第16話「黒崎」峯村信之(六月)後編
「僕はナオのことが、ずっと大嫌いだ」
言葉を返せなかった。首だけ動かして、なんとか相槌を打った。
「ナオは自分の目的を果たすことしか考えてない。人を平気で利用する。明らかな嘘は吐かない代わりに、いつもごまかしたり、人を試したりしてる」
「ひでえ奴だな。目的って何なんだ?」
「女と付き合うこと。それだけだ」
朝、笑顔が消えたアズサを思い出す。悔しさと腹立たしさが、俺の中に満ちてくるのが分かる。
「ナオはどうしようもない奴だ。人の苗字もろくに覚える気が無いし、モラルもマナーも守らない。チビでガキみたいな言葉遣いで、服も靴も自転車も、教科書だって買えない貧乏人だ」
立石直への腹立たしさが一瞬、冷めた。黒崎お前、何を言い出してるんだ?
「聞くに堪えない罵詈雑言で悪いな。でも、本当のことだ。ナオはこの欠点だって、目的を果たすことに利用するんだよ」
「わりぃ、理解できねえ。不幸自慢をするってことか?」
「自慢はしないけど、さらけ出してる。だから、欠点を受け容れられる女や、世話好きな女がナオに関わると、厄介なことになる」
「そんなもんなのか? 俺は女子の気持ちが分からねえんだ」
「全員じゃないよ。俺やノブはあいにく、そういう女に惹かれるんだ。藤井
黒崎の話を理解しようと頭を巡らす。俺にとってアズサは、今まで近寄ってきた女子と何が違うのか? ——飾らない。ハッキリしてる。媚びない。いやらしい計算高さが無い。身体の距離より先に、心の距離を詰めてくる。どこか気品がある。タカを見下さない。俺を権威者として扱わない。
正しい理解かどうかは分からないけれど、おぼろげに見えてきた頃、黒崎は話の続きを喋り出す。
「僕には彼女がいるけど、その人とは別に、小四からずっと片思いをしてる人がいる。土屋
「わりぃ。知らねえ」
「じゃあノブなら、タケちゃん先輩は聞いたことがあるよな?」
「三コ上だろ? バレーと、あと今どきケンカで有名な人」
「ああ。そのタケちゃんの妹が、キミコだ」
黒崎がずっと片思い? 意外な話ばかりだ。いや、俺が黒崎を勝手に仰ぎ見て、素顔を理解しようとしてこなかっただけかも知れない。
「ナオとはもともと同じクラスで、四年のクラス替えでキミコとも同じクラスになった。僕は今よりずっと傲慢で、ワガママで、自信過剰だったよ」
「小学生なんて、そんなもんだろ」
「キミコも当時から飛び抜けてた。スポーツや喧嘩でキミコに勝てるのも、言うことを聞かせられるのも僕しかいない。二人とも、人は寄ってくるけどなんだか浮いてる感じで、僕達は特別なんだと思ってた」
「言いたいことは、分かる」
俺はアズサではなくて、白井を思い出した。
「それがさ、五年の時に突然、ナオがキミコに告白したんだよ。すきだ、付き合って欲しい、って。みんながいる教室で」
五年の時? 俺にはサッカーと、親父と行ったコンサートの記憶しかない。
「キミコはすぐに、ばかじゃね? って言って断ってた。みんなの前で告白されるのなんて、恥ずかしいし迷惑だよな」
「ああ」
実は俺は、告白されて悪い気はしなかった。好意を持って向き合ってくる人間を、俺はどうしたって嫌いにはなれない。
「ただキミコは、本心ではかなり嬉しがってたはずだ。僕以外の同級生から、対等というか、むしろ可愛い女の子扱いされるなんて思ってもなかっただろうからね」
「ああ、分かる」
「僕は焦ったよ。今思うと、嫉妬した。だから、ナオをいじめるように仕向けた」
嫉妬していじめる? 俺にはピンと来なかったけれど、そういうこともあるのだろう。頷いて相槌を打つ。
