第17話「祇園祭」立石直(七月)前編

「よーいと、よいとー」

「よーいと、よいとー」

 お神輿が袋町ふくろまち蛭沢川ひるさわがわ沿いの細道にさしかかると、わっしょい、わっしょい、と賑やかだった掛け声が一変する。

 熱狂しすぎてふらふらしてたお神輿が、ゆっくり滑る船みたいに粛然とした動きを取り戻す。肩にかかった重みがぐっと増す。中学からお神輿を担ぎ始めたぼくは、いつもこの瞬間を楽しみにしてる。

 七月半ばの上田祇園祭。朝から晴天だった。七時を過ぎて暗くなった今も、暑さと祭りの熱気で汗が止まんない。

 ぼくはお神輿の前、左の花棒はなぼうの一番奥にいて、隣の花棒はなぼうにはケンがいる。ノブは、ぼくの後ろで横棒を支えてる。周りに比べて背が高すぎるから、かなり辛いんじゃないかな。振り向くと、ぼくの表情が気に食わないのか、軽く睨みつけてきた。

 ノブを呼んでくれたのはアズサだ。若者の担ぎ手は多いほど喜ばれる。みんなが楽になるからだ。ノブが住んでる下之郷は昔は別の村で、お祭りの内容も日程も違う。班活のあとなら、ということで、ケンも連れて駆けつけてきてくれた。

 キミコは大手おおてで、自分のとこの社務所に詰めてる。ケージは鷹匠町たかじょうまち、テツは城下しろしたのお神輿を担いでると思う。リックは新田しんでんで、カホの女神輿も一緒に出てるはずだ。みんなが街の中心に集まって練り歩く。ぼくは神様を信じないけど、街にとってお祭りは必要不可欠だと思ってる。

 袋町ふくろまちを抜けて横町よこまちの通りに出た。リーダー役の柝頭きがしらが、かっかっと拍子木を打つと、にぎやかな掛け声に戻る。わっしょい! わっしょい! お神輿にも勢いが戻る。

