第2話

 暖かい。

 再び感じた感覚。

 堅い。

 次に感じた感覚。

 煙の臭い、少しすえた臭い。

 薄く目を開ける。

 暖かく朱い光が揺らめいでいる。

 流れるような心地よい暖かさと煙の臭いは前から。

 ごつごつとした堅さとすえた臭いは背中と身にまとう厚手の毛布から。

 それぞれがそれぞれ、可彦の身体を覆っていた。

 目の前に揺らめく光。それはやはり焚火。

近視感。

 漠然とそんなことを感じる。

少しずつ記憶が甦ってくる。

その記憶の中、可彦はおもむろにその手で首に触れた。

首だ。

特に何の変りもない自分の首。

 当たり前といえば当たり前。

しかし……ありえない。

漠然とその感情にたどり着く。

「……生きてる」

 呟いたその言葉に可彦の思いは凝縮されていた。

「生きてますね」

 焚火の向かい側から聞こえてくる声。

 橙色の炎の向こうに、緑色の大きな姿が可彦の目に映る。

「君に殺されたと思ったんだけど。たぶん……首の骨を折られて」

 可彦の言葉にネフリティスの顔を照らす橙色が揺らいだ。

「確かに殺したはずでした。……首の骨を折って」

 ネフリティスの声はやはり静かで優しいが、焚火の炎のように揺れていた。

「息は止まっていました。鼓動も止まっていました。瞳からは光が消え、身体は次第に冷たくなりました」

 淡々と告げるネフリティス。その言葉を淡々と受け止める可彦。

「遺体を雨風に委ねて自然に還すのも良いと思ったのですが、あなたたち人間はそれを『野晒し』と呼んで余り望まない。そこで穴を掘って埋めることにしたんです」

 ネフリティスは顔を横に向ける。可彦もその視線の先を見る。小高く詰まれた土の山が見えた。

「大変だったよね」

 ネフリティスが苦労して掘ったのは可彦の墓穴だ。それに対して労いの言葉をかけるのは妙な気分だったが自分の為にしてくれたのには変わりはない。

「道具がなかったので時間がかかってしまいました。逆にそれが幸いしたとも言えますが」

「なんで?」

「手早く掘れていたら、土の中で目覚めることになったかもしれませんよ?」

 すこしおどける口調。確かにそれは可彦にも最悪に感じられた。

「死ななかったのか」

「それはありません」

 ネフリティスは可彦の言葉をきっぱりと否定した。

「殺し損ねたんじゃないの?」

「ありえません」

 さらに強い口調で否定するネフリティス。いつもの優しい口調がこのときばかりは鋭い。

「わたしたちは死に逝く者を苦しまずに送るのも役目のひとつ。その役目は基礎中の基礎。しくじる事などありえません」

「でも」

「わたしがしくじる事がありえない以上、あなたの方に原因があります」

 僕に原因? その言葉に可彦は小さな笑みを浮かべた。

「そうか……僕は死ぬこともできないのか」

 放り出されたこの世界で、何の力もなく、死という逃げ道さえも閉ざされた。

「死ぬことができないのではなく、生かされているのかもしれませんよ?」

「何に?」

「何かに」

「何のために?」

「何かのために」

「それじゃ何もわからないよ」

「その何もわからない何かを、探してみてはいかがです?」

 静かな声。その声につられるように可彦は横たえていた身体を起こし、毛布を羽織りなおすと焚火をはさんでネフリティスの前に座り直す。

「探すって……どうやって」

「知りません。それも探すしかないです」

「それも探すって……」

「お手伝いしましょうか?」

 唐突な申し入れだった。可彦はネフリティスの顔を見つめる。

「ここで出会ったのも精霊の導き、これもまた何かのひとつなのでしょう。それに……」

 ネフリティスは言葉を切り、可彦を見つめなおす。

「なによりもわたしが送り出せなかったあなたが何者なのか、わたしは知りたい。あなたが何をなすためにここに来たのか、わたしもそれを知りたい。そもそもわたしはあなたの名前すら知らないのです」

