第19話「自転車(四)」矢沢陸人(七月)

『4時に公園でどうですか?』

 祇園祭の翌日。飯島からの返事は午後三時過ぎに届いた。

 俺はすかさず了解、と返信する。待ち焦がれていたことがバレるのなんて、気にもならなかった。

 ここ三週間、俺はメールを送り続けていた。ナオの写真は付けていない。飯島からの返信はいつも時間がかかったけれど、必ず戻ってきていた。



 昨晩ナオが殴られてから、バタバタしている。

——松高の立石直っていう男が飯島を遊んで捨てて、すぐに女を乗り換えた。

 三中出身者の一部ではそんな話になっていて、俺の耳にも届いていた。ナオを殴ったのは丘高のマサだった。マサにとっては、あれは正義の鉄槌のつもりだった。

 祇園祭では、飯島は俺と同じ新田しんでん自治会で女神輿を担いでいる。その時はちょうど、横町よこまちの交差点の手前で休憩をしていた。

 ナオがっ! 飯島が俺に一声だけ告げて駆け出していく。俺もすぐに飯島を追った。人混みの中、先を行く飯島を何度か呼んだけれど、振り返ってはくれない。それでも俺は、ナオのもとに駆けつける前に声をかけてくれたことが、嬉しくてたまらなかった。

 今朝は緑ヶ丘まで行ってマサに会ってきた。マサはナオと同じで、直接会った方が話が早い。電話には気が向いたときにしか出ないし、メールもほとんど読んじゃいない。

 マサとは少しだけ話が出来た。もう、ナオを襲うことはない。

 緑ヶ丘から戻るとナオを探した。家へ行って、その後アテもないまま自転車で走り回ったけれど、ナオを見つけることは出来なかった。

 昼前には飯島にメールを送った。

『今日少し話し出来ますか?』

 ナオのことで、とは書かなかったけれど、俺はナオについて話をするつもりだった。



 午後四時近くになって家を出た。

 殴られたばかりのナオには済まないけれど、いろいろすっきりさせるなら今日だ。俺はまず俺自身のために、それから飯島やナオや藤井のために、そう決心していた。

 さっきまでに比べて陽射しが和らいでいる。空は晴れていて、太郎山の緑色の稜線がやけにくっきりしている。俺は自転車に跨ってペダルを踏む。飯島の屋敷の近く、新田しんでん公園までの下り道は二分とかからない。

 少しだけ飯島を待つ。小さな谷にも見える黄金沢川こがねざわがわの護岸の底を、太郎山から流れ出た水が勢い良く駆け下りていく。桜の並木が、川に覆い被さるように緑の枝を広げている。

 飯島が小さく手を振った。タンクトップにひだの深いスカート、暑いのに薄いカーディガンを羽織っている。昨晩見た、サラシに半纏、半股引はんだこ姿にも目を奪われたけれど、ふんわりしている方がやっぱり飯島には似合う。

 日陰のベンチに、飯島と俺は座った。昨晩とは打って変わって、明るい雰囲気さえあった。

「あついねー」

 飯島は手で仰ぐ仕草をする。急いで団扇を取ってきて飯島を扇ぎ続けていたい、と、俺は本気で思う。

「ナオ」「ナオ」

 声が、言葉まで重なった。俺は苦笑して先を譲る。

「ナオの怪我、そんなにひどくなかったってっ! キミがナオのお母さんに聞いてくれて」

「そうか。良かった」

「ほんと、よかったー」

 飯島は心から嬉しそうに言う。俺もナオの家に行きはしたけれど、誰も出て来なかった。土屋のことだから、ナオの家のチャイムをまた連打したに違いない。

「俺、マサと話をしてきた」

 飯島は途端に顔を曇らせた。仕方ない。飯島はマサの暴行の理由を知らない。

「マサはもう、ナオにあんなことはしない」

「だからなにっ! ひどいよ小山田くん。ヒトミのことだってすごい泣かして」

 ヒトミ? 昨晩泣いていた望月のことだろうか? 成績優秀な望月が松高を選ばなかったのはマサを追いかけるため、そんな噂もあったことを思い出す。

 マサへの怒りを解いておきたいけれど、感情的になっている飯島には、どんな言葉を尽くしたって通じないような気がする。

「マサ、自治会で夜中まで搾られて、親父にもボコボコに殴られて、今日は家で凹んでたよ」

 せめて望月には知らせて欲しい。マサは今まで見たことも無いくらいに落ち込んでて、誰かに甘えたい気持ちもありそうだった。望月にとってはチャンスだ。狡い考え方だけれど、俺はもう、こんな考えが浮かんでしまう自分を否定も卑下もしない。

