第一章 ネフリティス オブ オークシャーマン
第1話
暖かい。
初めに感じた感覚。
柔らかい。
次の感じた感覚。
甘い匂い、煙の臭い。
薄く目を開ける。
暖かく朱い光が揺らめいでいる。
流れるような心地よい暖かさと煙の臭いは前から。
包み込むような柔らかい暖かさと甘い匂いは後ろから。
それぞれがそれぞれ、可彦の身体を覆っていた。
目の前に揺らめく光。それは焚火だった。
その焚火から薄く立ち上る煙が可彦の目に染みる。可彦は小さく身体を動かした。
柔らかい。
「あ、気が付きましたか」
上から聞こえてきた声。可彦は見上げる。
そこにあったのは人の顔。
声が聞こえてきたのだから、それは予想の範疇ではあったが、しかしそれはあまりにも異質な顔だった。
たれ目がちの大きな目。
鼻梁のはっきりとした大きな鼻。
肉厚の大きな口。
がっしりとした顎。
口元から生える上向きの牙。
細かく編まれ、何本もの束になっている赤茶色の長い髪。
そして何よりもその肌の色。
その肌は艶やかな緑色をしていた。
顔を構成する一つ一つのパーツは大味で決して繊細で美しいとは言えない。
しかしその配置が絶妙で、その絶妙さがどこか繊細で美しく、それでいてなぜか心休まるような、そんな印象を可彦に与えていた。
特にたれ目がちな目の中の明るい色の瞳が優しいと可彦は感じた。
「君は?」
「わたしの名前はネフリティス」
可彦の顔を覗き込みながら、その緑色の人物は語りかける。その声もやさしく穏やかで、今だ朦朧とした可彦の意識を少しづつ解していく。
「数多の精霊と言葉交わすもの」
誇らしげな声。そのあとに小さく笑って付け加えられた。
「もっともまだ修行の身ですが」
「……僕は?」
「崖下に倒れて……少し違いますね。……言葉は悪いですが……投げ捨てられていたのです」
崖下に……投げ捨てられて?
その言葉が可彦の頭の中で逡巡する。理解することを拒むように足踏みする。
「正直、とても生きているとは思えませんでした」
生きているとは……思えない?
記憶のふたが揺さぶられる。自然と自分の胸に手がいく。薄い違和感。確かにそこには跡が残っていた。刺し貫かれた剣の跡。しかしそれは傷痕というには余りにも薄く、指先にはただの筋跡としての感触しか伝わってこなかった。
「服も血に染まっていて、死体かと思うぐらい冷たくなっていて、それでも微かに命が灯っていて、とにかく脱がせてその身体を温めることにしたんです」
そこまで言われて自分が裸であることに気が付く。
そして背中から伝わってくる柔らかい暖かさが自分を抱いてくれている緑色の女性、ネフリティスと名乗った女性の素肌から伝わってきているということも。
「服装からすると王国から来たみたいですけど……王国民には見えませんね」
ネフリティスの声は優しい。しかしそれでもその言葉は可彦を抉る。
「……帝国軍と王国軍の動きも慌ただしいですし……ひょっとしてこことは違う……異なる世界から来ましたか?」
無言の可彦。しかしその身体は正直だった。その身体は哀れなまでに大きく引き攣った。それをかばうように、可彦を抱くネフリティスの両腕が静かに身体を引き寄せる。
「ああ……惨い目にあいましたね」
「なにか……知っているの?」
可彦は無意識にそう呟いていた。呟いてからなぜそんなことを口にしたのだろうと我に返る。それから気が付いた。ネフリティスの言葉。それは可彦の身の上に起きたことがなんであるか、理解していることを示していた。
「隠す理由もありません。あなたはすでにその仕打ちを受けてしまったのですから」
ネフリティスはもう一度可彦を抱く手に力を込めると、ゆっくりと王国と帝国のからくりを語り始めた。
「あなたは生贄なんです」
生贄……その言葉がじわじわと可彦の中に染み込んでくる。
