それでも僕は、病んでいる方が楽かもしれない。
倉石ティア
ちょっと長めのプロローグ
第1話 本編 1 - 1
目が覚めると、首に見慣れぬ輪が嵌められていた。
それだけじゃない。
窮屈に縛られた身体を
「おはようございます、修一さん」
「……ざいます」
思いのほか渋い声だった男性に律儀な挨拶を受けたので、一応の礼儀としてこちらも軽く目礼した。不審者相手にルールやマナーなど守る必要もないのだろうけれど、少なくとも悪い人には思えなかったのだ。怖い見た目をしているけれど、何か酷いことをするつもりなら僕が眠っている間に実行済みだろうし。
うぅ、想像するのも億劫だ。
戦国時代を生きた武将たちもかくやの不埒な妄想が脳裏をよぎって、思わず首を横に振った。
乳白色の壁紙に囲まれたこの部屋に見覚えはなく、ここへ辿り着くに至った経緯も理由も思い出せない。考えているうちに、恐怖心よりは好奇心が勝り始めて彼へ声を掛けることにした。
「あの、ここは何処ですか」
「私立
「……はぁ」
話には聞いたことがある。確か、十年ほど前に設立された私立の総合病院だ。
自殺未遂を犯した若者を収容し、社会復帰させるための活動を行っている施設だという噂だけれど、実際にどういった活動を行っているのかは不明だ。メディアに対する露出が非常に少ない上、この施設を退院したと公言している人が皆無に等しいからだろう。たまに元入院患者を名乗る人が現れては病院側からデマだと声明が発表される、その繰り返しだ。
結果として「済世病院へ行く」というのが「頭がおかしくなった」状態を示すスラングになったほど、いい噂を聞かない施設である。
済世病院の代表は裕福な資産家らしい、報道規制による情報統制を行って非人道的な研究をしているのだ、才能はあるけど将来が暗い若者に唾を付けておくことで将来の日本経済を掌握するんじゃないか、などと様々な都市伝説が広がっては消えていく摩訶不思議な病院。
それが、まさか本当に存在するとは思わなかったな。
それに、僕が自殺未遂を犯したなんて。
……覚えてないな。実感が、まるで湧いてこない。生きるのが苦しいと思ったことは多々あるけれど、それでも、死にたいとは微塵も思ったことがない。相対的に眺めれば幸福な生活を送っていたのだろう。
多分。
きっと。
地獄から眺めれば、何処だって天国みたいなものだからね。
ふぅ。
首を傾げていると、サングラスの男性が話しかけてきた。
「気分はどうですか、修一さん」
「よく、分かんないです」
身体がだるいのはいつものことだし、不意に胸が苦しくなるのも数年前から変わらない。他人の視線を気にして身なりだけは気を付けていたけれど、果たして今はどうだったろうか。
不安に思って鏡を見てみれば、そこには土気色の顔をした僕が座っていた。ここ数日眠れなかったことが尾を引いているのか、随分と体調が悪そうだ。顔色よりも目を引くのは、首につけられた妙に毒々しい紫色の首輪だろうか。紫陽花みたいに鮮やかな紫に見えないこともないけれど、顎がつくる影によって、その色合いはやや陰鬱なものに変成している。
触れてみようと腕を持ち上げたところで、両手首を結ぶように手錠が掛けられていることに気が付いた。身体に圧迫感があることも思い出して顔を下に向けると、ホラー映画の序盤なんかで人を殺したことのある囚人が着せられているような、鎖付きの拘束具を装備させられているようだった。
ちょっとした感動と、意味が分からない状況に対する不安感とが胸中で混ざり合って、心にどどめ色のまだらを作る。この病院に収容されるのは自殺未遂を犯した若者だけだという噂だったが、確かに、全身に鈍い痛みが走っている。具体的な状態までは不明だけど、怪我をしていることだけは確かなようだ。
果たして僕は、どういった経緯で自殺をしたのだろう。
そして、自殺の方法は?
