、流行りの芸人を前にした女子高生よりも笑っている。
「なに? あたしを口説いてるの?」
「そういうわけじゃないよ」
「はいはい。そーいうのは、もっと仲良くなってからね」
「違うって」
「……っくふふ」
堪えきらなかったと吹き出して、彼女はべしべしと僕の胸を叩いてくる。余程面白かった様だ。まぁ、彼女の心に掛かったもやが晴れたなら、それでいいんだけど、妙に気恥ずかしいのはなぜなんだ。
ひとしきり笑うと、彼女は疲れたように肩を落とした。ふぅ、と吐いた息が乱れていた彼女の髪をなびかせる。腰まで届きそうな、長く伸ばした紅い髪を、ほんの少しだけ触ってみたいと思ったのは秘密だ。
「それじゃ、今日はありがと」
「うん」
「また困ったことがあったら、君に相談しに行くよ」
「分かった」
「ん。またね」
彼女は僕の首輪を突くと、朗らかな雰囲気を残して何処かへと走り去っていった。追いかけてみようかと部屋を出てみたときには、そこには足跡の類もなく、誰もいない廊下が閑散としているだけだった。
「…………ん?」
ふと脳裏をよぎる疑問を掴んで、その正体を確かめる。
今度は、すぐに分かった。
相談しに行くと言ったけど、彼女は僕がどこに住んでいるのかを知らないはずだ。首輪をつけていたということは少なくとも寮に住んでいるはずだけど、寮に住んでいることが分かったとしても僕の部屋までは分からないだろう。というか、あれ?
寮では男しか見たことがないぞ。
ひょっとして、女性専用の寮があるのか?
……うーん。
「ヤバいな。何も知らないのか、僕」
ここに来て、十日が経った。
色んな事を勉強したような気になっていただけで、何も学んでいなかったことが海住という少女のせいで明らかになってしまった。そもそも彼女の年齢も、どうしてプールに拘っているのかも聞けずじまいだったし。
まぁ、話しが出来ただけでも、僕は満足だけどね。
「帰ろう、百々のところに」
すべてを諦めたように背伸びをすると、僕は百々の元へ向かうことにした。
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