第5話 本編 2 - 2
暇だ。
相方が、自分の作業に夢中になっているものだから、僕はすごく暇なのだった。
溜め息を吐いて大きく伸びをすると、背骨と肩の辺りで、手羽先の骨を噛み砕いたような音がした。動かなかった分だけ筋肉が凝り固まっているのだろうか。
本日ハ快晴ナリ。
だけど心を五月病に侵されて、今日も憂鬱な日々を過ごしている。
隣に座って黙々と鉛筆を動かす百々は、五月だというのに、半袖のシャツ一枚とジーンズいういで立ちだった。惜しむことなく外気に晒した素肌を眺めながら、寒くないのだろうかと首を傾げる。
昨日の夜にも長袖のシャツを着るように進言してみたけれど、どうにも聞く耳を持ってくれない様子だった。
「ホント、君は変わった奴だよ」
話しかけてみても反応はない。何もすることがなくて暇なので、グラウンドを駆けているサッカー部の人数を数えてみることにした。一人、二人と指折り数えていくうちに、あることに気付く。
人によって首輪の色が違うみたいだ。
一番声を張り上げている人は赤、その周囲にいる人のほとんどは青で、肌に溶け込むような薄桃色の首輪をつけている人もいた。百々と同じ緑色の首輪をつけているのは、一人しかいない。僕と同じ紫色の首輪に至っては、一人もいなかった。
まさか、部長の首輪だけが特別に赤色ってことはないだろう。三倍速で走れるようになるわけでもあるまいし。
「ねぇ百々、首輪の色に意味ってあるの?」
実のところ、僕らが身にまとっている制服も、ひとによってデザインがまちまちだったりする。学ランの場合は違いも目立たないけれど、ブレザーを着ていると男同士でもその違いが分かりやすい。女子に至っては言わずもがな、だ。
制服が個々人によって違うのは出身校などの違いだろうと、理解力に乏しい僕でも朧げに理解し始めていたけれど、首輪の色にも違いがあるなんて。どうにも曰くありげだし、隣に座っている百々に尋ねてみよう。
反応がなくても、めげずに話しかけてみるのだ。
「ちょっといいかな、聞きたいことがあるんだけど」
「…………」
「ねぇ、百々」
「…………」
「おーい、画家さん。聞こえますか」
「…………」
広々とした運動場の外周にコンクリートで舗装された歩道があって、そこに咲いた花を百々はスケッチしている。瞳に希望の光は灯っていないけれど、手だけは止まることなく動き続けているのだ。どうにも絵に夢中になっているせいで、僕の声が届いていないようだった。
彼なら知っているかも、と思ったんだけどなぁ。
ま、仕方ない。
彼は集中力が切れているときに話しかけたり、背後に立ったりするとキレるけれど、無想の境地に入ったときは余程の衝撃を与えないと周囲の一切を意に介さないのだ。面倒な性質をしているなぁ、と他人事っぽく思ってみる。
ぼんやりと僕も花を見つめているうちに尿意を催して、僕は静かに立ち上がった。
「お手洗い行くから」
「…………」
「僕がいないことに気付いても、パニックになるなよ」
挫折した天才に笑いかけると、彼の元を静かに離れる。スケッチブックを覗くと、写真よりもリアリティのある絵がもう少しで完成するところだった。帰ってきた頃には完成しているだろうと楽しみになった。
運動場に響く元気な声を背中に受けながら歩いて、学校の校舎みたいな見た目をした施設へと入っていく。ホント、ここは学校にしか見えないんだよなぁ。
この校舎の男子トイレは何処だったかな、と頭の中に地図を思い浮かべながら綺麗に掃除された廊下を歩いていく。
ここに来てから数日のうちに、百々に施設を案内してもらった。出身地域も年齢もバラバラなこの施設において、年齢差や性差を気にせず他人との交流をすることはかなり重要だ。先に入寮していたとか、年齢が離れているとか、そういうことは一切関係なく仲間扱いしてくれる人がいるなら、大切にした方がいい。
ただまぁ、百々も聖人君子ってわけじゃないようで、問答無用に嫌っている相手もいるみたいだった。どうにも彼の精神状態は分からないけど、そんなのは人間相手なら誰にでも言えることなんだろう。
うん。