 ちょっと進んだところで、御幣持ちが御幣おんべを横にして掲げ、お神輿は渡御とぎょをとめた。柝頭きがしらが先頭に立って、三三七拍子でこの場を締める。休憩だ。

 この辺りから休憩が増えてくる。中央交差点がお祭りの見せ場になってて、ぜんぶで八十旗くらいのお神輿が、そこを通るために順番待ちをするからだ。

 ぼくらは給水車のクーラーボックスからアクエリアスを抜き取って、ぷしゃっと開けてのどに流し込む。

「うあーきっつーマジきっつーガチきっつー」

 ケンは渡御とぎょを始めてからずっとこんな調子。文句ばかりだけどあんがい楽しそう。

「さっきまでぜんぜんギャラリーいなかったじゃん!」

海野町うんのまち行けば一杯いるよ。マリいるといいね」

 ぼくが言うと、ケンはいっそうムッとした顔をする。

「神輿かつぐなんて急に決まったから、マリーに声かけらんなかったじゃん!」

「わりぃな、ケン」

「えっ? あ、ノブ君は悪くないよ? ナオが悪い!」

「電話すればいいじゃない?」

「え? そっか。ナオ、グッジョブ!」

 ケンはぼくに親指を立ててみせて、腹掛けからスマホを取り出す。すごい勢いで指を動かし始めた。しゃべるわけじゃないみたい。

「タカもどっかで写真撮ってるはずだ」

「うん」

 さっき見かけた。タカはぼくらの自然な表情を撮りたいらしくて、気付かれないようにしてるみたい。

「アズサは、観に来てるのか?」

「うん。海野町うんのまちでひとりで待ってるって」

 ノブの顔が陰った。

「わりぃ。白井の件、もう少し時間くれ」

「うん」

 ノブなら約束を守ってくれる。心配いらない。

「実はな、俺、女と二人で出歩いたことねえんだ。言い訳じゃねえけど」

「じゃあ、初デートだ」

「よけいな緊張させんじゃねえ」

「えっノブ君、マジすかそれ!?」

 ケンがスマホの上で指を動かしながら驚いてる。

「ん? ああ」

 ケンの顔が、なんだか得意げになった。鼻の穴が広がってわかりやすい。きっと、マリと着実にイベントってやつをこなしてるんだ。ぼくまでうれしくなってくる。

「女三人とかなら、あんだけどな」

 負け惜しみというわけでもない感じでノブは言う。顔をしかめてて、もっと複雑そうだ。

「えっノブ君、ハーレムじゃないっすかそれ!?」

「ん? ちげーよ」

 柝頭きがしらが動き始める。

 ぼくらはもう一本、新しいアクエリアスを引っつかんで、真上に持ち上げて一気に飲み干した。



 横町よこまちの交差点を曲がった。海野町うんのまちの通りに見物客が溢れかえってる。ここでは、二つの車線の左側を進むことになってて、いろんなお神輿とすれ違う。カホの女神輿が見たかったな。そうちょっとだけ思う。

 ケンは、わっしょい! と叫びながらもきょろきょろ周りを見てる。歩道にアズサがいた。小さな身体だけど、真っ白なブラウスと素色のロングキュロット、それからどこかお嬢様っぽい雰囲気が、周りからアズサを浮かび上がらせてる。

 アズサもぼくを見つけてくれたみたい。ぼくは振り向いてノブに知らせたけど、お神輿に隠れて見えないらしく、軽く睨まれただけだった。

 わっしょい! わっしょい! ぼくの声もつい大きくなる。二、三十メートル進んでまた、御幣おんべが横になった。休憩だ。

 反対車線のお神輿も休憩してる。ケンはさっさと花棒はなぼうを投げ出して、左右の歩道をきょろきょろ見てる。ぼくはノブに一声かけて、人込みの中にいるアズサのところへ駆けつけた。

 アズサはノブに手を振ったあと、ぼくに向き直った。顔ぜんぶでうれしそうに笑ってる。ぼくもうれしくてたまらなくなる。

「どう? お祭り」

「なかなか迫力あるねー」

「いろんなお神輿があるでしょ?」

「酒樽の神輿とか、女の子ばっかりのもあるんだね」

「やってみたい?」

「それはちょっと、難しいかな?」

 ぼくはロングキュロットに目を落とす。

「立石っ!」

 後ろからぼくの名前を叫ぶ声が聞こえて振り向いた。緑が丘西みどりがおかにしの半纏を着てる、ぼくと同い年くらいの少年が駆け寄ってきた。

「お前だよな? 飯島のモトカレ」

 ぼくは頷く。カホに関わる一切の問題は受け止めるつもりだった。アズサの表情が強張ったのがわかった。

「ちょっと来い!」

 強い力で腕を引っ張られる。ぼくはアズサに、まっててね、と告げて、引きずられながらついていく。アズサは子供みたいに首を振ったけど、その場に留まっていてくれた。

 駐車場に向かう暗い路地のちょっと奥に入る。おめえ、と緑が丘西みどりがおかにし少年が言いかけたとき、通りのほうからマサーっ! と女の子の声が聞こえてきた。近付いてくるみたいだ。マサは方針を問答無用に変えたらしく、ぼくの半纏の右襟をねじりあげた。

 殴られる! おしっこちびらないようにしなきゃ!

 ぼくは覚悟した。ケンカのために拳を握りしめたことなんて一回もなかったし、今日はケンカをする理由もない。せめて歯を食いしばろうとした。

 ごっ、ごんっ! 覚悟してたよりずっと速くて重いパンチが右の頬骨に二回、当たった。頭がぐわんと痛んで視界がぶれる。マサは襟をつかんだ手を離して、ずん、ずん! と右のお腹を殴りつける。ぼくはもう足がよろけ始めた。

 女の子の影が見えた。スマホを手に持ってるのか、光が曲線を描く。

 ごぐっ! 今度はもっと強い力で、顔の左側から殴られた。ぼくは半回転して吹っ飛んで、固い地面にひじを打って倒れた。痛い、痛いっ!

