第3話 本編 1 - 3

 海住イルカ。

 僕の前から走り去っていった、紅い髪をした女性の名前だそうだ。

 個人情報の保護を理由にそれ以上の説明はしてくれなかったけれど、職員の男性の顔色を窺っていた感じからすると一癖も二癖もある人っぽかった。初対面の相手に時間を稼いでくれ、などと無茶な願い事をしたところを思い出してみても、彼女の性格の一端を知ることができるというものだろう。

 綺麗な人だった。

 軌跡のように流れた紅い長髪は鮮やかに空を切り裂いて、絵になるほどに美人だった。ふとした拍子に思い出しては、恥ずかしくなってかぶりを振る。これじゃぁまるで、ストーカーか何かの様だ。

「はぁぁぁ」

 深々と溜息を吐いて、自室のベッドへと横になった。

 結局、職員室へと出向いて得られた情報を元に考えられることなど、この部屋に置いてあったパンフレットを流し読みして得る情報となんら大差がなかった。違いは、読み飛ばしがないようにポイント毎の整理をしっかりとやってくれる程度のものだった。

 …………。

 ……。

 あまり不平不満ばかり言っていても仕方がないので、これからの生活をどうするか考えることにした。まずは心を楽にして、余裕が出来たら友達を作って、それから社会復帰の為の活動をしてくださいと言われた。が、それが文句なしに出来るようならば自殺などに手を出すことはないだろうし、社会不適合者扱いされることもないだろう。

 机に向かって引き出しを開ける。メモ帳や筆記用具の類を見つけることが出来たので、思いつく限りの矛盾点を書き出してみた。一応、屁理屈でもいいからと理由を付けていったら、最後には僕が生きていることが一番の矛盾なのではないか、などという結論に落ち着いた。

 ふむ、考えるだけ無駄だったようだ。

「世知辛いよなぁ」

 破り取った紙を屑籠に放り込んで、この部屋で出たごみはどうやって処理するのだろうと生活する気マンマンの僕は疑問符を浮かべる。そして、朝に捨ててしまった冊子がまだゴミ箱の中に入っていることを確認すると拾い上げて内容を読み直した。ゴミを出す日はちゃんと決まっているし、それを守らない場合には相応のペナルティがあるようだった。

 うん。

 捨てるには、まだ早すぎたのかもしれないな。

 最低限覚えておくべきことを求めて冊子をもう一度読み直し、必要なところには支給された筆記用具でメモを取っていく。読み終えた後は、机の引き出しにしまっておいた。これで、いつでも読み直すことができる。

 さて。

 しばらく部屋を歩き回って、このまま一人で生活していけそうかを考える。別に料理が出来なくても食堂へ行けば栄養満点の食事を提供してくれるみたいだし、寮の近所にはコンビニがあるようだから、そこへ行って弁当やカップ麺の類を買って来ればいいのだ。

 その気になれば、この部屋でじっくり腰を据えて生活することも出来る。驚くなかれ、この部屋には簡易なキッチンまで併設されていて、そこには丁寧に研がれた包丁まで置いてあった。大丈夫か……家賃三万以上は確定なのでは……などと妙な心配をした。

 まぁ、自殺の方法なんて多岐に渡る。現代社会にハラキリは似合わないし、首吊りや飛び降りは非力な子供でも簡単なはずだ。リスカじゃ死ににくいなど、この施設にいる人間の大半は知識じゃなく経験として理解しているだろう。いや、流石にそれは偏見だけど。

 ――自殺の要因は、環境ざんこくなしゃかいだ。

 それを変えられないならば、せめて強くなるしかない、ということなのだろう。

「……うぇっ」

 自分の手首にキズがつくところを想像して、ものすごく気分が悪くなった。

 吐きそうなのを必死にこらえながら、水を飲むためにキッチンへと向かう。どうにも流血沙汰は苦手なんだよなぁ。この僕がどうやって自殺をしたのか、本当に疑問になるほどに。

 はやく記憶が戻って欲しい。それとも、思い出すと心が自壊するほどに鮮烈な過去があったりするのだろうか。

「不安だなぁ」

 深夜には学校の(と呼ぶことにした。病院と言い直すのが面倒なほど、あの施設は学校に近しいのだ)施設も閉鎖されてしまう。やるべきことがなく、手持ち無沙汰になった僕は談話室という場所へ向かうことにした。

 寮の二階にあって、飲食や遊戯などに自由利用することが認められているスペースだそうだ。僕が通っていた高校には休憩所はおろか、こうして学生がたむろできるような場所がなかった覚えがた。中庭に藤棚があって、その下にベンチが置いてあったくらいだろうか。そこも、除をロクすっぽしていないせいで汚れていたから、誰も使おうとしていなかったし。