適当言っていたら、案外それっぽいことを言えている気がするぞ。
絵を描いているときに邪魔したり、背後に立とうとすると露骨に機嫌が悪くなったり、狼狽したりする。そういうのを見ている限りでは、多分、彼の創作を何らかの形で妨害した相手だとか、そういう人を嫌っているのだろうなと思った。
僕も彼に嫌われないようにしよう。親しい相手に遠ざけられることは辛いし、何より、ボールペンを刺されちゃ痛いからね。
ふふっ。
目的地へ無事にたどり着いた後、用事を済ませた。トイレで何をしたかなんて、説明する必要もないだろう。
このまま戻ってもすることがないので、二階へと上がって行くことにした。職員室と銘打たれた事務室の隣にある自習室を覗いてみると、誰もいないようだった。廊下の窓から反対側の校舎へ視線を移すと、ほとんどすべての教室に明かりがついていて、授業を行っていた。
驚くなかれ。
ここでは、義務教育を受けたか否かに関わらず、高校相当の授業を受けることができるのだ。不登校、難病、学級崩壊。理由は様々だけど、高校での勉強に心残りがある人たちがもう一度学び直すことも出来るように仕組まれているそうだ。
勿論、僕は勉強なんてするつもりはないけれどね。
二度と、あんな牢獄には入りたくないよ。
それはそれとして、この十日で驚いた事実に次のようなものがある。
なんと、勉強を受けている学生風の人の中には、首輪をしていない人もいるのだ。パンフレットに詳細は書かれていなかったけれど、なんとなく、察するところがあった。
自殺経験者には首輪が付いている。
それ以外でこの済世病院を利用している人には、首輪が付いていない。つまり教室で普通に授業を受けているだけの彼らは、社会に馴染めなかっただけの、ごく普通の人なのだ。首輪つきになる寸前で踏みとどまった、自殺未遂を犯すことなく生き続ける道を選ぶことの出来た心の強い人々である。
死ななかっただけ。たったそれだけのことだけど、この病院内でも区別がなされている。実際にはカウンセリング担当者の仕事を減らす為だったり、僕みたいに倒れる人が出たときに心因性のものか身体の不調なのかを迅速に正確に判断するためだったり、色々な理由があるに違いない。僕みたいな素人じゃ説明されても半分しか分からないような、精度と価値の高い情報が、首輪の有無には含まれているのだろう。
だけど、首輪なしの学生モドキは、首輪つきの学生モドキをどう見ているのか。それが気になってしまった。眩しくて遠ざけるものと、忌み嫌って遠ざけるものと、その扱いは等しくとも背景の思想には天と地ほどの差があるのだ。
だから。
他人から見た自分の姿が気になってしまって。
僕は、二度と戻れない側にいるのじゃないかと、不安になってしまった。
「大丈夫なのかな」
社会復帰とか、戯言じゃないのか。
「生きていけるのかな」
明日の心配と、今日の不安と、過去の痛み。
三重苦を背負い続けたまま、数十年も生きていけるのだろうか。
あぁ、不安だ。どうしようもなく、心が折れそうになっている。
窓を開くと、涼やかな風が吹いてきた。
心が軽くなったような気がして、僕はサッシに手を掛ける。
なるほど、飛び降り自殺を試みる人は突発的な衝動に負けた人が多いと誰かが嘯いていたけれど、あれは案外嘘ではないのかもしれないな。
ここは二階だし、降りてみたところで足の骨折程度のものだろうけど。
徐々に心拍が上がり、サッシに乗せた手に力を込めたところで、教室の扉が開いた。
慌てて手を窓枠から離し、音のした方向へと向き直る。
「……あっ」
急いでドアを閉め直したのは、紅い髪の少女。
たった数回しか会ったことのない海住イルカその人だった。今日も可愛い、などと見当違いで途方もなく
「あ、あのっ!」
彼女は肩で息を切らして、額には汗を滲ませていた。呼びかけられたからには応えなくちゃいけないし、校舎内で汗をかくほど走り回っていた理由というのも気になっていた。
好奇心に、今日も殺されに行こうじゃないか。
歩み寄っていくと、彼女は膝に手を当てたまま「お願い」と言った。
誰に言っているのだろう。
僕か?