「マサーっ」「マサ!」

 女の子の叫び声の後ろから、ノブの声が聞こえた。

 もうひとつ、小さな足音が駆け寄ってきた。ひざ立ちになってぼくを抱え上げようとしてくれる。細い腕、肌触りのいい布地。きっとアズサだ。ぼくは頭が痛くって、身を任せた。薄く目を開けると、アズサの真っ白なブラウスに黒い模様が広がっていくのが見えた。ぼくの鼻から血が吹き出してて、口からは血が混じったよだれが垂れていた。

 やめろっ! はなせっ! 後ろから、もみ合ってるような音がする。女の子の泣く声も聞こえる。ノブが来てくれてる。これ以上、殴られることはない。

 こんな時なのにぼくは、アズサの匂いをかぎたくなった。思い切って鼻から息を吸うと、こめかみに激痛が走って涙が出た。鼻血を吸い込んで思い切りむせて、アズサのブラウスに血の固まりと泡立った唾が飛び散った。

 ぼくはアズサの顔を見たくて首をあげようとする。頭の中もこめかみも頬も痛くて動かせない。アズサは力んで腕やひざを震わせながら、ぼくを必死に抱え上げてくれている。

「ナオッ!」

 声が響いた。カホだ。足音が大きくなって、アズサとぼくの間にむき出しの腕が割り込んだ。ぼくを乗せて自転車で走ってくれたときみたいな逞しさで、ぼくを抱きかかえる。アズサは突き飛ばされたのか、後ろ手をついて倒れた。

「なにすんのっ! オヤマダくん!」

 カホはぼくと別れた日みたいな、怒りに満ちた尖った声で叫ぶ。

「ナオにこんなことして、ぜったい許さないっ!」

 オヤマダくんを激しく責めながら、カホはぼくの頭を抱きかかえて座り込んだ。ぼくの顔を、半股引はんだこから伸びた素肌の太ももに乗せる。肌にも記憶ってあるのかな。ぼくは懐かしい気持ちがこみ上げて、こめかみや頭の奥の激痛が和らいでいく。代わりに、頬骨やひじやひざがちりちりと痛み始めた。

 カホは自分の豆絞りを、ぼくの鼻にそっとあててくれる。鼻が利かないはずなのに、カホの汗の匂いを感じた気がした。

「ナオ」

 カホの背後からアズサの声がした。カホの太ももにぐっと力が入るのがわかる。オヤマダくんは静かになったみたい。ひざまくらのまま首を動かすと、そこにはリックもケンもいた。ノブはリックにオヤマダくんを預けて、ぼくに近付いてきた。

「ナオ、立てるか? 本部行って手当てするぞ」

 ぼくの頭を抱いてたカホの左腕が一度、ぎゅっと締めつけられて、しばらくして緩んだ。ノブはそのひと呼吸を待って、ぼくの左脇から腕を差し入れる。カホの右手にぼくの手を重ねて、豆絞りを受け取る。次の瞬間には、ぼくはノブに抱え上げられていた。

「ケン、右」

 ケンは腰砕けになってたけど、ぼくをなんとか支えてくれた。

 ぼくは口から息を吸い込んで言おうとした。アズサ、来て!

「あぐふぁ、ひへ」

 どうしようもなく情けない声しか出なかった。布が擦れる音がして、ぼくの背中に小さな手が添えられた。ぼくは振り返らずに、そのまま四人で路地を出る。ヒトミが立ち尽くして泣いていた。さっきまでひざまくらをしてくれていたカホを、ぼくは置き去りにした。



