都々楽ツユリについて Side:K

 ごった返す人を避けて裏道へと入りながら、カヲルはマフラーに口もとを埋め、物思いにふけっていた。喫茶店で少女と交わしたやりとりを思い返し、ひとりごつ。


「彼女の中には、たしかにいた」


 佐倉ゆかり――カヲルの目から見た彼女の言葉に、嘘偽りはなかった。ゆかりは、間違いなく「都々楽ツユリ」という作家を知っている。おそらくは、彼女に勉学を教えている高校教師もまた、知っているのだろう。そうでもなければ、あんな情報がゆかりの口から出てくることはない。


 動物の面をつけた「仮面作家」。「彼女」が公の場で着る制服は、その都度変わるのだが、それら全てが廃校になった場所で使われていたものであることは共通している。これは以前、全国にある学校のデータベースを、カヲルが自ら確認した情報でもある。


 しかし、カヲルが件の作家について知り得るのは、それだけでしかない。カヲルが参照した作家や書籍のデータベースには、そもそも、その存在自体が記録されていなかった。否、データベースだけではない。これまで、カヲルが関わってきた人間のほとんどは「彼女」を知らず、「彼女」の著書を知らない――


 カヲルは懐から古びた本を取り出すと、軽くページをめくった。何度も読み返したそれの奥付には、初版の文字と、実在する出版社や印刷所が記されている。だというのに、これら企業のデータには「彼女」にまつわる記録は一切なく、当時の関係者と話をしても、彼らは口をそろえて「知らない」と言うのだ。当然、図書館や書店に著書は存在しておらず、カヲルは自分が得体の知れない大きなものに謀られているのではないかと思ってさえいた――先刻、ゆかりの話を聞くまでは。


「あの人は、たしかに存在している」


 確信をもって、カヲルは呟いた。かつて、この本を書き、カヲルに手渡した「彼女」は、幻ではない。


 四月の初め、偶然にも通りがかった高校の前で、ゆかりの原稿用紙を拾ったときは、よもや彼女がこんな朗報をもたらしてくれるとは夢にもみていなかった。


「先生、どこにいるの」


 立ち止まり、壁で狭められた空を見あげれば、遠い過去に戻った感覚に陥る。無意識のうちに、マフラーをきつく握りしめていた。


 カヲルは、この世に生を受けた瞬間から、まっとうな人生を送ることができない運命だった。凄惨な過去は、鮮血のごとく赤く脳裏にこびりつき、未だ色あせることを知らない。年月を重ねた今もなお、眠りにつくことを厭う夜がある。


 けれど、その過去なくして現在が成り立たないことも、カヲルは理解していた。


「俺に、ぬくもりをくれたのは、あなたが初めてだった」


 過ぎ去った日のぬくもりは、カヲルにとって何より失いたくないものだ。だからこそ、カヲルはまだバランスを保つことができている。おぞましい過去を、肯定することができる。


 仮に、そのぬくもりを奪おうとする者がいるのなら、カヲルは修羅にでも身をやつすのだろう。自らの手で何を奪ったとしても、カヲルの唯一を守り抜くのだろう。それでも、万が一にでも、ぬくもりを失うことがあるのならば、そのときは、


「よう、白づくめ」


 人気のない路地へと入りこんできた声に、カヲルはゆるりと振り返った。作務衣を着た片眼鏡の人物が一人、そこに立っている。


「その声、覚えがあるな。この前、マンションの屋上にいた人間だね」

「そういうお前さんは、夜な夜な女の子を追いかけまわしてた野郎で間違いなさそうだな」

「仮にそうだったとして、俺に何か用? ずいぶんと長いこと、後をつけていたようだけど」


 笑って返すと、みるみるうちに相手の眉間には深いしわが刻まれた。カヲルの口ぶりが気に入らないのか、それとも正義感が強いのか。いずれにせよ、直情型の人間に多い反応だ。カヲルは薄く笑って、そのようすを観察する。「気味の悪い野郎だ」と、吐き捨てるようにそれは言った。


「単刀直入に聞く。お前さん、何者だ? あの高さから飛び降りて、無傷でいるなんて普通じゃねえだろ」

「ご明察」


 わざとらしく肩をすくめてみせ、カヲルは相手を見返した。


「そのとおりだ。俺は普通じゃない。あんたとは違ってね」

「僕とお前さんの違いなんざ、どうでもいい。飛び降りた女の子はどうした」

「どうしてまた、俺にそんなことを聞くのかな」

「仏さんが見つからねえんだ。お前さんが一枚噛んでるんじゃねえのか」


 あの場で一部始終を見ていた人間ならば、考えつきそうなことだった。在るべきはずのものがなく、カヲルだけがこうして無傷でいるのだから無理もない。


 大方、カヲルの姿を町中で見かけ、後をつけてきたのだろう。それなりに尾行慣れはしているようで、ここへ来るまでの間、あからさまな違和感はなかった。どういった立場の人間であるにせよ、ここで下手に情報を与えるべき相手ではない。カヲルはコートのポケットに手を入れた。


「縁も所縁もないあんたに、俺が正直に話すと思うかい?」

「思わねえな」


 即答だった。頭も、それなりには回るらしい。相手の出方をうかがうべく、カヲルは沈黙して立ち尽くす。


 この時点で、カヲルにはそれを相手にするつもりはなかった。あくまで、相手はただの人間でしかない。情報をいくつか引き出すことができ次第、適当にまいて逃げるつもりだった。少なくとも、それが次の手に出るまでは。


「だが、これならどうする?」


 おもむろに袖から引き抜かれたのは、二丁の小型拳銃。仕込み武器だろう。鈍色に光る銃口を突きつけられ、カヲルは目をすがめた。


「へえ。そんなオモチャで、俺が動じるとでも?」

「オモチャじゃねえさ。本物だよ」


 表情ひとつ変えることなく、それは言う。しかし、カヲルもまた表情を変えなかった。


「いいや、オモチャだ――俺にとってはね」


 身を屈め、素早く踏みこむ。小さな舌打ちとともに、二丁拳銃が火を噴いた。カヲルは相手を見据えたまま、目を逸らさない。


「当たらないな」


 首をそらすだけで銃撃をかわし、呟いた。片眼鏡の向こうにある相手の目が、見開かれる。


「こいつ、かわしただと!」

「ああ、かわされるのが不愉快? それなら、こうしてあげようか」


 狙いすまされた無数の弾丸を見つめ、カヲルは笑う。二つほど指で挟み取り、残りはすべて弾き落とした。そうして手にした銃弾を、カヲルは寸分の違いなく、それが握る小銃の口へと放つ。刹那、相手の顔色が変わった。鼓膜を打ち破るかのような、破裂音が響き渡る。


 とっさに銃を投げ捨てたのだろう。アスファルトに這いつくばるそれは、無傷だった腕で耳を押さえながら、うめいている。そんな姿を一瞥し、カヲルは口を開いた。


「俺は、そういう類のオモチャが嫌いなんだ。持つなとは言わない。だけど、二度と俺の前で出すな」


 先ほどの音で耳をやられただろう人物が、弾かれたように顔をあげる。向けられたのは、驚きと困惑の表情。物事を把握し切れていない人間が見せる、それそのものだった。だが、カヲルにはそれ以上のことを語って聞かせる意思もなければ、そうしてやる義理もない。


 うずくまる相手をその場に一人残し、カヲルは音もなく、きびすを返した。後に続いてくる気配はもはやなく、カヲルの意識は再び物思いに沈んでいった。

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