初めて会ったときは大人びて見えた顔が、なぜか年端も行かぬ少女に見えて、狼狽えていた心が引き締まる。震える心を奮わせて、守らなくちゃいけないと決心させるには彼女の潤んだ瞳を見るだけで十分だった。
「た、助けて欲しいんだけど」
「別にいいけど、何をすればいいの」
「か、匿って!」
「匿う? それ、どういう――」
「先生が来たら、ここには誰も来なかったって言って。お願い!」
彼女はそれだけ言うと、教卓の下へと潜り込んでいった。
「それでいいのかよ……」
大丈夫、と言わんばかりに彼女が腕を突き出してきた。グッと突き出された親指を見て、妙な信頼を感じる。いいのか、それで。
ともかく、隠れる場所としては最適だろう。教室の後ろの方や、窓際の壁にへばりつくよりは彼女の姿が秘匿されている。教室に入っただけでは、例え教室をそれとなく見渡したとしても、そこにいることは分からないだろうし。
でも、完璧じゃないんだよな。
黒板の方へ追跡者が向かったならば確実に発見されるし。
そうなったら逃げ場はない。
……えっ。
これ、ひょっとして僕の責任は重大なのか?
「そこまで信頼するか? フツー」
ま、信頼じゃないことは分かっている。溺れかかった人間は、藁だけじゃない、一緒に溺れている仲間にもしがみつこうとするものだ。そして、僕が待ち構えるまでもなく、教室の扉が盛大に開かれた。
「オラ、海住!」
「うおわっ」
あまりにも急に飛びこんできたものだから、相手の顔も分からないうちにガッチリと組み合う羽目になった。互いに互いの二の腕を掴み、逃がすものかとばかりに握りしめる。
「痛いんですけどぉ!」
「煩い、どけ」
僕が向かい合っていたのは、あの日、海住を追いかけていた美人さんだった。
「な、何の話ですか」
「ここに海住が来ただろ、あのプールジャンキーがよぉ!」
「しし、知りませんよ」
プールジャンキーって何だよ。
あと、この人、細身の割に力が強い。
まともに力比べをしていたら、間違いなく僕の負けだろう。
ということで、詭弁を弄して時間を稼ぐことにした。
「大体、あなたは誰ですか。人が」
「うるさい。海住がここに来たことは分かっているんだ。何処へ行ったかだけ教えるんだ」
「知らないものは説明でいませんし……さっき来た人なら、窓から飛び出して行きましたよ!」
「は?」
僕が精一杯に声を絞り出すと、彼女は開いたまま放置された窓に目を向けた。
美人な女性は僕の瞳に穴が開くほど睨み付けて来て、言葉に嘘が含まれていないかを吟味する。そして、諦めたように溜息を吐いた。急に熱が冷めたように、彼女の腕から力が抜けていく。
突き飛ばすように僕から手を放して、そのまま踵を返して部屋を出て行こうとする彼女を、欠片ほどの反抗心で引き止めてしまった。
「謝らないんですか。人に掴みかかっておいて」
「あぁ? なんだテメー」
ドスの効いた美人に睨まれて、今度は胸倉まで掴まれて、心の底から泣きたくなった。生まれて初めて、キスが出来そうなほどに美人と顔を近づけたのに、僕はちっとも嬉しくないのであった。
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