数日前の記憶もなく、思い出せるのは自分の名前だけだった。
それが、僕の名前だったように思う。
「落ち着いていますね」
「……割と、脳内はショート寸前ですけど」
「そうですか。他の患者さんは、目覚めるとすぐパニックになるもので、つい」
スーツ姿にサングラスを掛けた男性は珍しいものを見たように眉を吊り上げると、うっかり口を滑らせてしまった自分を恥じるように頬を掻いた。ふむ、彼が想像していただろうシチュエーションは、僕にも容易く想像可能だ。
だって、ねぇ。
自殺して天国か地獄の
逆に言えば、冷静な顔をしていても現状のすべてを理解しているわけじゃないし。
顔にいくつもの疑問符を浮かべていると、サングラスの男性が仰々しい咳をした。
質問があるならどうぞ、とその顔が物語っている。
彼に甘えさせて貰うことにした。
「これ、誘拐とか監禁じゃないんですか」
「えぇ、問題はありません。私達は自殺未遂で病院に運ばれた方をこの施設へ優先的に運び込み、治療及び保護を行っているのです」
「首輪とか拘束具は?」
「自殺をしようとした人は、精神が不安定になっていることも多いですからね。二次災害などを防ぐために着用させていただいております」
その後もいくつかの質問を重ねてみたけれど、サングラスの男性は淡々と説明を続けてくれている。
なるほど、これは少し、この施設に厄介になろうじゃないか。
そう思わせてくれるには十分な説明を施されて、僕はまいってしまった。悪意あって僕をここへ連れてきたわけでもないようだし、ひょっとすると、ここは本当に治療の為の施設なのかもしれない。
「本当に、ここは病院なんですねぇ……」
「勿論ですよ。病状が悪化した場合は別の施設へ移ってもらうこともありますけどね。ここは、あくまで社会復帰に備える施設ですから」
「退院は、いつになるんですか」
「社会復帰が可能だと見込まれた場合か――貴方が望んだときですね」
望めば、いつでも外へ出られる?
それはまた、随分と奇妙なシステムじゃないか。
そうサングラスの彼に笑いかけてみようとしたけれど、彼は自身の言葉を微塵もジョークだなどとは考えていないようだった。まるで僕が自殺未遂を犯した理由が外の社会そのものにあるかのような、僕が社会復帰を望むことは死にに行くようなものだと知っているような、重い
飲み込んだ唾が気管支に入って、軽く噎せた。
過去のことを明確には思い出せないけれど、社会に対しての底知れぬ恐怖がある。世界そのものに対する、ぞっとするほどの嫌悪感だ。それが何処から来ているのかは思い出せないけれど、同時に、思い出してはいけないような気がしている。
どちらを選ぶのか正しいのか。
そういうことを考えているうちに、サングラスの男性が腕にはめていた時計が、微かな電子音を立てた。
「それでは修一さん、時間になりましたので、説明を始めさせていただいてもよろしいでしょうか」
「はい。お願いします」
「まず、貴方は自殺未遂を犯しました。この行為そのものは刑法で裁けるものではありません。しかし我々は尊い人命と、若者の未来を救う為に済世病院による治療を行っています。これは政府による補助を受けている他、一般に――」
サングラスの男性は朗々と語り出した。カンニングペーパーもなしに、どうやって覚えているのだろうと不思議になるほど長々と、聞いているうちに眠くなってくるような話をしてくれた。
要約すると、こんな感じだ。
私立済世病院は名前の通りに病院でもあるが、それ以上に社会復帰を目的とした施設である。自殺に至った若者が抱える病気とはすなわち心の病気であり、それを治療するために独特の方法を編み出し、実践しているのがこの施設だ。
その治療法が、青春を送ること、なのだという。
