第17話「祇園祭」立石直(七月)前編
「よーいと、よいとー」
「よーいと、よいとー」
お神輿が
熱狂しすぎてふらふらしてたお神輿が、ゆっくり滑る船みたいに粛然とした動きを取り戻す。肩にかかった重みがぐっと増す。中学からお神輿を担ぎ始めたぼくは、いつもこの瞬間を楽しみにしてる。
七月半ばの上田祇園祭。朝から晴天だった。七時を過ぎて暗くなった今も、暑さと祭りの熱気で汗が止まんない。
ぼくはお神輿の前、左の
ノブを呼んでくれたのはアズサだ。若者の担ぎ手は多いほど喜ばれる。みんなが楽になるからだ。ノブが住んでる下之郷は昔は別の村で、お祭りの内容も日程も違う。班活のあとなら、ということで、ケンも連れて駆けつけてきてくれた。
キミコは
ちょっと進んだところで、御幣持ちが
この辺りから休憩が増えてくる。中央交差点がお祭りの見せ場になってて、ぜんぶで八十旗くらいのお神輿が、そこを通るために順番待ちをするからだ。
ぼくらは給水車のクーラーボックスからアクエリアスを抜き取って、ぷしゃっと開けてのどに流し込む。
「うあーきっつーマジきっつーガチきっつー」
ケンは
「さっきまでぜんぜんギャラリーいなかったじゃん!」
「
ぼくが言うと、ケンはいっそうムッとした顔をする。
「神輿かつぐなんて急に決まったから、マリーに声かけらんなかったじゃん!」
「わりぃな、ケン」
「えっ? あ、ノブ君は悪くないよ? ナオが悪い!」
「電話すればいいじゃない?」
「え? そっか。ナオ、グッジョブ!」
ケンはぼくに親指を立ててみせて、腹掛けからスマホを取り出す。すごい勢いで指を動かし始めた。しゃべるわけじゃないみたい。
「タカもどっかで写真撮ってるはずだ」
「うん」
さっき見かけた。タカはぼくらの自然な表情を撮りたいらしくて、気付かれないようにしてるみたい。
「アズサは、観に来てるのか?」
「うん。
ノブの顔が陰った。
「わりぃ。白井の件、もう少し時間くれ」
「うん」
ノブなら約束を守ってくれる。心配いらない。
「実はな、俺、女と二人で出歩いたことねえんだ。言い訳じゃねえけど」
「じゃあ、初デートだ」
「よけいな緊張させんじゃねえ」
「えっノブ君、マジすかそれ!?」
ケンがスマホの上で指を動かしながら驚いてる。
「ん? ああ」
ケンの顔が、なんだか得意げになった。鼻の穴が広がってわかりやすい。きっと、マリと着実にイベントってやつをこなしてるんだ。ぼくまでうれしくなってくる。
「女三人とかなら、あんだけどな」
負け惜しみというわけでもない感じでノブは言う。顔をしかめてて、もっと複雑そうだ。
「えっノブ君、ハーレムじゃないっすかそれ!?」
「ん? ちげーよ」
ぼくらはもう一本、新しいアクエリアスを引っつかんで、真上に持ち上げて一気に飲み干した。
♦
ケンは、わっしょい! と叫びながらもきょろきょろ周りを見てる。歩道にアズサがいた。小さな身体だけど、真っ白なブラウスと素色のロングキュロット、それからどこかお嬢様っぽい雰囲気が、周りからアズサを浮かび上がらせてる。
アズサもぼくを見つけてくれたみたい。ぼくは振り向いてノブに知らせたけど、お神輿に隠れて見えないらしく、軽く睨まれただけだった。
わっしょい! わっしょい! ぼくの声もつい大きくなる。二、三十メートル進んでまた、
反対車線のお神輿も休憩してる。ケンはさっさと
アズサはノブに手を振ったあと、ぼくに向き直った。顔ぜんぶでうれしそうに笑ってる。ぼくもうれしくてたまらなくなる。
「どう? お祭り」
「なかなか迫力あるねー」
「いろんなお神輿があるでしょ?」
「酒樽の神輿とか、女の子ばっかりのもあるんだね」
「やってみたい?」
「それはちょっと、難しいかな?」
ぼくはロングキュロットに目を落とす。
「立石っ!」
後ろからぼくの名前を叫ぶ声が聞こえて振り向いた。
「お前だよな? 飯島のモトカレ」
ぼくは頷く。カホに関わる一切の問題は受け止めるつもりだった。アズサの表情が強張ったのがわかった。
「ちょっと来い!」
強い力で腕を引っ張られる。ぼくはアズサに、まっててね、と告げて、引きずられながらついていく。アズサは子供みたいに首を振ったけど、その場に留まっていてくれた。
駐車場に向かう暗い路地のちょっと奥に入る。おめえ、と
殴られる! おしっこちびらないようにしなきゃ!