「当時は、身の程をわきまえろ、って思ってたんだけどね。無視したり、ナオの女みたいな見た目や貧乏なところを散々からかった。でも、ナオはしれっとしてる」
俺はただ頷く。
「黒板に相合傘を描いた奴がいて、状況が変わったんだよ。ナオは僕のところに来た。『相合傘はキミコが嫌がるから、キミコに謝れ』ってね。これもみんなの前で。ぶん殴って追い払えるほど僕もガキじゃなかったから、内心困った」
ナオは
「しかも翌朝、先生が来る前の十分くらいの隙に、タケちゃんが教室に乗り込んできた。相合傘の犯人をぶっ飛ばす気らしい。描いてないけど主犯は僕だ。少なくとも、ナオとキミコと僕自身にはそれが分かってた。その時タケちゃんは既に有名人だったから、僕はすごく焦ったし、怯えたよ」
「どうなった?」
「ナオが、ぶっ飛ばされる相手をすり替えた」
「すり替えた?」
「タケちゃんの正面に出て行って、ぼくがキミコに告白した、相合傘もうれしかった、なんて言い切った。面識もなかったはずなのに」
俺の中で、ナオの印象が激しくぶれる。大人しいのか、ひどい奴なのか、欠点だらけなのか、それとも気っ風がいい奴なのか。曖昧なんてもんじゃない。正体が見えない。
「タケちゃんは十秒くらいナオの顔を見てて、次の瞬間にはナオを殴って教室を出てった。本当に身体が飛んだんだよ、マンガみたいに。みんな怯えてて、キミコもすごく慌ててた。ナオは気絶はしてなかったけど、おしっこを漏らしてぼんやりしてた。なのに先生が来たら急に真っ直ぐ立ち上がって、チビリましたっ! って笑って叫んで雑巾を取りに行ったんだ」
俺はその光景を想像しようとした。ケンなら、ギリギリやってのけるかも知れない。
「目立たない奴らまでは見てないけど、クラスのほとんど全員が笑ってたよ。嘲笑だ。有り得ないことだし格好悪過ぎる。……でも、少なくともキミコと僕は笑えなかった。当事者になって実際その場にいたら、分かる」
「凄み、みたいな感じか?」
「まあ、そうかな。タケちゃんは心底怖かった。多分、キミコはそれを一番よく知ってる。頼んで乗り込んできたわけでもないタケちゃんに、一言も言えなかったんだからね。でもナオは、しれっとタケちゃんの正面に立って、しれっと告白の続きをしたんだよ」
俺だったらできただろうか。今なら、できるのだろうか。
「その日はもう、キミコはナオばっかり見てるんだよ。僕はますます焦って、いや、嫉妬して、周りの奴にナオのことをチビリと呼ばせた。おしっこチビリのチビリってね」
黒崎は苦々しそうに話す。
「キミコもすぐにチビリって呼び始めた。ナオ本人に向かって容赦なくね。最初は意外に思ったけど、二、三日見てて気付いたよ。キミコは、ナオを弄り倒してるふりをして徹底的に庇い続けてるんだ。かえって僕達は、ナオのことをチビリなんて呼べなくなった……キミコだけはいまだに、ナオとは決して呼ばないんだけどね」
キミコの気持ちはなんとなく分かる気がする。庇ってるだけじゃない。畏れも、感謝も感じてるはずだ。俺にとってはそれは、カミサマに抱く想いに似ている。
「しかもナオは、六年生になってとどめを刺しにきた」
「とどめ?」
「一年後に、また告白したんだよ」
さっきの言葉を思い出す。ナオはしつこいからな。
「もう、からかうこともできなかった。キミコは、ありえないっしょ、チビリのくせに!、なんて吐き捨ててたけど、僕から見ると、照れまくってるようにしか見えない」
「だろうな」
「翌朝また、タケちゃんが来たよ。キミコは家に帰っても動揺してたんだろう。もしかしたら、泣いてたのかも知れない」
