第18話「祇園祭」立石直(七月)後編

 翌朝、アズサは九時になっても来なかった。ぼくは鼻に大きなガーゼをつけたまま、病院じゃなくてアズサのマンションに向かった。

 リナのことをちょっと思い出した。家族の誰かに叱られたか、思いがけない急病か、どっちかだと思う。会えばわかる。

 朝なのに陽射しはギラギラと眩しくて、袋町ふくろまちを抜けるまでビルの影に隠れて進んだ。こめかみの辺りがじんじんして、周りの音がよく聞こえない。ミンミンゼミの声が聴きたいな、なんて思いながら、マンションまでのちょっとの距離を早足で歩いた。



「はい」

「立石ナオと申します。アズサさんに会わせてください」

「あははっ、ナオ君だね? 上がって来れる?」

「うん」

 インターフォンにはお父さんらしき人が出た。アズサによく似た笑い方に、つい普段の調子でこたえてしまった。

 十二階なんて高さにのぼるのは中学の修学旅行以来だった。太郎山の向こう側まで見えそうなくらい見晴らしが良くて、小ぢんまりした上田の街もぐるりと見渡せる。まちなかに目を移す途中、飯島ランドリーの工場が見えた。

 袋町ふくろまちは、マンションのすぐ下にあった。たくさんの路地があって、人の息づかいや喜怒哀楽がぎっしり詰まってると思ってたぼくのふるさとは、すぐ近くにあるスーパーマーケットの敷地二つ分くらいしかない小さな街だった。

「どうぞ上がって」

「おじゃまします」

 アズサのお父さんは五十歳ちょっとくらいに見えた。ポロシャツの裾から伸びた腕がたくましく引き締まってて、歯が真っ白に見えるくらい日焼けしてる。玄関にはゴルフバッグがぽん、と置かれてて、Zと描かれたチャックが揺れていた。靴は、お父さんとアズサのものしかなかった。

 リビングに通されてソファに座った。革の匂いがする。壁際には丁髷ちょんまげを載っけたみたいなスピーカーが二つとテレビがあって、ぼくのお布団くらいの大きさがあるはずだけど、この部屋にはまだまだ小さく見える。ぼくの住むアパートの部屋ぜんぶが入ってしまいそう。

 アズサは見当たらなかったけど、気配が感じられた。

「鼻、どうしたの?」

「お祭りでけがをしました」

「ケンカ?」

「ケンカはしてません。お祭りで」

「そうか」

 お父さんは、けがの理由を詮索しなかった。ぼくに麦茶を注いだあと、ノンアルコールビールをぷしゃっと開ける。食べかけのおつまみで悪いけど、と言いながら、鉄紺色てつこんいろの金属の箱をぽん、と置いた。えびせんべいかと思ったら、海老じゃなくて鷲の紋章みたいな絵が描いてあって、いろいろな形をしたお煎餅みたいな洋菓子が入っていた。

 ぼくは、いただきます、と言って麦茶を一口だけ飲んで、黙ってお父さんを見た。日焼けした太い手首に、枠だけ薄鈍色うすにびいろをした時計が目立つ。長針と短針がちょっと右下がりの直線になって、日付らしき数字を隠していた。