「王国と帝国は永くにわたり対立し、すでにその対立こそが国家の基盤となってしまっています。しかし戦えば戦うほどお互いは疲弊する。その先にあるのは共倒れ。そんなことは子供にだってわかることです。だから王国と帝国はひとつの密約を結びました」
あくまでも静かに、淡々と語るネフリティス。可彦はネフリティスに抱かれたまま、茫洋と焚火を眺め、その声を聴く。
「王国は勇者を呼び寄せ帝国に向かわせ、帝国はそれを討ち取る。戦いはあなたの倒れていた崖の上、山脈に抱かれた荒れ果てた台地にて常に行われます。あそこならどちらの領土からも離れていますから」
「……それに……どんな意味が?」
「王国は勇者を得ることで大義とし、帝国はその勇者を討つことでその力を誇示します。王国では『勇者は皇帝と相打ちとなり、帝国を撃退するも行方不明』と喧伝され、帝国では『皇帝が勇者を討ち果たし、王国を追い返した』と喧伝されるでしょう」
「……」
「結局のところ王国と帝国、二つの国の矜持のための生贄。それがあなたがなった『勇者』の正体」
「……」
「なぜそんなことを知っていると、そう言いたそうですね」
何も語らない可彦に、ネフリティスは声をただ与え続ける。
「わたしもかつては帝国に身を置き、それなりの身分だった。今はそれだけお教えします」
しばし言葉の流れが途切れる。焚火の音が途切れたそこを埋めるように響く。
「それにしてもよく無事……とは言えないまでも、命存えましたね」
可彦は無言。ネフリティスの言葉も再び途切れる。
「帰りたい」
沈黙の末に可彦の口から洩れた言葉はそれだった。
「自分の世界に」
夢見た世界に裏切られた可彦の口は、その言葉を吐き出すのが精一杯だった。
「幾多の世界を結ぶ道は、わたしの知る限り王国にしか存在しません。『勇者が遣わされるのは王国のみ』それこそが王国の大義の源なのですから」
「……よくわからない」
「……そうですか、そうですね。でははっきりと言いましょう」
ネフリティスの両腕に力がこもる。可彦をしっかりと抱きとめるかのように。
「帝国との密約がある以上、あなたは生きていてはいけない存在です。帝国との関係が悪化するのは王国としては避けたいところ、何せ軍事力という点では王国は帝国に劣っていますから。そんな危険な存在に王国の根幹たる宝器を使わせてくれるとは到底思えません。それどころか……」
「……よくわからない」
「……帰れません。あなたの世界には」
「……」
帰れない。自分の世界に。その言葉は可彦には響かなかった。
響かずに、染み込まずに、ただ大きく圧し掛かる。
あんなに退屈だった世界。
あんなに退屈だった日常。
大切なものは失ってから解る。
そんなありふれた陳腐な言葉が、どうしようもなくこみあげてくる。
そのこみあげてくるものが、可彦の口から音となってこぼれ出す。
「は、はは、ははははは」
その音は、乾いた、荒涼としたこの荒地よりも乾いた、何も含まれていない笑い。
「あはははははははは」
純粋な音としての笑い。
「夢だ」
そのあとについて出た言葉。
「全部夢だ。寝て、覚めればいつものベッドの中なんだ」
その言葉も、ただ文字の羅列が口から出ただけの、何の意味も持たない、ただ文字として意味のあるだけの、言葉という名の雑音。
「はは、ははは、ははははは!」
ネフリティスの腕の中で笑い続ける可彦。
ネフリティスはただその腕に抱き続け、そして可彦の耳元に静かに顔を近づける。編まれた赤茶色の髪が、可彦の肩に簾の様にしな垂れかかる。
「それでは……おやすみなさい」
ネフリティスは可彦の耳元で優しく告げた。
可彦の身体を抱いていた両腕が解かれると、その腕が笑い続ける可彦の頭を後ろから挟むように包む。
次の瞬間、鈍い音と共に可彦の首はあらぬ方向へと捻じ曲げられていたのだが、それに気が付く機会は可彦に訪れるはずもなかった。
訪れるはずもなかった。
そのはずだった……
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