俺は頷く。
「これも忘れられない。タケちゃん、これはキミコとぼくの問題だよ、ってナオは言ったんだよ」
曖昧だったナオの姿が見えた気がした。大馬鹿者で、すげえ奴だ。
「タケちゃんは殴りに来たわけじゃなかったみたいで、最初は唖然としてた。でもすぐに手が出て、またナオが吹っ飛んだ。タケちゃんは笑ってたよ。満面の笑顔だった」
黒崎の表情はますます曇った。苦しそうだ。
「……チビリってあだ名はさ、ナオにとっては分からないけど、キミコにとっては多分、かけがえのない宝箱みたいなもので、僕にとっては最悪の思い出になってるんだよ。チビリって聞こえる度に今でも、いや、きっと一生、自分のちっぽけさを思い知らされる」
黒崎の大人びた雰囲気の理由が少し分かった気がする。俺より五年も早く嫉妬を覚えて、人知れず自分のちっぽけさと戦い続けてきたんだろう。俺に話したことで、少しは楽になれたのだろうか? 俺もまた、これからナオに会って、同じような傷を受けることになるのだろうか。
♦
ひと呼吸置くと、黒崎はいつもの爽やかな表情に戻っていた。
「二つ目の話なんだけど、女友達ってのは誰のこと?」
「ん? なんだっけ」
俺はすっかり忘れていた。
「アズサと女友達の問題、ってやつ」
「あぁ、わりぃ。白井
「青柳と一緒にいて、話をしたことはある。ただ、ナオの件は人づてに聞いてるだけだから、ノブが一つ目の問題を解決できたら、ナオに直接聞くのがいいと思う」
「ああ、そうするよ」
問題の解決か。黒崎が五年かかっても解決できていないというのに、俺にどうにかできるのだろうか。自信が無い。自信の拠り所が無い。
ただ、不思議なことに不安も感じなかった。俺はサッカー以外にも、とっくに歯が立たない相手と出会っている。ケンのような天性のお調子者や、タカのようにブレずに好きなことを続けられる奴等を知っている。
そろそろ出掛けようかと身体を動かした。あとは、ナオの居場所を聞くだけだ。
不意に黒崎は表情を固くして、俺に忠告した。
「騙されるなよ。ナオに」
「え? どういうことだ?」
「キミコの話。多分、最初の告白とお漏らし以外は、計算尽くだよ。ナオの場合」
「マジかよ?」
「僕の憶測だ。でもナオは、僕の片思いも、嫉妬も、タケちゃんへの怯えにも全部気付いてたはずだ。キミコにインパクトを与えるチャンスも、タケちゃんに気に入られるチャンスにも。だって、安いもんじゃない? ナオは二発殴られて二回跳んだだけで、キミコと僕は、ずっとナオのことを忘れられなくなった」
「買いかぶりすぎって奴じゃねえのか?」
黒崎は口元だけで笑った。
「ナオには先週土曜日まで彼女がいたんだけど」
意味が分からねえ。先週土曜日から、アズサと付き合い始めたはずだ。
「その彼女と続けられない事情ができて仕方なく別れて、その日からアズサと付き合い始めたんだよ」
黒崎が俺を煽っているのか、ナオが本当にどうしようもない最低野郎なのか、俺には分からなくなった。ただ、悔しさと腹立たしさと情けなさが俺の中に満ち満ちてくる。やっぱり俺も、ナオのことが大嫌いになるような気がした。
「ナオは家にいるのか? 場所を教えて欲しい」
「カフェ4o’clockに居る。
「そうか。サンキュー、黒」
俺はふと言葉を止める。
「……黒崎はアズサに、なんて呼ばれてんだ?」
黒崎がニヤリとする。少し意地悪な十五、六歳のガキの、
「ケージ」
「サンキュー、ケージ!」
♦
夜七時、校内から見た正門は、濡れた消し炭みたいに悄然と佇んでいた。