「食べないの?」

「あとでいただきます。お名前を伺えますか?」

「あははっ、これは済まない。アラタだ。新しいと書いてアラタ」

「ありがとうございます。アラタさん」

 アラタさんは丸いお煎餅みたいな洋菓子をつまんで、口に放り込んだ。

「よく来たね。アズサから連絡があったのかな?」

「いえ。約束の時間に来ないので何かあったと思って、会いにきました」

「あははっ、当たりだよ。何かあったんだ」

 缶を持ち上げてグッと飲む。アラタさんの微笑が笑顔に変わる。

「僕がアズサを外に出させなかった。今は部屋で拗ねてるよ」

「昨日のせいですか?」

「多少はあるね。血まみれで帰ってきて驚いたよ」

 ぼくは麦茶をもう一口、飲んだ。

「恋人だったら僕に会わせなさいと言ったんだよ。それができないようじゃ駄目だって」

 ぼくは口で息を吸い込んで、アラタさんの目を見た。

「アラタさん、アズサとぼくなら心配ありません」

 アラタさんは笑顔のままぼくを見返した。何を感じて、何を考えているのかはわからない。ただなんとなくぼくのほうは、アラタさんがお父さんなら心配ない、と思えた。

「あははっ、ナオ君のほうは心配なさそうだ」

「アラタさんも、心配なさそうです」

 言ってみた。

 アラタさんの笑顔が萎んで、微笑くらいで止まった。ちょっとだけ、目付きが険しくなる。

「いや済まない。これでも娘に信頼されている父親だと思ってたんだが」

 ぼくは黙ってアラタさんを見ていた。瞳が黒くて大きくて、綺麗に光ってる。いつか、アズサが産まれたときからの話を聴いてみたいと思った。

 アラタさんは砥粉色とのこいろの四角いお菓子をつまむと、また口に放り込んだ。もぐもぐしながら、同じものを指差してぼくにすすめる。

 ぼくもそれをつまんで口に押し込んでみた。アーモンドの味がうわあごの奥まで広がって、鼻の付け根の痛みが増す。五、六口かんだあと、麦茶をのんで流し込む。ソファの上にぼろぼろと、生地やアーモンドが落ちていた。唇をこすると、またぼろぼろとこぼれた。

 飲み込み終えると自然に笑みが出る。こぼれたお菓子は放ったらかしだ。アラタさんはぼくを眺めていた。険しさのあった目が緩んで、目尻の皺のまわりがぷくっと膨らんだ。

「ナオ君、こっちに越してきた理由、アズサはなんて言ってる?」

「ないしょです」

 アラタさんは笑った。

「母親と反りが合わなくなっちゃってね。二年前にちょっとあって」

「そうですか」

「長男も大学に上がって家に寄りつかなくなったし、まあ、こんな時期もあるだろう」

 父親っていうのは手探りでやっていくものなんだな、と思う。アラタさんでさえも。

 ぼくも手探りで、思い切って訊いてみた。

「ちょっとって、足のけがと関係ありますか?」

「ん? 聞いてたの?」

 アラタさんは意外そうな顔をした。ぼくは首を振る。足のけがなんて、アズサからは一度も聴いたことはなかった。

 アラタさんは手に持った缶を煽って飲み干すと、テーブルに置いた。

「アズサは小さい頃から乗馬をやってたんだけど、二年前に落馬して骨折してね」

 ぼくは頷いて相づちを打つ。

「母親は心底心配して辞めさせたんだけど、なかなかね。馬のこともあって」

「馬のこと?」

「長い付き合いだったけど、手放してしまったんだよ。あれは済まないことをした」

 馬とか乗馬のことはまったくわからない。アズサにとっては大きな事件だった、それだけ理解した。

 ぼくは人間同士の問題は、すぐにでも会えばいいじゃない、なんて考えてきたけど、そうじゃないことのほうが多いのかもしれない。ユキさんと暮らし続けるカホのことや、最近会ってないキミコのことを思い出した。

「……足、気付いてたんだ」

 アズサの声が後ろから聞こえた。絶対、聞き耳を立ててると思ってた。リビングの奥のドアが開いてて、向こう側にアズサが立っている。薄香色うすこういろの長いキュロットに、昨日とは違う白いシャツ。

「おーアズサ。ナオ君、なにかと悪いやつみたいだが、いい感じじゃないか!」

 アズサはばつが悪そうな顔でアラタさんの声に頷いたあと、病院行くよ、と言ってぼくのシャツの肩を引っ張った。

 振り返るとアラタさんは笑って言った。

「ナオ君、けがが直ったらめし食いに行こう。うまいもの教えてやる」

 ぼくは、ありがとうございます、よろしくお願いします、と言って席を立った。



 裏口の立体駐車場に出るまで、アズサは口を尖らせて黙っていた。物陰で立ち止まって、ようやくぼくのほうに身体を向ける。しけっぽい熱気が立ち込めてて、お風呂につかってるみたいだった。

 アズサは俯いてもぞもぞしながら、小さな声を出した。

「ナオありがと」

 ぼくは微笑みを返した。アズサはまだもぞもぞしてたけど、ふと目を上げて言った。

「足のこと、いつ気付いてたの?」

「初めて会ったとき」

「気付いてたんなら、なんで訊かなかったの?」

「隠したいみたいだったから」

 アズサは、ナオってこわいよね、とつぶやいて、まじまじとぼくの目を見上げた。目元がアラタさんに似てるんだ。そう気付いて、ぼくはうれしくなる。

 おもむろにアズサは目を伏せて右足を軽く開いた。キュロットをばっとたくし上げて右足のふとももの内側をぼくに見せてくれる。まったく日焼けしてない薄卵色うすたまごいろの肌に、十センチくらいの縫いあとがあった。これを見せたかったんだろう。

 きずあとは肌よりずっと淡い桜色で、ふともも全体を眺めると、きれいな斑入りの花びらみたいに見えた。しっとりとした花びらの一片ひとひら分だけ内側に、青磁色の静脈が堤防のない河みたいに幾筋も流れてるのが見えて、ぼくはぞくぞくしながら見とれてしまった。

「どう?」

「きれいな足。へんな気分になっちゃう」

「そうじゃなくて」

「うん。きずだよね? すじに沿って、なめてみたくなる」

「からかわないで」

「からかってないよ?」

 ぼくの目を見上げたアズサは、はっとしたような顔をした。すぐにばつの悪そうな顔に変わって俯く。ばーか。そう言いながらそそくさとキュロットを戻してまたぼくを睨み上げる。しばらくすると小鼻や唇の下をピクピクさせて、目に涙をたたえ始めた。

 アズサにとってはあんまり触れられたくないきずなのに、ぼくにとっては触れたくてたまらない。ぼくらは別々の人間だから、今は世界の見え方が、すっかりずれてるみたい。ぼくはこんなときにも心地いいもどかしさを覚える。つらい気持ちならたくさん分けて欲しい。ぞくぞくしちゃった気持ちをちょっと伝えてみたい。だからぼくは、アズサをぎゅっと抱きしめてみた。

 アズサは泣くのをこらえようとして、かえって小刻みに震え続けてる。ぼくらのシャツは、噴き出した汗でぐっしょりになった。暑さで頭がぼんやりしてきて、ずっとじんじんしていた鼻の付け根から痛みが消える。ミンミンゼミの声が、やっと聴こえ始めた気がした。

 アズサは鼻声を隠さずにしゃべりだす。

「きずのことは、わりとどうでもいいんだけど」

「うん」

 ロングキュロットにも、汗が滲んでいるのが見えた。

「ライネちゃん……馬がね、処分されちゃって」

「うん」

 アズサの震えが大きくなる。泣いてるんだ。

「お母さん悪くないってわかってるのに、どうしても許せなくて」

「うん」

 ぼくは抱きしめる腕に力を込めた。

 半年後のアズサはどう思ってるだろう。いいじゃない、今は許せなくたって。

 ぐっしょりになったぼくらのシャツが、ぴったりとくっつき始める。

 アズサは両腕をもぞもぞさせて、ぼくから離れようとするそぶりをみせた。ぼくがアズサから離れると、涙をこぼしたままの目でまた睨み上げてきた。

「約束、破ったよね? 手をつなぐのしか駄目なのに」

「うん」

 アズサの眉間が緩んで、アラタさん似の目元に戻る。

 ぼくの肩の後ろに左腕が伸びてきて、ぐっしょり濡れたシャツを、ぎゅっと握りしめた。

「今回は、これでおあいこにしてあげる」

 アズサの顔がぐっと近付いて、ぼくの鼻にある大きなガーゼを押し上げた。くちびるが重なるとき、悲鳴が出そうなくらい鋭い痛みが走ったけど、ぼくは黙ってこらえる。思わずつぶった両目の端から、涙がにじみ出た。

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