「知らないよ! あんなやつ」

 苦笑して諦めるしかなかった。飯島の前髪の間から覗く白い額に、汗が滲んできたのが見えた。

 そろそろ、本題に入ろう。

「なあ飯島、ナオと会って話をしないか」

 俺は飯島の答えを待った。桜並木からミンミンゼミの声が聞こえる。三週間前、この公園で見た曇り空が、今日は青く晴れわたっている。

 風が吹き抜けた。生暖かい風だったけれど、飯島の汗ばんだ額を少し冷ましてくれた気がした。

「わたしも今日、そう考えてた」

 飯島は真顔で言った。

「ナオが連れてかれたって聞いて、しぬほど心配になって」

 俺は黙って頷く。

「ナオが見えた瞬間に、ぜったい助けなきゃって思って」

 昨夜の必死な飯島を思い出す。 

「ケガしてるナオ見たら、カノジョ突き飛ばしてナオ抱きしめてて」

 そう。マサが落ち込んでいた理由は、叱られたせいだけじゃない。

「ナオと、ちゃんと話したいなって思う」

「ああ」

「でもね、ナオにはいろいろ怒ってんだよね。わたし」

 無理もない。飯島と俺が、二人して赤ん坊みたいに泣き叫んだ日を思い出す。

「じゃあ、まず、怒りをぶちまけるか」

「ちがうよ?」

 違う? 飯島はきっぱりと言った。

「叱るんだよ。わたし、おねえちゃんだから」

 言ってから飯島は笑った。無理矢理作った笑顔だったけれど、後戻りなんてしない、そんな決心が見えた気がした。額の汗は乾いていて、淡い茶色の前髪がふわりとそよいだ。



「自転車だよね? ちょっと待ってて」

 俺は飯島の屋敷の前で待った。

 三週間前ずぶ濡れの気持ちで立ち尽くした門の向こうで、卵の殻の色をした自転車も飯島を待っている。いつも通りの位置、いつも通りの向き。泥除けも丘高のステッカーも汚れっぱなしで、俺はむしろほっとする。人間臭くて、なりふり構わず生きている飯島にいかにも似合っている。

 ナオとは良く散歩をしていたようだけれど、俺は飯島と自転車で並んで走り回れたら嬉しいと思う。ナオの家に通った思い出も含めて全部、この大きなラタンバスケットに入れたままでも構わない。

 飯島が戻ってきた。白い長袖の大きめのシャツに、袴みたいなスカートを履いていた。胸元のボタンの隙間に目が行ってしまう。俺は心の中の下劣な俺に、伏せ、と命じて目を逸らす。

「わたし、へんなのかなぁ」

 どきっとした。卵の殻の色をした自転車を引っ張りながら飯島は言う。

「どうした?」

「おとうとのカノジョに、ヤキモチ妬いちゃうんだよね」

 俺は慌てて応える。

「変じゃない」

「そ? よかった」

 わたしあくびしちゃった、くらいの気軽さで、自分のヤキモチを認めて赦す。そんな飯島がふわりと笑う。俺は心から思う。一生、この片思いが続いたって構わない。

「矢沢くん、先行くね」

 飯島は走り出した。淡い茶色の髪がサラサラなびく。うなじが見え隠れして、裾を出したシャツが膨らんではためく。俺は飯島の姿に釘付けになって、視界が極端に狭くなる。

「居場所、分かるのか?」

 飯島は振り向かないで大きな声で言う。明るい声だった。

「図書館! ナオは、暑い日はすずしいとこにいる」

 五、六分の距離を、飯島は十分くらいかけて走る。俺は時々横に並んで、涼しげに自転車を漕ぐ飯島を眺めた。髪もシャツもスカートの裾もふわふわ揺れて、眺め回す俺に気が付くたびに、ん? と微笑んで首を傾げた。