 というわけで、少しだけワクワクしている。

 自分が入り浸るなんて微塵も考えていないけれど、談話室などというお洒落施設がどういった風に使われているのか。自分が知らないものに対する興味だけは、今日も尽きることがないのだった。

 制服から地味めの私服――どういうわけか、僕が普段から着ていた服だった――に着替える。全身を覆うようについていた無数の微かな傷に首を傾げながらも着替えを終えて、軽い足取りで階下へと向かった。廊下の壁に貼られた案内図を見ながら割と広い寮をうろうろして、どうにか談話室を見つけられた。

 落ち着いていて、和やかな雰囲気だった。

 思っていたよりも、存外に広い。

 小綺麗な休憩スペースといった趣だった。

 談話室には数人の学生が座り込んでいて、飲み物を飲みながら和やかに会話を楽しむ人もいれば、十数冊の図鑑を積み上げて何やら調べ物をしている人もいる。アナログなカードゲームを広げて、何やら真剣な議論を繰り広げている卓もあった。

 流石に制服姿の人はいないけれど、各々に居場所や仲間を見つけて過ごしているようだ。僕がこの輪に入って行けるだろうかと考えて、甘い妄想はすぐに打ち消した。想像するには易いけれど、実行に移すためには多大な労力とそれに見合わない苦痛を覚える場合がある。それをよく知っているのだ。

「…………」

 帰ろう。そう喉の奥で呟いて踵を返そうとしたところで、視界の端に映ったものに興味を惹かれた。組んだ足の上にスケッチブックを置いて、一心不乱に何かを描いているようだ。

 彼の前には花瓶挿しが置かれていて、それを描いているように見えた。

 そこまで観察してようやく、僕は絵を描いている男性へと視線を移した。淡い青のシャツから腕が覗いている。割と筋肉質だったけれど、それで繊細な絵が描けるのだろうか。芸術を知らない僕には、分からないけれど。

 そして顔を見たときに、僕は声を上げた。

「あっ」

 昼間、ぶつかった人だった。彼は僕に気付くことなく、黙々と絵を描いている。時折やや長めに伸ばした髪を鬱陶しそうにかきあげながら、誰と関わることもなく自分の世界に没頭していた。

 彼がどんな絵を描いているのか、なおのこと興味が強くなってしまった。近付いていくとひょいと裾を捕まれて、そちらへと顔を向ける。知らない人だった。年齢は僕よりも上だろうか、多分二十代後半くらいだ。

 彼は不安そうな顔をしている。

「やめとけ。そいつ、危ないからな」

「危ない? どういうことですか」

「知らなくてもいいよ。ただ、俺は忠告アドバイスしたからな」

「……ありがとう」

 忠告は真摯に受け止めるとして、それでも彼が何を描いているのか気になって、そっと近付いた。好奇心は猫をも殺すけれど、人間は好奇心を倒せないのだ。

 彼はボールペンで絵を描いていた。

 そっと後ろから覗き込むと、スケッチブックには綺麗な女性が描かれている。身体の半分が機械化していて、複雑な装飾も施されている。近未来小説の表紙にでもなっていそうな絵だった。

 絵の巧拙は分からないけれど、ともかくも、

「へぇ」

 感嘆のため息が漏れたのは、ボールペンが僕の喉元に突きつけられる一瞬前のことだった。闇夜に閃いた刃か、夕闇に溶け込む手裏剣か。ともかく動作の最初と最後が繋がっていない。もっと言えば、この状況になる理由も分からない。

 怒るって、こういうことなのか?

「だから言ったじゃないか。そいつ危ないんだよ」

 僕の袖を引いてくれた男性が声を掛けてくれたことで、場の空気が弛緩した。

 一瞬にして静まり返った談話室の空気は、同様にして活気を取り戻していく。危ない、という言葉と彼自身の動作の割には、周りの人も存外落ち着いているように見えた。こういったことは日常茶飯事なのだろうか、と明日からの生活を愁いた。

 つかつかと歩み寄ってきた男性が、未だ固まって動けない僕の肩に手を置くと、筋肉がほぐれて後ろへ下がることが出来た。絵を描いていた彼も、ゆっくりとボールペンを下げていく。

 その顔には、異常と思えるほどの後悔が滲んでいた。

「入間! 暴力沙汰は無しだって前も言っただろ」

「分かってるよ。……条件反射だろ」

「お前の反射は怖すぎるんだよ」

 彼は笑うと僕を一瞥して、それから自分が座っていた場所へと戻って行った。

 彼が、ここの元締めリーダーだろうか。

 そして僕にボールペンを突き付けた男性は、酷く落ち込んだ声で謝ると自身の首輪――緑色だ――を指で引っ掻きながら、自分の絵に向き直った。そして、再び作業に没頭し始める。

 ……僕の方からも謝らなくちゃいけないな。

「ごめん、その、絵に興味があったんだ。君の邪魔をしたなら、本当にごめんよ」

 彼は針のように鋭い視線をこちらに向け直したけれど、何を言おうともしない。言葉の意図が伝わらなかったのだろうか。悩みに悩んだ末、どうしても伝わって欲しいことだけは伝えることにした。

「絵を描くところ、見せて貰ってもいいかな。もう、邪魔はしないから」

「……は?」

「いや、五分だけでいいんだ。ただ、絵を描くというのが、どういう風に行われているのか知りたくて」

 小学校や中学校の頃の美術は何をどう描いても先生に訂正されていたものだから、あまりいい思い出がないのだ。だから、この年齢になっても絵を描き続けている人が一体どういう思いでキャンバスと向かい合っているのかが気になってしょうがない。技術的な観点への関心もあるけれど、話を聞いたところで分からないだろう。でも、それでも気になるものはしょうがないじゃないか。

 顔をじっと眺めて懇願すると彼は深い溜息を吐いた。

 そんなに嫌だったのだろうか。他人の依頼を拒絶することに強烈なストレスを感じるタイプの人だったのかも、だとしたら僕はなんて酷いことをしたのだろう。自己嫌悪に陥りそうになった僕に手を差し伸べてくれたのは、僕の眼前に座る彼その人だった。

「そこに座ってくれ」

「えっ」

「座りなよ、早く。俺の前の、その空いている椅子だ」

「分かったけど……なんで?」

「いいから。早くしてくれ」

 どうしてだろう。

 怒っているのか困っているのか、判別のつかない表情の彼の前に座った。

「あのー」

「動くな」

「はい」

「……十五分な」

 何やら意味ありげに時間を呟いた後、彼は黙々と手を動かし始めた。時折僕へと向けられる視線はナイフで突き刺すように痛く、それは彼が何かに真剣になっているからだと知った。全身を視線に切り刻まれながら、逃げ出したい衝動に耐え続ける。

 それだけの痛みを覚えて知ることがあった。

 真剣に打ち込んでいる姿は、美しいのだ。

 制止したまま時間を過ごす。周囲の景色が曖昧に蕩け始めた頃になって、ようやく彼は手を止めた。談話室の時計に目をやったら、時間もキッチリ守っている。スケッチブックを破り取ると、彼は僕に用紙を差し出してきた。描かれているものを観て、思わず歓声を上げそうになる。

「うわぁ……すごいね……」

 絵に描かれていたのは僕の姿だった。

 結局、呟いた感想は彼を無難に褒めるにとどまってしまったけれど、それも仕方のないことじゃないか。だって、絵の素人である僕に巧拙や技術の有無なんてものは分からない。

 それこそ芸術評論家の真似事が出来るとは思えないし。

 でも、安直な感想が間を置かずに口をついて出るくらいには、彼の絵は綺麗なものだった。絵を知らない僕が眺めてみても文句なしに上手いと感じるわけだし、何より心に直接届いてくるような魅力がある。ボールペン一本で描いていたはずなのに、色彩豊かな絵画に引けを取らない。むしろ、こちらの方が好みかもしれなかった。自分自身が描かれた絵画を綺麗だと褒め称えることには若干の恥ずかしさがあるけれど。

 それを彼に伝えるだけの語彙力が、僕にないのが残念だ。

「これ、貰ってもいいの?」

「あぁ。やるよ」

「ありがとう。……へへ」

 いいイラストだ。ここに描かれているのが僕でなかったら尚のこと良かったのに。

 絵を眺めていると、彼も何処か得意げな表情を見せた。昼間に怒っていたのは何かの見間違いか、それとも、天才肌の芸術家に有名な気分のムラという奴だろうか。これだけの絵を描く人だから、突然背後に立たれたからボールペンを向けたなどというゴ〇ゴ13みたいな言い訳が寮生全員に納得してもらえるのだろうと思えた。

 脛にきず持てば茅原ささはら走らぬ、というじゃないか。僕等は互いに、ちょっとずつの見て見ぬ振りをして生きていく必要があるのだろう。

「これ、どうしようかな」

「……ンン」

 彼から贈られた絵を折りたたむわけにもいかず、どうやって持って帰ろうかと思案していると、彼が咳払いをした。指先に滲んだ黒インクをこすり落とすと、ズボンで軽く払ってから手を伸ばしてくる。

「俺は入間百々トドだ。お前は?」

「……修一。天野修一って言います」

「良かったら、またモデルになってくれ。お前なら、また描ける気がするんだ」

「うん。いいよ。どうせ暇だからね」

 笑って、彼の手を握り返す。

 この日、僕は初めて、本物の笑顔を見たような気がした。

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