カヲルについて Side:Y

 校門の桜がしなだれる始業式の日。高校生活も二年目に突入する記念すべきその日、ゆかりはひとつの決心をした。


 それは、まだゆかりが中学生だったころ、夢中になって書いていた物語に終止符を打つことだった。続きを書くこともできず、かといって捨てることもできず、ただ机の引き出しの奥で眠らせていた原稿用紙。久しぶりに手に取った紙束は、ずしりとしていて、ゆかりは改めてその重みを実感したものだった。


 まずは馴染みの喫茶店で読み返すところから始めよう。そう思った。大切な物語だからこそ、一から読み直して、きちんと終わりへ導こうと、そう思っていた。


 けれど、春の風とは時として、とんでもない悪戯をしでかす。そして、原稿をカバンに忍ばせていたゆかりは、その餌食となった。


 始業式を終え、校舎から出ようとした瞬間に吹いた突風。枝に咲いた花も、地に落ちた花も、見境なく空へと巻きあげた風は、あろうことか、ゆかりが手にしていたカバンの留め具を外してしまった。


 一斉に青空へと舞いあがる、白い紙。束の間、言葉をなくした。まるで、自由を求めて飛び立つ鳥のようだと思った。刹那、追いかけることを、ためらった。


 それでも、ゆかりが飛び立とうとするそれらを見送らなかったのは、ある種の意地だったのかもしれない。ゆかりは、風に舞う原稿用紙を追いかけ――そして、カヲルと出会った。


 校門の前に散らばっていた紙を拾いあげ、カヲルはそれらに目を落としていた。カヲルは、ゆかりに気づくなり、にこりとして、


「ああ。もしかして、君が佐倉ゆかりちゃん?」


 そのときのゆかりは、一体どれだけ呆けた顔をしていたのだろうか。何食わぬ顔で笑うカヲルは、手にしていた一枚の紙をゆかりに見せて、言った。ごめん驚かせたかな、名前この原稿用紙に書いてあったからさ――


 カヲルは、拾った原稿をその場でゆかりに返してくれたものの、それは風にさらわれたすべてではなかった。翌日、一年のころから国語を受け持っている教師に呼び出され、失くしたと思った原稿を手渡されたときは、顔から火が出るのではないかと思った。


 以来、ゆかりは度々カヲルと鉢合わせるようになり、教師のほうからは都々楽ツユリという作家について語られるようになった。幸い、他に原稿を拾った人物はいないようではあったけれど、空に舞った物語のかけらは、未だに、ひとつだけそろわない。ぽかりと穴の空いてしまった物語を前に、ゆかりはため息を吐いた。


「書けそうにないし、また夏目さんの店にでも行こうかな」


 ぽつりと呟いて、自室の窓から外を見る。日は傾いてきているとはいえ、今の時間であれば、まだケーキのひとつやふたつくらいは残っているかもしれない。もっとも、おいしい紅茶を淹れてくれる店でもあるから、それを目当てにするのもいい。


 ゆかりは、しばし考えてから、手にしていた万年筆を机に置いた。椅子から立ちあがり、壁にかけた春用のコートを羽織る。手早く戸締りをして、静まり返った家を後にした。


 守童の町外れにある実家を出て、従姉妹が使っていた小さなアトリエを借りるようになってから、一年ほどが経つ。戸惑いだらけだった一人暮らしも、今となっては慣れたもので、三食の自炊も苦ではなくなった。友人たちも、ゆかりが生活費削減のために節約していることを知っているし、外食をすることなんて、年に一度あるかどうかというほどだ――駅前広場にある喫茶店でのお茶を除けば。


 夏目弥一という男が営むそこは、「ゆらぎ」と名づけられた赤レンガ造りの店で、ゆかりが中学生だったころから、何かと世話になっている。ワンコインで頼める日替わりケーキセットが女性客に大変な人気を博しており、店内は連日混み合う。一人客同士が相席になることは、ここでは日常茶飯事だった。おかげで、「新しい交友関係ができる店」としても定評がある。


 ただし、先日のゆかりとカヲルが相席になった件に関しては、互いが顔見知りであることが大きな要因だった。というのも、店長の夏目は、どうやらゆかりとカヲルがそれなりに親しい間柄だと思っているようで、どちらか一方がすでに店内にいる際には、必ずといっていいほど相手の名前を出すのである。カヲルはゆかりの名前を聞けば一も二もなく相席を希望するし、ゆかりは店の混雑状況を加味したうえで相席を承諾するため、結果として定番の二人組みということになっている。そのため、


「ああ。いらっしゃい、ゆかりちゃん。今日は彼は来ていないが、待ち合わせかい?」

「違います、断じて」


 店に入るなり、夏目からカヲルのことを示唆され、ゆかりは間髪いれずに否定した。夏目はにこりとさせた表情を変えることもなく、「そうなのか」と、うなずいただけだった。


「では、ご注文をどうぞ。生憎と、いつもの日替わりセットは切らしているんだが」

「じゃあ、今日はフルーツティーをお願いします。リンゴ多めで」

「かしこまりました。好きな席にかけて待っていてくれるかい」

「はい、お願いします」


 茶器の用意を始める夏目に頭をさげ、店内をぐるりと見渡す。時間が時間のせいか、いつもより少し席が空いている。ゆかりは窓際の二人席に腰かけ、外へと目をやった。広場を行き交う人々を眺めながら、頬杖をつく。そしてふと、店の出入り口付近に佇む妙な人影が目に留まった。