 材木町ざいもくちょうの図書館に着いた。見てくる、と告げて俺が駆け出すと、後ろから声がした。

「いるとしたら二階、読書室っ」

 俺は手を上げて応えたけれど、そこにはナオはいなかった。戻ると飯島は自転車に跨ったまま、涼しげに微笑んでいる。

「じゃ、つぎ」

 俺は急いで追いかける。生身の飯島は、かつて俺の心の中にいた飯島より、はるかに行動的で、強引で、マイペースな人間みたいだ。そんな飯島に振り回されていることが、俺は嬉しくてたまらない。

 飯島はそよ風のようなスピードで走った。俺はすぐに追いついて、車通りの少ない道は並んで走った。顔が見える。声が届く。飯島の横を流れていく雲も山も街も見える。

「さっきんとこ、絵本室もあるんだよ」

「済まない。見てこなかった」

「だいじょうぶ。ナオはいないよ。絵本はわたしが好きなんだから」

 飯島とナオ。たった二ヶ月、週末だけの付き合いだったはずなのに、一体どれほど分かり合えていたのだろう。飯島に片思いをしていた二年三ヵ月が泡のように消えていく。会って一緒に歩くこと、ちゃんと話すこと、ちゃんと見ていること。俺は飯島とナオに、何か大切なことを諭されているような気がした。

「そういえばね、ナオん家にあった絵本とか図鑑、ぜんぶ持ってたやつで驚いたんだけど」

「ああ」

「あれぜんぶ、わたしのお下がりだったんだよね」

「そうか」

 飯島はくすくす笑う。睫毛まつげの一本一本が揺れるところまで、俺には見えた。飯島のスピードに合わせると、二人で散歩をしているみたいだった。



 上田駅前のビル、パレオに着いた。ここにも図書館がある。今度は確信があるのか、飯島は自転車から降りて鍵をかける。唇を引き結んで、表情が変わった。

 ナオはすぐに見つかった。藤井が隣にいて、額を寄せて同じ本を眺めている。写真集だろうか。ナオの鼻は、大きなガーゼに隠れていた。

 三週間前、藤井は呆れた顔でナオの告白を受け入れた。手を繋ぐまでなら。そんな約束をしていたはずだったけれど、もっと距離が近付いたように見える。どうせナオのことだから、藤井とも一緒に歩いて、ちゃんと話して、ちゃんと見てきたのだろう。

 飯島がナオに近付いていく。二、三歩の距離で立ち止まり、見下みくだすような顔で藤井を一瞥した。藤井は歓迎するような笑顔を浮かべて飯島を見上げたけれど、視線を飯島の足元までゆっくり降ろすうち、不機嫌そうな顔に変わっていった。

「ナオ。ちょっと話、しよ?」

「うん」

 ナオはひょこっと立ち上がると、藤井を見下ろして、来る? と首を傾げた。藤井は座ったまま、イヤイヤ、とでも言っているみたいに首を振った。

「じゃあ、待っててね」

 藤井は頷くこともないまま、立ち去るナオを見ている。唇を噛みしめているようにも見えた。

 飯島とナオはビルの裏手に出た。気を利かすつもりもない俺はのこのこ付いていく。源兵衛坂げんべえざかと呼ばれる古道の入り口が見える。陽射しはビルに遮られて、長方形の青空が見えた。

 すぅ、飯島が息を吸う音が聞こえた気がした。

「今日は、ナオを、叱りにきた」

「うん」

 背の低い柵の扉を抜けて、ナオが源兵衛坂を上り始めた。飯島が後ろから声をかける。俺は飯島に続いた。

「ナオ、わたしを子どもあつかいしたでしょ?」

「してないよ」

「うそ。全部かくそうとした。ナオときょうだいだってことも、ほんとのお父さんのことも」

 本当のお父さん? 俺は立ち止まってしまった。日陰になった石段の端に、オシロイバナが揺れているのが見えた。俺は我に返る。飯島に付いていくためにまた歩き出した。

「やっぱり聞いたんだ。キミコから?」

 今度は飯島が立ち止まった。スカートの裾が揺れる。

 ナオが振り返って、飯島の答えを待つ。

「そうだけど、ちがうよ」

 ナオは再び上りだす。ビル影が途切れて、ナオの影が現れた。

「なんとなく気付いてたもん。パパはほんとのお父さんじゃないかもって」

 ナオは黙って石段を上っていく。人の話を聞く時に、うん、とも、そっか、とも言わないナオを、俺は初めて見た。上り終えて、ようやく口を開く。

「いつ?」

「なんとなく。ちいさい頃から」

「なんとなく?」

「ちいさい頃、おとうと欲しいってわがまま言ったあとのパパとママの感じとか」

 古道を抜けて、飯島はナオに並んだ。俺は一瞬、もうここで待っていようかと迷った。俺は心の中の下劣な俺に、どうする? と訊く。付いていこう。俺は飯島の話を、ほんの一言だって聞き逃したくない。

「お祭りや、街に出るのをすごく避けてるところとか」

「うん」

「パパ優しすぎて、ほんとは何考えてるかわかんないくらい、優しいところとか」

「うん」

 ナオは歩きながら、飯島の方を向いた。いつものとぼけた顔じゃない。もっと何か想いのこもった、慈しむような顔をしている。

「おじいちゃんからもらったものを、なんとなく嫌がってることとか。……本なんかぜんぶ、置きっぱにしてたし」

「うん」

 俺はようやく、飯島とナオが、ほんの少しのぎこちなさもなく、同じ歩幅で、同じ速さで歩いていることに気付いた。

「ナオは、パパに聞いたの?」

「ユキさんは何も言ってないよ。ぼくらがきょうだいだってことも、お父さんのことも、それから嘘も」

「じゃあ、だれに聞いたの? ナオのお母さん? おじいちゃん?」

「ちがうよ。母さんもヒコさんも言わない」

「じゃあ、だれ」

「誰も言ってないよ。なんとなく気付いちゃっただけ」

「ほんとに?」

「ほんと。まぁ、いいじゃない」

 飯島は立ち止まった。ナオも飯島の方を向いて立ち止まる。斜め向こうに伸びる二つの影が、俺にはそっくりに見えた。

 ナオの左手首を強引に掴んで、飯島はまた歩き始めた。鷹匠町たかじょうまちの通りにぶつかるころには、二人は手を繋いでいた。ナオが斜め右を指差して、あれケージん家、と言う。飯島が黒崎の家を知らなかったことが、俺には意外に思えた。

 戻ろっか、ナオはそう言って俺の方に向き直って歩き出そうとする。ふと、ナオは左腕を引っ張られてよろけた。

「もういっこ、叱んなきゃいけないことがあるんだけど」

「なに?」

「昔のこと、ごまかしてたでしょ?」

「ごまかしてないよ」

 二人は歩き出して、俺の脇を過ぎようとする。

「ナオ、小学校の時に告白したって言ったよね?」

「うん」

「なんて言って告白したの?」

「付き合って欲しい、って」

 飯島はナオの手を引いたまま、ひと睨みする。

「だれに告白したの?」

 ほとんど間はなかったはずだけど、風が吹き抜けたような気がした。

「キミコ」

 飯島はまた、ナオを睨んだ。呆れているようにも、笑っているようにも見えた。

「なんでそう言わなかったの?」

「昔のこと、だから」

「そ?」

「まぁ、いいじゃない」

 少しも叱ってるようには見えないやり取りだったけれど、飯島は満足げだった。俺は思う。飯島が次に好きになる男は、寡黙で誠実で、ごまかし方も知らないくらい不器用な男であって欲しい。

 立ち止まっていた俺は、自分の歩幅で歩き出す。すぐに二人に追いついて、Mの字になったきょうだいの影を踏ん付けた。繋いでいた手が解けて、飯島が振り返る。小さな声で、矢沢くんいてくれてありがと、と言ってくれた。

 石段を下りながら先頭を歩くナオが言う。明るくて、ちょっととぼけた声だった。

夏穂かほとリックにお願いがある」

「なに?」

「お互い、名前で呼んで欲しい。カホとリック。苗字だとピンとこなくて」

 お節介焼きだなナオ。今はこれでいいんだ。俺は自分の歩幅で歩いて、いつかカホとナオの隣に追いついてみせるから。



「おかえり」

 パレオの図書館に戻ると、藤井は明るい様子に戻っていた。さっきとは違う写真集を開いている。ようやく俺は気が付いた。大きめのシャツと袴みたいなスカートは、藤井のトレードマークだった。