ぼくは覚悟した。ケンカのために拳を握りしめたことなんて一回もなかったし、今日はケンカをする理由もない。せめて歯を食いしばろうとした。
ごっ、ごんっ! 覚悟してたよりずっと速くて重いパンチが右の頬骨に二回、当たった。頭がぐわんと痛んで視界がぶれる。マサは襟をつかんだ手を離して、ずん、ずん! と右のお腹を殴りつける。ぼくはもう足がよろけ始めた。
女の子の影が見えた。スマホを手に持ってるのか、光が曲線を描く。
ごぐっ! 今度はもっと強い力で、顔の左側から殴られた。ぼくは半回転して吹っ飛んで、固い地面にひじを打って倒れた。痛い、痛いっ!
「マサーっ」「マサ!」
女の子の叫び声の後ろから、ノブの声が聞こえた。
もうひとつ、小さな足音が駆け寄ってきた。ひざ立ちになってぼくを抱え上げようとしてくれる。細い腕、肌触りのいい布地。きっとアズサだ。ぼくは頭が痛くって、身を任せた。薄く目を開けると、アズサの真っ白なブラウスに黒い模様が広がっていくのが見えた。ぼくの鼻から血が吹き出してて、口からは血が混じったよだれが垂れていた。
やめろっ! はなせっ! 後ろから、もみ合ってるような音がする。女の子の泣く声も聞こえる。ノブが来てくれてる。これ以上、殴られることはない。
こんな時なのにぼくは、アズサの匂いをかぎたくなった。思い切って鼻から息を吸うと、こめかみに激痛が走って涙が出た。鼻血を吸い込んで思い切りむせて、アズサのブラウスに血の固まりと泡立った唾が飛び散った。
ぼくはアズサの顔を見たくて首をあげようとする。頭の中もこめかみも頬も痛くて動かせない。アズサは力んで腕やひざを震わせながら、ぼくを必死に抱え上げてくれている。
「ナオッ!」
声が響いた。カホだ。足音が大きくなって、アズサとぼくの間にむき出しの腕が割り込んだ。ぼくを乗せて自転車で走ってくれたときみたいな逞しさで、ぼくを抱きかかえる。アズサは突き飛ばされたのか、後ろ手をついて倒れた。
「なにすんのっ! オヤマダくん!」
カホはぼくと別れた日みたいな、怒りに満ちた尖った声で叫ぶ。
「ナオにこんなことして、ぜったい許さないっ!」
オヤマダくんを激しく責めながら、カホはぼくの頭を抱きかかえて座り込んだ。ぼくの顔を、
カホは自分の豆絞りを、ぼくの鼻にそっとあててくれる。鼻が利かないはずなのに、カホの汗の匂いを感じた気がした。
「ナオ」
カホの背後からアズサの声がした。カホの太ももにぐっと力が入るのがわかる。オヤマダくんは静かになったみたい。ひざまくらのまま首を動かすと、そこにはリックもケンもいた。ノブはリックにオヤマダくんを預けて、ぼくに近付いてきた。
「ナオ、立てるか? 本部行って手当てするぞ」
ぼくの頭を抱いてたカホの左腕が一度、ぎゅっと締めつけられて、しばらくして緩んだ。ノブはそのひと呼吸を待って、ぼくの左脇から腕を差し入れる。カホの右手にぼくの手を重ねて、豆絞りを受け取る。次の瞬間には、ぼくはノブに抱え上げられていた。
「ケン、右」
ケンは腰砕けになってたけど、ぼくをなんとか支えてくれた。
ぼくは口から息を吸い込んで言おうとした。アズサ、来て!