「さっきの、ヒトミさんと飯島さんだよねっ!?」

 ケンは興奮してるのか、わかり切ったことを確認してきたけど、それをきっかけにノブも口を開いた。

「やったのは俺の仲間だ。けがの具合次第だが、あとはリックに任せろ。もうこんなことはさせねえ。……ナオ、恨むな」

 ぼくは頷いた。半纏の背中が、アズサの小さな手でぎゅっと握りしめられる。

「すげー修羅場だったよねー」「ケン!」

 人ごみの中をゆっくり歩いた。血だらけのぼくに気付いた人は、道を空けてくれた。

 車道から、わっしょい! わっしょい! と賑やかな掛け声が聞こえる。袋町ふくろまちのお神輿は、もう中央交差点に入っちゃったかな。

 じんじん痛む頭で、ぼくはヒコさんの言葉を思い出す。——若い奴等の担ぎ方が気になって仕方がない。やっぱり、ぼくはまだまだ子供だった。ノブたちが助けに入らなかったら、ぼくはどうなってたんだろう。でも同時に、ぼく自身がやらかしてきたことの重さを想う。ちょうど良かった、これでいいじゃない。

 本部テントで手当てをしてもらっているうちに鼻血は止まった。鼻の付け根が腫れ上がってて、大きなガーゼを貼ってもらう。こめかみがまだじんじんしてる。頭の中とお腹の重い痛みはだいぶ引いて、ぼくはなんとか歩けるようになった。

 頭、本当に打ってないんだね? 鼻の骨も心配だから、明日、病院に検査に行きなさい。あと、今日はもう帰って休みなさい。そう言われた。ぼくは三回、頷いただけだった。

 ぼくらは来た道を引き返した。アズサのマンションの前で立ち止まる。

 アズサのブラウスは、ぼくの血で葡萄色えびいろの大きな染みができてた。開いた両手を押し付けた、手形みたいな形だった。

「私が、ナオを送る」

 アズサの声は毅然としていた。一瞬の間ができる。

「……じゃあお神輿に戻るわ。体調わりぃと思ったらすぐに救急車呼べ。いいな?」

 ノブはぼくの顔を見てそう言うと、ケン行くぞ、と声をかけて立ち去っていく。ノブは右手を上げて、ケンは左手の親指を立てていた。

 アズサは唇を引き結んでて、何も言わずにぼくの手を引いてくれた。こめかみは相変わらずじんじんしてて、ぼくはその度にアズサの手を強く握ったけど、返事はなかった。

 海野町うんのまち会館の角を曲がって細道に入る。ぼくは口で息を吸いこんだ。

「ありがとう」

 アズサは立ち止まってぼくをじっと見る。いつもの笑顔なんてどこにもない。ただ唇を引き結んで、怒ってるのか悲しんでるのか、心配してるのかもわからない顔だった。

 もう一度、痛みをこらえて笑って言ってみた。

「ありがとう!」

「……ごめんって言われたら、許さないつもりだった」

 アズサはほっとした表情になった。ぼくは胸がとくんとした。ごめん、なんて今まで一回しか言ったことないし、今はそんなことを言う理由もない。腹掛けのかくしに入れたカホの豆絞りが、生き物みたいにもぞもぞ動いた。

「どうしていいかわかんなかった。いろいろ」

 歩き出しながら言う。いつもの足早なアズサに戻ってる。小さな身体なのにカホよりずっと速くて、キミコと変わらないくらい。

「ぼくはうれしかった。アズサがいてくれて」

 もう一度、手を強く握ってみた。アズサの足取りがちょっと乱れた。

「そういえば、私から約束破っちゃった」

「約束?」

 ぼくはとぼけてみた。

「覚えてないの? 手をつなぐまで、って約束。やっぱナオ最低だね」

「抱きしめられて、忘れちゃったみたい」

 言ってみた。

「ちょ」

 アズサが照れてる。ぼくにはわかる。

「ん?」

「超法規的措置でしょ。人助け」

「うん」

 またアズサは黙ってしまったけど、引き結んでた唇がゆるゆるにほどけてるのが見えた。

 アパートの外階段の下まで来て、アズサはきっちり立ち止まった。

「明日、病院行くよ。九時に迎えに行くから。あと、寝付けなかったら電話して」

「うん」

 階段の一段目にのぼって、ぼくはアズサを見送った。いつもよりもっと足早に、アズサは帰っていった。

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