退屈とは
階段を上がって踊り場の辺りで解放された。さっきはものすごい剣幕だったので野次馬も減ったが、まだ階段下から観ている輩がちらほら。この先輩は彼らを視線だけで蹴散らす。俺もあと二年生きればそんな技を習得できるのだろうか。
「それで、御子柴先輩、話というのは」
俺は一瞥してすぐに気が付いていた。まぁ、実際の所、澤田が話を持ちかけてきた辺りから怪しいとは思っていたのだが。
「あーっ! キミ、最初っから私に気が付いてたでしょ、どうして言ってくれないのよ!」
さっきの剣幕とは別種の怒りだ、ちょっとした可愛らしささえ感じられるかも知れない。ただ俺はそんなことを思う暇もない。この後多くの一年生に見守られながら教室に戻らなくてはならないという、地獄のような試練が待ち受けている。俺はひどく憂鬱な気分になった。
「い、い、ですか、センパイ」
まさか入学二週間にして上級生に軽く説教をすることになるとは思わなんだ。俺は御子柴先輩にこの状況が如何にマズイのかを解説した。先輩は思ったよりも素直に話を聞いてくれて、コクコクと頷きながら、段々と表情を青くしていく。そして今後こういうことはしないようにと、約束させる。本当に考えもなく来てしまったらしい、なんて危なっかしいんだ、この人は。
「第一、こんなことをしなくても今日放課後に会う予定だったじゃないですか」
「だって…… 昼休み、暇だったから、来てみて、まだ名前も聞いてなかったし……」
拗ねるような声で反抗してくる。なんとまぁ表情が忙しく変わること変わること。名前だって? それを聞くためにわざわざ学内の三分の一を湧かせるようなパフォーマンスをしたのか、呆れを通り越して賞賛に値する。
はぁ、と溜息を付いて、俺は胸ポケットから生徒手帳を取り出し、先輩に手渡す。なぜか、この人に対しては普通に口で自己紹介するよりもこうした方がいいと思った。
「ナカムラ、ホタル? くん?」
「ケイです、ナカムラ、ケイ」
中村蛍、それが俺の名前だ。自己紹介の度に字を見せるとこの反応をされるのだが、多分、俺はこの人のそういう表情が見たかったのかもしれない。
「ふうん、良い名前ね。 名付けてくれた両親を大切にするといいわ」
さっきまでの困り顔はどこへやら、今度はしみじみと俺の名前を吟味する。更にこの先輩は怖気づく事もなく、そんなことも言っちゃうのである。本当に希少価値の高い人物だ。逆にどうやってこの学校で二年間過ごせてきたのか不思議になるくらいだ。
「そんなわけで、後は放課後でいいですか。 俺、弁当食べかけのまま来てしまったので」
自己紹介だけで終わってしまったが、案外休み時間というものはすぐに過ぎていくもので、昼休みが終わるまでもう時間がない。そろそろ教室へ帰らないと弁当を食べ損ねてしまう。
「あら、それはゴメンナサイ。 そうね、それじゃまた放課後に話をしましょう」
話、と言うからには本当は別の用件もあったのだろう。ただ、こんなふうに、またしてもこの先輩の退屈に付き合う形になってしまったのは誠に遺憾である。
そうして俺は、竜巻のような先輩から逃れた。帰り道はひどく憂鬱だったが、多少の視線を感じるだけで、皆それ程気にしていないようだった。きっと物珍しさに見ていた人がほとんどなのだろう。上級生が一人、このフロアに来た、というだけであんなにも人が集まるのは新学期早々にしてそれ以上に面白いことがない、ということなのかも知れない。人は皆思ったよりも退屈なのかもしれない、そんなことを思うと、あの先輩の言い分もわかったような気もする。
退屈を嫌って退屈しない行動を取るのか、退屈に耐えて、偶然に面白いことが降ってくることを待つのか、俺達と先輩の違いはそこなのだ。
教室に戻ると俺の弁当箱は空になっていた。どうやら早乙女が平らげたらしく、奴は俺が戻ってくるや否や「さーて、次の授業は」なんて言い出しやがる。澤田は何があったのか聞きたそうにしていて、ひたすらにこちらを見ながらメガネを上げる仕草をしている。こちらは放っておけばいいだろう。
しかしまぁ、なんてこった、これは予想外だ……。
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