第6話 本編 2 - 3

 真っ赤なジャージを着て、短い髪を明るい茶色に染めた女性だった。

 険しい顔をしているところだけが残念な美人だ。

 僕や百々みたいな首輪をつけていないところを見るに、自殺など経験したことのない一般不良生徒か、済世病院の職員のどちらかだろう。僕とほぼ変わらない年齢に見えるから前者、とも言い切れないのが恐ろしい。

 青春やり直し勢にしては険しい顔だ。

 いや、怒りの感情だって人間には大切だし、これも青春なのかな?

「ふぅ」

 とんちんかんなことを考えている僕の胸倉をつかみ、鬼のような形相で睨み続けていた彼女は、不意に冷静さを取り戻した。何かを後悔しているような表情を見せると下唇を噛んで、ぽつりと呟いた。

「悪かったよ。この前も、何処かで会ったよな?」

「職員室ですね」

「そっか……海住のことになると、どうも私は冷静になれないんだ」

 後ろめたいことがあったのかと勘繰りたくなるような、ほの暗い表情を見せたのは一瞬のことだった。再び顔を上げた彼女は、ぱっちりした顔立ちの美人に戻っている。

 開いた窓と僕の顔を見比べて、このまま走って行っても追いつかないと諦めたのだろうか。深々と溜息を吐いて、その息は僕の胸にかかった。走ってきた直後だからか、熱い吐息だった。

 淑やかにしている限りは綺麗な人だと、改めて感心してしまう。失礼なヤツめ、と僕は自分の自制心に第三者目線で怒られて、セルフハームが捗ってしまった。

「すまなかったよ。本当に」

「いえ、こちらこそ申し訳ないです」

「あ? どうしてお前も謝るんだ」

「だって、何かの事情があるんでしょう? 詳細は知りませんけど」

 嘘を吐いているという罪悪感が言葉を紡がせるのか、僕にしては順調に人と喋れているようだ。相手の女性の方が一応は年上だろうけど、若いこともあって貫禄はないし。

 ただ、海住を追いかけている怖い人というイメージがあるだけだった。

 額に手を当てて思い悩む姿は、絵に描かれたように美しい。

 彼女の苦悩を、僕が理解できないという点を含めても。

「別に対した理由じゃないよ」

「へぇ、そうなんですか」

「あぁ。だから気にすることはないよ。それじゃ、私は行くから」

 怒っていなければ綺麗なのに、と本人に伝えたら怒らせてしまいそうなことを内心で思いつつ、扉に手を掛けた彼女の背中に声を掛ける。彼女は、特に警戒した様子もなく振り向いてくれた。

「あの、聞いてもいいですか」

「ん? なんだ」

「あなたは何者……なんですか」

 僕がここへ来た初めての日。

 海住イルカは、彼女のことをオセロ先生と呼んでいた。

 ここにいる生徒――患者、という呼び名に当てはまらない対象も多いみたいだから、諦めてこちらの呼称を使うことにしよう――にとっての先生ということは、医者か、勉強を教えている人か、そのどちらかということになる。

 職員室にいたことを考えるに、教師の方か。

 そこまで考えてから発言をする。

「先生、なんですよね」

「そうだよ。疑わしいなら、職員証でもみるかい?」

 彼女は着ていたジャージへと無造作に手を突っ込むと、胸元からネームプレートを取り出した。そこには猫田オセロという彼女の名前と、カウンセラーなる肩書が書かれている。

 予想通り、なのかな。

 彼女が済世病院の職員であることには、疑いの余地はないようだった。

「満足した?」

「えぇ」

「別に私の素性なんて、どーでもいいことだろう」

「……正体不明な相手に迫られるほど、怖いことはありませんからね」

 不貞腐れたような彼女の言葉に、僕も最大限の警戒と嫌味で返す。

 僕が抱く不快感に気付いたように、彼女は顔を覆った。

「すまん。また口が悪くなった」

「別にいいですよ」

「分かってるんだよ、私は、いつもこうだから」

 猫田は短い髪を苛立ったようにかき上げて、腰に手を当てた。

 僕よりも頭半分低い背丈ながら、向けてくる視線には凄みと迫力があった。

 でも、ここで臆していてはいけない。

 この場から離れようとしている彼女に、声を掛け続ける。

 すべては好奇心に負けて、眠れぬ夜を過ごさないためだった。

「海住とは、どういう関係なんですか」

「あ?」

「いや、随分と気に掛けているみたいでしたから」

「なんだ、お前は海住の知り合いなのか?」

「違います。ただ、先生はいつも彼女を追いかけているように思えて」

 嘘は言っていない。

 僕が知っている猫田オセロという女性は、常に海住を追いかけている存在なのだ。どうして追いかけているのか、その理由を知る機会に恵まれたようだから、この機を逃す手はないだろう。好奇心を抑えるには、正しい知識を与えてやるのが一番なのだから。