「ちゃんと話、できたみたいだね」

「うん。ありがとアズサ」

 明るく話す藤井の頭にナオは手を伸ばして、髪をくしゃくしゃと撫でた。

 だー、と小さく叫んで藤井はナオの手を振り払う。照れているようにみえた。

「なんか、恥ずかし」

 俺の隣でカホがぽつりと呟いた。ナオと藤井がカホを見る。

「いやー、わたし、カノジョさんにヤキモチ妬いちゃってて。おねえちゃんなのに」

 ぶっ、と藤井が吹き出した。唾まで飛びそうな勢いだった。

「ぼくもヤキモチ妬きだよ」

 ナオがとぼけた顔のまま言う。俺も慌てて言った。

「俺も」

 藤井は途端にむくれた顔になって口を突きだした。カホとナオが藤井を見下ろす。

「……私は、妬かないよ!」

 カホは苦笑いを浮かべた横で、ナオはもう一度、藤井の髪をくしゃくしゃと撫でて笑った。閉館が近づいた図書館は静まり返っていて、西日が深く窓から差し込み始めていた。

「行こっか」

 カホは俺に向かって言った。当たり前のような口調だったけれど、俺は嬉しくて涙が出そうになる。心の中の下劣な俺が、ちぎれそうなほど尻尾を振っていた。

「ああ」

「じゃあ、ぼくらも」

「先行くね。裏に自転車停めてるから」

「うん」

 ちょっとうつむきながらカホと俺は歩いた。

 カホは呟くように話す。愛おしそうな、もうひと踏ん張りでおねえちゃんになれそうな声だった。

「ナオ、受け身なんだよね。食べ物とか本とか音楽とか。何にも欲しがらないっていうか」

「そうか」

「食べ物くらいあるよね? ふつう」

「ああ。どんな食べ物が好きなんだ?」

「なんか、好みとかないみたいで」

 噛み合ない会話に、俺は苦笑した。聞きたかったのは、ナオの好みじゃない。

「飯島は、なにが好みなんだ?」

「え、わたし? 甘いものならなんでも! あと、やさいと肉と、魚も好きかなぁ。パンと麺類。ごはんも好きだけど」

 それって。

「食べ物全部?」

「ん? 嫌いなものだってあるよ? 味じゃなくて、ことばが嫌いっていうか」

「そうか」

 カホが嫌いな食べ物は何? 俺ももうひと踏ん張りで、カホに向かってちゃんと話せるようになれそうだ。

「そういえばね、おじいちゃん家いくといつも富士アイス食べてた。なんかあれおいしくってさー」

 今度、一緒に行こう。もうひと踏ん張りだ。

「今度」「こんど」

 声と言葉が重なった。これだけは、俺は先には譲れない。

「今度、一緒に行こう。富士アイス」

「うん、行こ!」

 視界の先に、卵の殻の色をした自転車と、青いTREK FXが並んでいるのが見えた。



 自転車を引いて真田坂さなだざかに出た。ナオと藤井も後ろにいる。俺は目を細めて太郎山を眺める。カホと俺の家がある新田まで、ずっと上り坂が続いている。海野町うんのまち辺りまでは勾配が強めで、その先は今は見えない。

 振り返るとカホは自転車を支えたまま立っていた。ナオと藤井を眺めているようだけれど、逆光で表情が見えない。斜め後ろから注ぐ黄金色こがねいろの陽射しが、淡い茶色の髪と、卵の殻の色をした自転車を溶かし始めて、俺はカホが消えてしまうんじゃないかと錯覚しそうになった。

 カホは頷くように顔を下に向け、それから空を仰いだ。夕陽に溶けていた髪が黄金おうごんの羽根みたいにふんわりと浮いて、カホの身体に戻っていく。

 羽根を全部取り戻し終えた頃、カホは似合わないくらいの逞しさで自転車を持ち上げて、ザッ、と音を立てて俺の方を向いた。カホの輪郭がはっきり見える。よかった。カホはやっぱり天使なんかじゃなかった。目の前に続く上り坂を、汗をかきながら上り続ける、ただの人間だった。

「じゃ、また」

 カホは自転車に跨りながらナオと藤井に右手を上げて、すぐに自転車を漕ぎ出した。俺の横を通り過ぎる時、ペダルに力を込めながらカホは言った。

「リック、先行くね」

 俺も慌ててナオと藤井に手を振って、真田坂さなだざかを力いっぱい上り始めた。

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