 微笑を向けるネフリティス。

「志原可彦」

 可彦は短く告げる。

「可彦でいいよ」

「ベクヒコ様」

「『様』はいらないよ」

「わかりました。ベクヒコ。わたしのこともネフリティスとおよび下さい」

「うん、ネフリティス。僕だって君のこと、名前ぐらいしか知らない」

「わたしは数多の精霊と言葉交わすものです」

「それは聞いた。それってなに?」

「簡単に言うならば……シャーマンです」

「それで君は……何者?」

「ですから」

「いや、職業とかじゃなくて……人間じゃないよね?」

「ああ」

 ネフリティスは頷く。

「王国では見なかったかもしれませんね。表にあまり出てこれませんから……わたしはオークです。オーク……わかりますか?」

「オーク?」

 可彦は少し首をかしげた。

 オーク。聞き覚えはある。というか、よく聞く名前だ。主にゲームや小説、映画の敵役として。

 屈強そうな身体に緑色の肌、口元の牙。確かに可彦の知るオークのイメージに合致する部分はある。しかし全体としての印象は可彦のイメージとは大きく異なっていた。

 可彦の知るオークはもっと凶悪で醜悪だ。

 しかし可彦の目の前にいるオーク……ネフリティスは凶悪な印象は微塵もなく、優しげで知的で慈悲深く思える。

 それに美人とまでは言わないまでも醜悪とは程遠い。

「……どうしました?」

 ネフリティスの声で可彦は我に返る。

 オークといわれ、自分の中のイメージとのギャップに思わずネフリティスの姿に魅入っていた。

 大柄で肉付きの良い身体。

 身に着けた服は荒野に似つかわしくない、深い紫色をしたホルターネックのドレスに似たもので、大胆に開いた胸元からのぞく胸は、確認するまでもなく非常に大きい。

 座っているためはっきりとはしないが下半身を覆うスカートには大きくスリットが切り込まれ、カリガに似た皮ひものサンダルを履いた引き締まった長い脚が晒されている。

 どちらかといえば、いや、比べるまでもなく、魅力的な姿をしていた。

「い、いや、なんでもないよ」

 可彦は目を背けながら、柔らかい感触を思い出す。

「それで、どうします?」

「どうする……」

 可彦はその言葉に考える。考えるがあまり選択肢はなかった。

「ネフリティスは修行中って言っていたよね?」

「そうです。修行の旅の途中であなたを見つけたんです」

「じゃあさ。その旅に連れて行ってよ」

 可彦はそう答えた。

「何をして良いのかもわからない。どこに行けばいいのかもわからない。手伝ってくれるって言ってくれたけど、何を手伝ってもらえば良いのかもわからない。それならとりあえず君についていくよ」

「そうですか。そうですね」

 ネフリティスも頷く。

「それも良いかもしれませんね」

「ネフリティスはどこに行く途中だったの?」

「どこにも」

 ネフリティスは可彦の言葉に笑いながら答えた。

「精霊の声の導くままに」

「……それって『風の向くまま気の向くまま』ってこと?」

「良い言葉をご存知ですね」

 もう一度ネフリティスは笑う。釣られて可彦も相好を崩した。

「そうと決まれば今日はもう寝ましょう」

 ネフリティスは立ち上がる。立ち上がると焚火を回って可彦の脇に身を屈めると、可彦のかぶる毛布の中身もぐりこんできた。

「え! な!」

「毛布はこれ一枚しかないんです。窮屈ですが我慢してください」

「それじゃ僕は別のところで!」

「風邪を引いたらどうするんです? それにわたしの旅は結構過酷ですよ、きちんと休まないと」

 ネフリティスは毛布にもぐりこむと可彦に抱きつき、そのまま身体を横にする。抵抗することも出来ず可彦の身体も横にされる。

 女性と一夜を共にすることは、可彦がこちらの世界に来てから体験はしていた。自身ちょっとは慣れた気にもなっていた。しかし可彦は自分でも驚くほどに狼狽していた。

「大丈夫ですよ。襲いませんから」

 可彦が言葉を返すよりも先に、間近に迫ったネフリティスの笑みがその言葉を封じた。

「それでは……おやすみなさい」

 可彦の鼻先で告げられたその言葉はあの時と同じに優しくて、あの時とは違う優しさだった。

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