ことの始まりについて

 守童町すわらべちょうに一軒しかない駄菓子屋の袋をぶら提げながら、マンションの屋上に立つ。老朽化が進み、マンションの住民が去ったのは、どれくらい前のことだったか。とうとう数日前に取り壊しが決まったそこには、今や人の姿はおろか、気配すらない。


「わかっちゃいたが、ここまで静かだと、さすがに寂しいもんがあるねえ」


 タバコを模した菓子を口にくわえ、ひとり呟いた。


 今でこそ廃墟同然のマンションだが、自分にとっては生まれ育った家だった。同じ時代を過ごし、同じ年月を重ねてきた。当事はまだ、マンション内での近所付き合いが盛んだったせいか、各家庭の事情はそれとなく知っていた。住民たちが助け合う、まさしく理想的なコミュニティが築かれていた。住民の孤立を嘆かれる現代とは違う。


 懐かしいものだと思い、くわえた菓子に歯を立てた。ぱきり。そんな小気味いい音が、町の喧騒も遠くなった夜気を震わせる。


 しかし、かつての賑わいを思い出すほどに、今この瞬間との格差ははっきりと浮かびあがっていく。無力感に苛まれる胸を落ち着かせるように、深いため息を吐いた。そのときだった。


 足音が聞こえた。ひとつは、階段を駆けあがってくる軽い足音。もうひとつは、それなりの質量を感じさせる重い足音。とっさに貯水槽の裏に身を隠し、息を殺した。


 一体誰だと、思考を巡らせる。他人のことを言える立場ではないが、こんな時間に、こんな場所へ来るなど、ろくな人間だとは思えない。このところ幅を利かせているという近所の悪ガキか。それとも、「そちら側」の人間か。


 金属のステップを踏み鳴らす音が、大きくなっていく。比例するように、体内にある心臓もまた、音を大きくしていく。


 しかしながら、それは妙だった。軽い足音は急いているというのに、重い足音は妙に落ち着いたリズムを刻んでいる。陰からようすをうかがえば、一人の少女が屋上へと駆けあがってきたところだった。だが、思わず眉をひそめる。なぜなら、こちらの少女もまた奇妙だったのである。


 肩で息をする少女は、その顔をキツネの面で隠しており、着ている制服にも見覚えがない。知り得る限りの情報では、守童町にある学校が指定しているどれとも異なっている。少女が周囲を見渡すように首を巡らせると、ふいに若い男の声がした。


「先生、どこへ行くんです?」


 よく通る声が、月明りの下で異様なまでに響く。弾かれるようにして、少女が再び駆けだす。その姿が死角へ消えると、今度は闇に浮かびあがるような白い人影が屋上へと現れた。


 白いロングコートをはためかせるそれは、一人の青年だった。いわゆる銀髪というものなのか。風に揺れる髪は、月光を浴び、淡く光を帯びている。青年は、少女が消えた方角へと顔を向け、「ひどいな」と笑った。


「俺がわからないわけじゃないでしょう? 逃げなくたっていいじゃないですか」


 返る声は、ない。聞こえるのは、少女のものと思しき靴音だけだ。状況をより正確に把握するべく、梯子に手を伸ばす。音をたてないよう貯水槽の上へと登り、直後、息を呑んだ。


「なんの、つもりですか」


 先ほどまでとは異なり、明らかな困惑をにじませた青年の声。対する少女は、青年に背を向けたまま、振り返ることすらない。足場などほとんどない、錆びついたフェンスの外側で。


「先生、そんなところにいたら」


 青年の呼びかけにも答えず、仮面の少女はフェンスの外に佇み続ける。互いに沈黙し、身じろぎひとつしない様は、ある種の攻防でも行っているかのようだった。得体の知れない緊張感が漂う。


 やがて、しびれを切らした青年が足を踏みだすのと、少女の身体が傾くのは同時だった。視界から少女の姿は消え失せ、それはおそらく青年にとっても同じことだった。


 口にくわえていた菓子が、落ちる。刹那、屋上に取り残された青年もまた、言葉を失くしたかのように思われた。しかし、ひとつ舌打ちをしたかと思うと、屋上の床を蹴り、助走を殺すことなくフェンスに手をかける。そして、少女の後を追うようにして、その身を夜へと投げていた。


「お、おい!」


 慌ててあげた声も虚しく、白いマフラーは風にたなびき、闇夜へと呑まれた。貯水槽から飛び降り、急いで駆け寄ったフェンスの下には、底の見えない黒が淀んでいる。


 呆然とするしかなかった。心臓が、早鐘を打つ。


 とんでもないことになった。救急か、あるいは、警察に知らせなくては。


 携帯の入ったポケットをまさぐり、三つの数字を押す。コール音を鳴らすそれを握りしめながら、手は凍えているかのようにふるえていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る