第2話 本編 1 - 2

 部屋に置いてあった学生服に袖を通した後、ふいに訪れた虚無感と喪失感に膝から崩れ落ちた。吸った息を吐き出せなくて、出来損ないの人形みたいに口を開閉させながら全身を震わせる。眼前が真っ白に染まった後に暗転して、気が付いたときには、あのサングラスの男性に介抱されていた。

 四畳半の部屋を出たところに簡易な台所や風呂場などがあるらしく、そこから持ってきたタオルで僕の額を拭ってくれる。どうにも、この部屋を出たらすぐ廊下だと思っていたのに違ったようだ。観察眼を養っていない一般人だからね、仕方ないよねと言い訳してみたけれど恥ずかしい。

 もっと早くに察するべきだったよなぁ。トイレの場所が分からなくて迷子とか、笑えないし。

「すいません。……ありがとう」

「いえ、これも仕事ですから」

 精神を安定させるための薬や、それを飲み込む為の水などを用意している彼に何度か頭を下げると、なんでもないことのように手を振ってくれた。例えこの行為が厚意など欠片も存在しない義務的なものだったとしても、助けてもらったことは素直に嬉しいのだ。

 だけど、どうやって僕の身に迫った危険を察知したのだろう。部屋に監視カメラでもついているのだろうか。

 不安に曇った僕の顔を見てか、彼は自身の首元に手を当てた。鏡写しに彼の行動を真似すると、首元につけられていた輪に触れて、先ほど説明されたことを思い出した。彼は静かに微笑んでいる。

「高性能機械が貴方の危機を検知してくれます。貴方はでいい」

「……そうですか」

「具体的に何をしているのか、子細には分かりませんけどね。プライバシーの範疇ですから」

 笑うと、彼は聴診器を内ポケットに仕舞い直した。

 別れを惜しむように後ろを振り返った後、もう倒れないようにと無理な注文を付けてから部屋を出て行く。僕だって倒れたくて倒れたわけじゃないし、気が付いたらこうなっていたんだけどな。

 病は気から、病気だと思い込んでいるから心身に不調が訪れるのだと聞いたことがある。それは健康のただなかにいる人間にしか理解出来ない理屈だろう。オカルト的で第三者には存在を認知することすら難しい痛みだって、この世に存在しているはずなのに。

 それをだけで治せると思っているなら、それは傲慢以外の何でもないような気がするけどな。

 ふぅ。

 気分が落ち着いたので、乱れていた服装を整えることにした。カッターシャツのしわになっていた部分を引っ張って、学生服を第一ボタンまでしっかりと締める。ホックも留めようとしたけれど、サイズが微妙にあっていないのか喉にあたって苦しかった。

 まぁ、今回は諦めることにしよう。諦めるべきことだって、多分、あるし。心に莫大な余裕があるわけでもないんだけど、何もしないでいられるほど退屈に耐性があるわけでもないのだ。

 何の気もなしに部屋へ設置されていたカレンダーを手に取ると、今が五月らしいことが分かった。時間間隔が狂っていたのか、それとも記憶を失う前も季節の変化には疎かったのか、つい数日前までクリスマスだったような、七夕だったような、ひょっとすると正月だったような気もしてくる。大学の入学式で慣れないスーツを着ていたような気もするし、居酒屋で知らない男性と仲良く飲んでいたような覚えもある。

 そもそも、僕は何歳だ? その辺りの記憶も曖昧だ。

「うーん……」

 窓辺へ向かって、外の様子を眺める。天気は晴れ、春先の長閑な雰囲気が街を覆っている。断片的な光景は覚えているのに、傍に誰がいたか思い出せないことなど、ほんの些細な悩みに思えた。

 友達がいなかった、と解釈することもできるし。

 孤独に耐えかねて自殺。

 それが、ここに入院するに至った理由かもしれない。

「やだなぁ。やだやだ」

 怖いものをみた子供みたいに首を振ると、部屋を探索することにした。

 四畳半のやや狭い部屋には簡素なベッドと勉強机、空っぽの本棚と最低限の衣服を納めたタンスの他には何もなかった。勉強机はブックスタンドが取り付けられていないせいか、面積の割には随分と広く感じる。ほぼすべての家具に木材が使われていることもあってか、部屋には落ち着いた雰囲気があった。

「……あ、畳だ」

 足の裏で触れる感触には新鮮味がなく、実家でも畳の部屋で生活していたことを思い出した。この病院に収容される若者の生活習慣や、その他諸々の事情を考慮した上で部屋の間取りなども決められているのだろうか。ふぅむ。

「お金、掛かってそうだなぁ」

 費用対効果を高めることだけを生き甲斐にしている人が僕らみたいな患者――で、いいのだろうか――を目前にしたなら、猛然と抗議してきそうだった。社会生活に適応できなくて自殺を図った人間が、どうして悠長に暮らせるんだ、と。

 ……これは隔離だと思うんだけどなぁ。健全な社会生活を阻害する恐れのある人間を、円滑な社会活動を妨害する可能性のある人間を丁寧に間引きしているに違いないよ。

 僕は社会不適合者だったのだろうか。

 薄れて、ところどころ欠けた記憶に深く潜ろうとすると、再び眩暈に襲われた。

 ふむ、過去に興味を持つのはやめた方が賢明みたいだな。

 僕だって二度も自殺はしたくないからね。

 溜め息を吐いて部屋の壁に頭を当てる。思いのほか丈夫なようだ。

「壁は……意外と厚いのか。隣の部屋の音は聞こえないな」

 耳を当てた後に軽く叩いてみたけれど、反響してくるものもない。多少騒いだり、夜間に悪夢を見て飛び起きたりしても問題はないだろう。隣人に壁を叩かれる恐怖におびえる必要はないのだ。

 照明を明滅させたり、ベッドの上で意味もなく転がってみたり、思いつくことは一通り済ませてしまってから勉強机へと向かった。ずっと卓上に放置されていた「私立済世病院での生活のすすめ」と書かれた冊子を手に取る。目が覚めた後に男性から説明されたことと同等の内容が記されている他、ここでの生活に困った場合の連絡先などが示されていた。

 特別、すべきことはないようだ。

 心を癒し、身体を治し、社会に戻る準備をする。

 それが、ここでの目的であることに間違いはない。

 何をするにも個人の裁量任せになっている部分があるようで、理想的な生活習慣が示されている他には特に目立った指標もない。職業訓練を受けたい人は個別に登録をする必要があるらしいけれど、まぁ、それは追々やって行けばいいだろう。今はまだ、誰かの為に奉仕できるほど心が癒えていないのだから。

 じゃ、悠々自適なニート生活が満喫できるのか?

 それは違う。

 流石に、そこまでは甘くない。

 部屋に引き籠ってゲームをしていれば永遠に暮らせるわけもなく、最低限のノルマとして社会生活に復帰するための活動が挙げられている。先の職業訓練の他にも、学識を深めるための講座や、創作活動をしている人に向けたセミナー、就職及びアルバイト先の紹介も行われているようだった。就職とかアルバイトが出来れば入院している必要もないのでは? と思ってみたけれど、就職先で心を病んで戻ってくるケースもあるらしい。その場合の保険もあるみたいだから、どんどん困難に立ち向かって傷ついて行こう。そういうスタンスなのかな。

 わっかんないなぁ。こういうときは先達に尋ねるのが一番なんだけど、そういう相手もいないし。困ったものだ。僕は創作などしたことがないので、心の準備が出来次第、職業訓練を受けてみることにしよう。内容の想像もできないから、不安は募る一方だけど。

 …………。

 ……。

「さて、どうしようかな」

 することが、何も思いつかないぞ。

 冊子をゴミ箱へ投げ捨てると、僕はベッドに寝転んだ。

 記憶がないといっても、ここに運び込まれてくるまでの記憶がないだけで、小学生や中学生の頃の記憶は残っている。親しい友人が少なかったために記憶中の像は曖昧にぼやけてしまったが、それでも覚えていないわけじゃない。どうしてここにいるのか。そして、どうして自殺を図ったのか。

 それだけが、僕には分からないのだ。

「ま、外へ出てみよう」

 考えてみても、思い返した過去の圧力に負けて失神するだけなら意味がない。

 意を決して部屋の扉を開いて外へ向かうと、この部屋が寮の三階にあったらしいことが分かった。部屋番号を見る限り、その情報に間違いはないだろう。角部屋と言うこともあって、他の階に移動するのがやや大変だったけれど、ちょっとした特別感にわくわくするほうが楽しいので良しとしよう。

 寮を出た後は人目を気にして日陰を歩きつつ、寮のすぐ隣に建つ病院へと向かう。

 歩いて三分も掛からなかったから、拍子抜けしてしまった。

 外見上は私立の大学か高校みたいだけれど、案内図を見てみれば、ここが普通の学校などではないことが分かる。どちらにせよ僕が通っていた田舎町の高校に比べれば、清潔で新鮮な雰囲気のある施設だった。

 入院の条件に類稀なる才能を失うか損なっていること、などと書いてあったのは冗談ではないのか、様々な施設が所狭しと用意されている。

 校舎からやや離れたところにある運動場は広大で、創作家達が十全に活動するためのスペースもある。望めば何もかもが手に入るのではないかと思うほどに、施設が整っている。

「……あぁ、でも、使用には条件があるんだっけか」

 部屋に置いてあった冊子の内容を思い出そうと、必死に頭を捻る。

 が、結局思い出せなくて、諦めることにした。

「っと」

「…………」

「ごめんなさい、すいませんでした」

 職員室と書かれた部屋、恐らくはこの病院の事務室にあたる場所へ向かおうと身体を反転させると、丁度後ろを通りかかったらしい男性にぶつかってしまった。二度続けて頭を下げると、彼は面食らったように固まってしまう。

 何が珍しいのだ、と首を傾げるより先に彼は僕に背を向けて、そのまま何処かへ走り去って行ってしまった。酷いことをしてしまったんじゃないかと、自身に舌打ちをしたい気分にもなる。

 あぁ、いけない。

 また心がダメになる。

 ふつふつと湧き上がってくる焦りの感情を洗い流してしまうほど、深く冷たい悲しみが胸に溢れ出してくる。思わず涙ぐみそうになって、僕は下唇を噛んだ。ダメだなぁ、まったく。これだから、僕は社会に向いていないんだ。

「落ち着け……落ち着くんだ」

 何度か同じ言葉を呟いて、大きく息を吸った。

「大丈夫。大丈夫だ」

 深呼吸をしてから、もう一度校内案内図を見て、職員室という名の事務室へ向かうことにした。案内図が設置されていた中庭から五分ほど歩いて、西校舎の二階へと向かう。部屋に入ろうとしたところで、急に扉が開いてびっくりした。

「それでは行ってきま、うおう!」

「ヒッ」

「すまないね、うん、その顔だと新人さんかな。大丈夫かね!」

「……え、えぇ」

 目的の部屋から出てきた、やけに元気な男性に気圧されて少しずつ後ろへ下がっていく。職員室から出てきた彼は、浅黒い肌と健康的に引き締まった身体の持ち主だった。何処から眺めても体育教師かスポーツトレーナーですと宣言しそうな風体をしている。

 間違いなく初対面であるにも関わらず強引に握手を求められ、驚愕すると同時に辟易した。こういう人は苦手なのだ。

「やぁやぁ、こんにちは少年」

「……ちは」

「元気がないね、少年。スポーツをして心身共に健康にならないか?」

「結構です。遠慮させていただきます」

「そうか、残念だなぁ! 無理強いはしないから、気が向いたら運動場へ来てくれ。それじゃ!」

 現れたときと同様に颯爽と去っていく男性を視界の端にとらえつつ、今度は変な人が出てきませんようにと祈りながら職員室の扉を開く。

「…………おぉ」

 祈りを込めて開いた扉の先。

 そこには、真っ白なセーラー服を着た少女が立っていた。

 ちょっと小柄な体躯と、真っ赤に染められて腰まで伸びた長い髪。

 やや長めのスカートから伸びる脚はすらりと長く、肌は健康的な色に焼けている。出会ったばかりの僕に微笑む彼女は、幼気な雰囲気を残しつつも年上の女性特有の包容力が表情から滲み出ていて、ちょっとだけ胸がキュンとした。

 うん、外見だけなら、間違いなく僕の好みだ。

 こんな人と関わる機会なんて、僕には一生ないだろうけど。

 奇抜な色の長髪をポニーテールにした彼女は僕へにこやかに微笑むと、可愛らしく両手を合わせる。何だろうと首を傾げると、彼女も同じ方向へと首を傾けた。そして艶やかな唇から、意味の分からない言葉を紡ぐ。

「ちょっとだけでいいの。時間、稼いでくれるかな」

「え?」

「平気だよ。オセロ先生は悪い人じゃないし」

 にこやかに犬歯を見せて微笑んだ彼女は、僕と壁の僅かな隙間を潜るようにして抜けると、踵を返して廊下を走り去っていってしまった。彼女が駆けて行った床は、不思議と花が咲いたように鮮やかな色合いに見えた。

「待て海住! この恩知らずがっ!」

「なっ、わっ」

「あっキミ、海住うみずみイルカはどっちへ行ったんだ!?」

「う、うみ……?」

「赤い髪のバカだよ! 早く教えろ!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ若い女性職員が部屋から飛び出してこようとして、廊下への扉を塞いでいた僕の胸倉をつかんでくる。ショートカットで吊り目の彼女は、美人だけど、ちょっと怖い。海住という名前に覚えはないけれど、ほぼ間違いなく、駆け去って行った彼女のことだろう。彼女の走り去っていった方向を尋ねられたので、思わず実際の方向とは逆の向きを指差した。

 特別な理由はない。

 頼まれたことを忠実に守っただけだ。

「そうか。ありがとう。それじゃ」

 女性職員は掴んでいた服を手放すと、僕を突き飛ばすようにして廊下に出ていった。赤髪の少女よりも数段は早いだろう足を全速回転させて、階段の向こうへと消えていく。

 短い時間に、方向性の違う美人を二人も見てしまった僕は北の方角を拝む。

 なんだか、いいことがありそうだった。

 それはそれとして、目的の職員室へ入室しよう。

 これ以上、多くの人と出会うと脳味噌がパンクしてしまうからな。

「失礼します。……あの、お尋ねしたいことがあるんですが」

 職員室に入って、一番手近にいた高齢の男性へと話しかける。

「あの、イルカって人について知りたいんですが」

「……はい?」

 不思議そうに首を傾げた彼は、僕を不審な目で見上げるのであった。

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