 それは、作務衣を着て、片眼鏡をかけた男だった。駄菓子屋の袋をぶら提げ、口にはくわえタバコ――いや、違う。よくよく見ると、あれはタバコを模した棒状の駄菓子だ。


 ゆかりが店に入る前はいなかったことを考えると、新しい客だろうか。店と客の印象が必ずしも一致するわけではないとはいえ、おおよそ、この店の雰囲気にはそぐわないいでたちである。


 なんとはなしに、ゆかりは男のようすを眺めた。しかし、男は一向に店内へ入ろうとしない。妙だなと、思った。外には店のメニューなど置いてはいないし、男自身もまっすぐに店のほうを見ている。ただ通りがかった、というわけでもなさそうなのだが。そう首をかしげていれば、夏目がフルーツティーを運んできた。


「どうかしたのかい。やけに窓の外を気にしているようだが」

「あ、夏目さん――いえ、ちょっと変わった人がいたので、つい」

「変わった人?」


 夏目は首をかしげ、トレイの上にのせたガラスのティーセットをテーブルに移した。透きとおった丸いポットの中で、夕日色をした水面が揺れる。ぽつぽつと浮かぶリンゴやオレンジ、キウイといったフルーツの甘い香りが、かすかに鼻をくすぐった。


「すまない、少し失礼するよ」


 そう断った夏目が、テーブルの上に身を乗り出す。窓の外を見るなり、彼の表情はにわかに険しくなった。


「夏目さん、知り合いですか?」

「ああ。一応、だが」


 歯切れ悪く答えた夏目のようすは、親しい相手について話すものではない。普段、穏やかに微笑んでいる夏目しか知らなかったゆかりは、少し意外に思った。夏目といえど人間だ。馬の合う合わないはあるだろうけれど、それをこうして顕著に感じさせるほど、不仲な相手がいるとは想像していなかった。


 それじゃ、ごゆっくり。裏にした伝票を残して引っこむ夏目を、ゆかりは目で追いかけた。夏目は銀のトレイをカウンターに置くと、店の外へと出て行く。もしやと思って窓の外を見れば、案の定、先ほどの男に話しかけているようだった。


 盗み聞きというのは良い趣味ではないけれど、どうにも気になる。ゆかりがそっと窓を開けたら、外気に混じって、いつになく剣呑な夏目の声が聞こえてきた。


「野口さん、あなたは鼻の利く人だ。嗅ぎまわるのは勝手だが、あまり店の前をうろうろしないでもらいたい。営業妨害になる」

「相変わらず、弥一はつれないねえ。同じ学び舎へ通った仲だろうに、その野口さんってのは、やめてほしいもんだな」

「では、名前で呼べば帰ると?」

「まさか。少しばかし、お前さんとこの客に用があってね」


 言うや否や、男が振り返り、その目がゆかりのそれとぶつかる。


「よう、お嬢さん。ちいと相席を頼みたいんだが、かまわないかな?」


 にんまりとした笑みを向けられ、ゆかりは彼の目的が、どうやら自分であるらしいということを悟った。

 かくして、無垢木のテーブルを挟んだゆかりの向かい側には、見知らぬ男がいる。夏目から「野口」と呼ばれていたその男は、テーブルの真ん中に置かれたポットをしげしげと見つめ、くわえていた駄菓子を指でつまんだ。


「ははあ。近ごろの若いお嬢さんってのは、こんなしゃれたもんを好むのか」


 惜しげもなく紅茶に浸された色とりどりのフルーツを菓子の先端で指し、男は言う。


「このリンゴやらミカンやらは、食えんのか?」

「ええと」


 ゆかりは、ポットの中身へと目を落とした。これはミカンではなくオレンジだと、訂正するべきなのだろうか。ちらと考えたものの、今この場で重要なのは、きっとそんなことではない。ゆかりは、男の間違いを聞き流すことにした。


「そうですね、食べられます。味のほとんどは、紅茶に染み出てますけど」

「ああ、なるほど。残りカスみたいなもんになるのか」


 納得したようすで、男は駄菓子を口にくわえ直す。すかさず、夏目がたしなめるように言った。


「うちでは飲食物の持ちこみは遠慮してもらっているんだが」

「それぐらいわかってるよ――水出し、ひとつ」


 あしらうような男からの注文に対して、夏目は険しい表情を隠そうともしなかった。黙って頭をさげ、店の奥へと姿を消す。それを見計らって、男は駄菓子を一気に噛み砕いた。


「まあ、お嬢さんも見てのとおりだ。僕はあまり歓迎されないんでね、てっとり早く用件をすませたい」


 しゃあしゃあと言う男は、ポケットから名刺を取り出すと、テーブルの上に置いた。


「僕は野口有紀ってもんだ。そいつにあるよう、私立探偵をやってる」

「私立探偵? そんな人が、なんで私なんかに」


 探偵なんて、一般的にはなかなか縁のない職業である。首を傾けながら、ゆかりは名刺を手に取った。けれども、たしかにそこには私立探偵の文字がある。事務所の連絡先なども書かれているのを確認して顔をあげれば、野口が腕を組んだ。


「ちょっとした目撃情報があってな」

「目撃、情報」


 言われた言葉を、繰り返す。野口は「そうだ」と短くうなずき、ふと目を細くした。背筋が、かすかに粟立つ。細められた双眸が、まるで底の見えない湖のようだった。


「お前さん、銀髪の男を知ってるだろう。いつも白いコートとマフラーを身につけている、カヲルとかいう名前の男を」


 数日前、この店で相席をした青年の顔が頭に浮かび、やがて静かに消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る