正直何を説明されたのか理解できなかったけれど、同世代の若者たちと擬似的な学園生活を送ることによって心の傷をいやすことが可能なのだという。正直な話、眉唾物だった。冷静に考えてみれば誰にでも分かることだろうけれど、それは過ぎ去った時代の焼き増しをしているに他ならない。その上、再形成されたコミュニティの中でも弱肉強食の世界が広がっていくわけで、集団生活に対して忌避感がある人にとっては地獄以外の何物でもないはずだ。
「誰とも関わらず、一人でいた方が気楽って人もいるんじゃないですかね」
思わず非難めいた口調になってしまって、自分の頬を殴りたくなった。
質問をするだけなら、わざわざ攻撃的な口調になる必要なんてないじゃないか。
くそ、これだから僕は。
動揺する僕の心を知ってか知らずか、男性は「確かに、そういう方もいらっしゃいます」と言って表情を緩めた。
「その場合も、申請していただければ別の施設へ移転させていただきます。それに、そもそも交流なんて七面倒なこと、しなければいいだけのことですよ。この部屋を出るも出ないも、誰かと交流をするもしないも、貴方の自由です」
「…………そうですね」
盲点だった。
学校に通っていた頃は、無理にでも周囲の生徒と交流をしなければならないという強迫観念にとらわれていたような気がする。だから、衝突も起こるのだ。どうにも肝心な友人達の顔が思い出せないものだから、過去の記憶は興味のない映画を見ているように流れて行って消えてしまった。
嫌なことも一緒に思い出すよりは。
多分、マシなはずだ。
最後に部屋にある設備の簡単な説明を受けた後、サングラスの男性は僕を拘束していた妙な金具を外し始めた。ただし、左手首に巻かれたリストバンドと紫の首輪だけは外してくれないようだ。リストバンドの方は自在に取り外しが出来るけれど、首輪だけは取り外せそうにない。
早々に諦めて凝り固まった身体をほぐしていると、ふと思い出したことがあって、部屋を出て行こうとする男性に尋ねてみた。
「施設から逃げ出すと首が飛ぶって、本当ですか」
「首が? どういうことでしょう」
「ほら、この首輪。逃げると締まって、装着している人を殺すっていう噂があって」
「ふふ、それは嘘ですよ。ですが、まぁ、
「長時間の着用で痒くなったりしない?」
「その場合は皮膚に負担を掛けないような素材へと変更させていただきますので、お気軽にご連絡ください」
彼は再び壁際に置かれた書類の束を手で示すと恭しく頭を下げた。
大丈夫かな、と首に着けられた輪に触れてみる。夏の炎天下で火傷をすることも、寒い冬に無駄な体温を奪うこともないように設計されているのだろうか。指先で軽く叩いてみると、金属っぽいけれど何か違う、妙な質感だった。
「それでは、よき青春を」
「……どうも」
黒服の男性が部屋を出て行くと、僕は部屋の窓に手を掛けた。
空気を換気できる程度には開く。身体を乗り出したり、飛び降りることは不可能みたいだった。簡単に湯を沸かすことくらいは出来るみたいだけど、包丁や鍋などの調理器具は用意されていない。万が一にも自殺を防止するための措置なのだろうが、料理が趣味の人にはどういった対応をしているのだろう。
あぁ。
なんだろう。
無駄な興味と、役に立たない好奇心が胸に疼いている。
ひょっとすると救われるのかもしれないという期待が、胸の奥で膨らみ始めた。それは冬の後に芽吹く若葉のように、ゆっくりと、しかし確実に成長し続けている。この気持ちは、殺すには惜しい。
まだ、僕は死ぬには早いのだ。
「自殺不可能な、誰もが幸せになれる
恐怖と、それを塗りつぶすほどに熱量を持った期待。背伸びをした拍子にはだけた病衣の隙間から見えた貧弱な裸体が正面の鏡に映ったことによる羞恥心。それら様々な感情を大切そうに抱えたまま、いつかゴミとして捨てなくちゃいけないと分かっていても手放せないまま、服を着替え始める。
そして僕は。
数年ぶりの学生服に袖を通すのだった。
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