「あぐふぁ、ひへ」
どうしようもなく情けない声しか出なかった。布が擦れる音がして、ぼくの背中に小さな手が添えられた。ぼくは振り返らずに、そのまま四人で路地を出る。ヒトミが立ち尽くして泣いていた。さっきまでひざまくらをしてくれていたカホを、ぼくは置き去りにした。
♦
「さっきの、ヒトミさんと飯島さんだよねっ!?」
ケンは興奮してるのか、わかり切ったことを確認してきたけど、それをきっかけにノブも口を開いた。
「やったのは俺の仲間だ。けがの具合次第だが、あとはリックに任せろ。もうこんなことはさせねえ。……ナオ、恨むな」
ぼくは頷いた。半纏の背中が、アズサの小さな手でぎゅっと握りしめられる。
「すげー修羅場だったよねー」「ケン!」
人ごみの中をゆっくり歩いた。血だらけのぼくに気付いた人は、道を空けてくれた。
車道から、わっしょい! わっしょい! と賑やかな掛け声が聞こえる。
じんじん痛む頭で、ぼくはヒコさんの言葉を思い出す。——若い奴等の担ぎ方が気になって仕方がない。やっぱり、ぼくはまだまだ子供だった。ノブたちが助けに入らなかったら、ぼくはどうなってたんだろう。でも同時に、ぼく自身がやらかしてきたことの重さを想う。ちょうど良かった、これでいいじゃない。
本部テントで手当てをしてもらっているうちに鼻血は止まった。鼻の付け根が腫れ上がってて、大きなガーゼを貼ってもらう。こめかみがまだじんじんしてる。頭の中とお腹の重い痛みはだいぶ引いて、ぼくはなんとか歩けるようになった。
頭、本当に打ってないんだね? 鼻の骨も心配だから、明日、病院に検査に行きなさい。あと、今日はもう帰って休みなさい。そう言われた。ぼくは三回、頷いただけだった。
ぼくらは来た道を引き返した。アズサのマンションの前で立ち止まる。
アズサのブラウスは、ぼくの血で
「私が、ナオを送る」
アズサの声は毅然としていた。一瞬の間ができる。
「……じゃあお神輿に戻るわ。体調わりぃと思ったらすぐに救急車呼べ。いいな?」
ノブはぼくの顔を見てそう言うと、ケン行くぞ、と声をかけて立ち去っていく。ノブは右手を上げて、ケンは左手の親指を立てていた。
アズサは唇を引き結んでて、何も言わずにぼくの手を引いてくれた。こめかみは相変わらずじんじんしてて、ぼくはその度にアズサの手を強く握ったけど、返事はなかった。
「ありがとう」
アズサは立ち止まってぼくをじっと見る。いつもの笑顔なんてどこにもない。ただ唇を引き結んで、怒ってるのか悲しんでるのか、心配してるのかもわからない顔だった。
もう一度、痛みをこらえて笑って言ってみた。
「ありがとう!」
「……ごめんって言われたら、許さないつもりだった」
アズサはほっとした表情になった。ぼくは胸がとくんとした。ごめん、なんて今まで一回しか言ったことないし、今はそんなことを言う理由もない。腹掛けのかくしに入れたカホの豆絞りが、生き物みたいにもぞもぞ動いた。
「どうしていいかわかんなかった。いろいろ」
歩き出しながら言う。いつもの足早なアズサに戻ってる。小さな身体なのにカホよりずっと速くて、キミコと変わらないくらい。
「ぼくはうれしかった。アズサがいてくれて」
もう一度、手を強く握ってみた。アズサの足取りがちょっと乱れた。
「そういえば、私から約束破っちゃった」
「約束?」
ぼくはとぼけてみた。
「覚えてないの? 手をつなぐまで、って約束。やっぱナオ最低だね」
「抱きしめられて、忘れちゃったみたい」
言ってみた。
「ちょ」
アズサが照れてる。ぼくにはわかる。
「ん?」
「超法規的措置でしょ。人助け」
「うん」
またアズサは黙ってしまったけど、引き結んでた唇がゆるゆるにほどけてるのが見えた。
アパートの外階段の下まで来て、アズサはきっちり立ち止まった。
「明日、病院行くよ。九時に迎えに行くから。あと、寝付けなかったら電話して」
「うん」
階段の一段目にのぼって、ぼくはアズサを見送った。いつもよりもっと足早に、アズサは帰っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます