都々楽ツユリについて Side:Y

「ねえ、ゆかりちゃんは都々楽ツユリっていう作家のこと知ってる?」

「は?」


 おやつ時で混雑した、行きつけの喫茶店。もはや相席が当たり前となっているその店で、偶然にも居合わせた青年の言葉に、佐倉ゆかりは怪訝な声を出していた。


「だって君、本好きなんだよね? 趣味で小説とか書いてるくらいだし」

「恥ずかしいからその話やめてくださいって前にも言いましたよね、カヲルさん」

「ああ、ごめんごめん。で、どうなの? 知ってるの?」


 少しも悪びれていない風貌で、カヲルは答えを促してくる。ゆかりはうんざりとしながら、ケーキをつついていたフォークを置いた。


「都々楽ツユリ。公の場では廃校になった学校の制服を着て、動物の面をつけてる正体不明の作家。通称、仮面作家。代表作は逆時廻さかときめぐりと他二作」

「へえ、よく知ってるんだ」

「学校の先生が熱烈なファンなんですよ。耳タコです」

「それはいいな。俺も、その先生となら仲良くなれそうだ」

「はあ、そうですか」


 それはよかったですね。感情のかけらもこもらない声で返し、ゆかりは食べかけのケーキへと目を落とした。雪のように白いフロマージュに赤を彩るフランボワーズ。行儀が悪いと知りつつも、指で摘まんで口に運んだ。すっぱい。


「俺も逆時廻りだけなら、持ってるよ」


 店の裏メニューである水出しコーヒーを口に運びながら、カヲルは笑った。


「あれはなかなか、おもしろい。人間っていう生きものの矛盾と愚かしさをよく描いている」


 聞いてもいないのに、件の作家の作品について語りだすカヲルからは、何やら高校の国語教師と近しいものを感じる。最悪、同類かもしれないと思った。


「他人ごとみたいに言うんですね」

「俺にとっては他人ごとだからね。そもそも、小説の中の話だ。現実じゃない」

「はいはい、そうですね。おっしゃるとおりです」


 気のない相づちを打ちながら、ゆかりは早くも諦観していた。この手の人間というのは、人の迷惑など知ったことではない。そういうものなのだ。別に何を好もうと人の勝手だが他人を巻きこまないでほしいとは、これでなかなか切実な願いである。


 そもそも、ゆかりは国語の課題を終えた自分を労うべくして、ケーキを食べに来たのだ。一体全体どうして、今回徹夜まですることになった原因でもある本の話を聞かされなければならないのか。


 ゆかりが趣味で小説を書いているから、という理由で、この手の話題を振られるというのも、納得がいかない。これでは、分厚い新書の上下巻をぽんと寄越して返却と提出の期日は明日までだとのたまった彼の国語教師のようだ。いわく、「趣味とはいえ、小説を書いている君には、ぜひとも読んでもらいたくてな」ということではあったけれど。


「で、その都々楽ツユリがどうかしたんですか」


 何の感慨もなく、視線ではなく問いを投げかける。それまで流暢にしゃべっていたカヲルは、けれど、とたんに口を閉ざした。


 てっきり、嬉々として話を展開させてくるものと覚悟していたゆかりは、思わず顔をあげる。目を、瞬いた。ひどく遠い目をしたカヲルが、そこにはいた。


「さがしてるんだ。もうずっと、長いことね」


 薄く笑った顔に、どうしてか背筋がぞっとする。見てはいけないものを見た、そんな気がした。


 とっさに悟られまいとしたのは、彼の持つ何か薄昏いものを見てしまったことなのか、それとも、ふいに胸へと湧いた恐れなのか。それは、ゆかりにも定かではなかったが、言い知れない漠然とした理由を胸に押しこめ、とかく平静を装った。


「そうですか。ストーカーにならない程度にがんばってください」

「君のそういう塩対応っていうの? 嫌いじゃないよ。先生を思い出すからね」

「先生」


 カヲルは、にこりとした。コートの裾を揺らして、席を立つ。


「情報ありがとう。ここの代金は俺が持つから、ゆかりちゃんはゆっくりしていきなよ。それじゃ」


 ひらりと手を振り、立ち去る背中を、ゆかりはただ見送ることしかできなかった。


 窓の外を見れば、人影が遠ざかっていく。五月晴れの下では不釣合いな白いマフラーが、人混みへと消えた。


「まあ、いいか」


 ゆかりは呟いた。だって、自分へのご褒美代は浮いたのだから。

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