 彼女は僕を睨み付けてくる。頭から爪先までをじっくりと眺めて、どこまで明かすべきかを真剣に考慮しているようだ。

 教室の外で、一際大きな歓声が上がった。サッカー部の誰かが、格好良いシュートでも決めたのだろう。僕が窓際に気を取られているうちに品定めは終わったらしく、彼女は観念したように息を吐いた。

「別に、好きで追いかけているわけじゃないぞ」

 猫田は、腕を身体の前で組んだ。

「彼女、水泳部の問題児なんだよ」

「水泳部?」

「あー、ひょっとして知らないのか」

「えぇ。ここにきて、まだ半月も経ってませんから」

 教えてください。そういって素直に頭を下げると、彼女は手近な場所から椅子を取って座った。

 長い話になるのかもしれない。

「えっとね、この学校のプールは二箇所あるんだ」

「二箇所?」

「今も使っている競技用の奴と、取り壊し予定のちっこい奴」

「へぇ。知りませんでした」

「取り壊し予定のは屋内プールだし。人目につかない、敷地のはずれにあるからな」

「はー、なるほど」

 だから、百々も案内してくれなかったのだろう。

 猫田に詳しい説明を求めてみると、どうにも、小学生が使う二十五メートルプールと、競技用の五十メートルプールがあるらしい。競技用プールの方は現在進行形で水泳部や、一般の生徒が気分転換に泳ぎたい、という生徒に貸し出しているそうで、もう一方のプールは水を張ることはあっても、業者などに掃除を任せることもなく、ほぼ放置をしているそうだ。

「別に水泳ガチ勢もいないし、競技用プールなら自由に利用してもらって構わないんだよ? 潜水とか、危ないことをしなければね」

「それで、プールと海住に何の関係があるんですか」

「んーとね。小さい方のプールは古くて掃除も面倒だし、使用者も少ないから施錠しっぱなしなんだけどさ。あいつ、その鍵を持って逃げ回っているんだ」

「あー、そういうこと……」

 猫田が血相を変えて海住を追いかけていた理由だが、これで納得した。

 なるほど。

 一種の泥棒、ということか。

「どうして小さいプールに拘っているんでしょう」

「知るか。私の知ったことじゃない」

 教えてくれないんだもの、と彼女は頬を膨らませた。

「というか、彼女が部屋に帰った後で返すように促せば」

「やってる。でも、使うこと自体には問題がないからって、他の先生が貸し出しちゃうんだよ。だから堂々巡りだ」

 悪いことをしているわけでもないし、海住みたいな可愛い子に貸してくれと頼まれたなら、大抵の教師の側は貸してしまうだろう。貸し出したところでデメリットになることも少ないようだし。強いて言えばプールに水を張る費用が問題になるくらいだろうし、万が一プールで溺死を目論むような生徒だとしたら、その時点で彼らは鍵の貸し出しを行わないはずだ。

 だってここ、そういう施設だし。

「……先生も諦めないんですね。毎度追いかけるなんて、大変でしょう?」

 分かってない、とでも言いたげに彼女は首を横に振った。

 明るく染めた髪が、キラキラと影の中で輝いている。

「一人だけ特別扱いってのが、私は嫌いなんだよ」

 彼女は頬を膨らませると、怒ったように鼻を鳴らした。

 なるほどなぁ。

 人の主義主張が様々だから、こういうことも起こりうるわけだ。

「僕も探しましょうか?」

「あぁ、頼むよ。あいつ、妙に身軽だからな。脚に――」

 何かを言いかけて、ゴクリと空気を飲んだ。

 彼女が口元を手で押さえると、けっく、と耳慣れない音がした。

「見つけたら、職員室に連れて来い」

「はい先生」

 実行不可能な命令だと分かっていながら、僕は満面の笑みで頷き返す。

「ん。いい返事だ」

 猫田は立ち上がると、椅子を元の場所に戻して教室の扉に手を掛ける。そのまま出て行くのかと思ったが、なぜか、扉を開こうとしない。

 ひょっとして、バレた?

 振り向いて、海住が隠れていたはずの場所に視線を向けたくなるのを、必死にこらえる。猫田は頬を掻くと、何処か遠くに視線を向けつつ呟いた。

「猫田」

「……へ?」

「猫田って呼んでくれれば、それでいいから」

 それだけ言うと、彼女は教室を出て行った。

 残された僕は、あれがデレなのかなぁ、としきりに首をひねるのだった。

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