まだ日没前のはずなのに辺りは暗くて、濡れた足元がいちいち滑って俺はイライラを募らせた。正門をくぐるとすぐに、急ぐ必要なんてないのに俺は傘も差さずに走り出す。湿ったインターロッキングが黒々と光を吸い込んで、そこからバチャバチャと下手糞な拍手みたいな音だけが響いた。
大通りにぶつかる。なかなか車が停まらないのがもどかしくて、思い切って車道に飛び出した。左右からヘッドライトに照らされる。
その時、俺にもようやく霧雨のカタチが見えた。上から斜めから左右から、無数の細い光の筋が、でたらめに飛び交っている。今朝、そして今、俺をいつの間にかべっとり湿らしたカミサマの正体は、俺の存在なんてお構いなしに思うがままに舞い降るだけの、ただの水の
俺は走るのをやめた。すぐに息が戻る。そこから二分、歩いた。
♦
喫茶店みたいなカフェがあった。俺はためらうことなくドアを開ける。いらっしゃいませ! 若い男の高く澄んだ声が聞こえた。
店内を見回すと、カウンターの一番奥にアズサを見つけて少しひるんだ。テーブルの上に書類を広げている。ここで勉強でもしているのだろうか。アズサは顔を上げる。俺が来ることを知っていたかのように、右隣の椅子に置いてあった荷物を取り上げた。
「ノブ、やっぱり来たねー」
アズサは屈託なく笑うけれど、俺は面白くなかった。渋い表情でバッグを床に置いて、アズサの隣に腰掛ける。俺の身体には椅子は小さく、カウンターは低かった。
「何か飲む?」
自分の家みたいにするんじゃねえよ。心の中で、自分でもうんざりするくらいに毒づいている。傲慢でワガママな、ガキの頃に戻ったみたいだ。
「ホットコーヒー」
カウンターの中の男と目が会った。三十代半ばくらいの髭の男。かしこまりました、微笑んで頷いたあと、横を向いて声を上げた。
「ナオ、お友達。ちょっと外していいよ」
俺は髭の男の視線の先を見る。若い男の店員が笑顔で立っていた。
茶色い髪。長さはアズサとあまり変わらない。大きな目と小さな鼻と口。唇の端が少し上がって、しっかりと結ばれている。ユニフォームらしき白いシャツと黒いパンツは性別を曖昧にみせて、可愛らしい女子中学生といっても通用しそうな風体だった。
立石直はお辞儀をしてカウンターの脇のドアに消えた。
♦
さっきまで流れていたジャズだかフュージョンだかの旋律が、いつの間にか華やかなタンゴに変わっている。カフェには似合わないけれど、今の俺にとってはどうでもよかった。
アズサは俺に気遣う様子もなく、カウンターの上の問題集に向かっている。
「ジュンさんシュミ悪いよ!」
目を落したまま、突然アズサが言い放つ。しばらくすると、エレキギターの音色に戻った。
アズサが俺の方を向いた。
「ナオ、どう? 可愛いでしょ?」
「ああ。見た目はな。アズサ以上に可愛らしい女子中学生だ」
「なにそれー!」
大丈夫だ。俺はまだ、アズサと軽口を叩いていられる。
自分にホッとして、コーヒーをもう一口すすった。
「ノブ!」
高く澄んだ明るい、少年の声だった。カチンと来た。ああ? ナオ、お前にそんな風に呼び捨てにされるいわれはねえ!
俺は険のある表情を隠しもせず、カウンターの奥に目を向けたまま黙ってコーヒーをすする。ナオは当たり前のように俺の右隣に座った。
つい感情が高ぶって、ここに来た目的さえ忘れてしまいそうになった。
「アズサとしゃべってると、しょっちゅう話が出るんだよ。ノブの話題」
ナオが俺に向かって呟いている。ノブの話題ってどんなんだよ? 腹を立てているのに、話を聞いてしまっている自分がまた腹立たしい。すぐにでもナオの胸倉をつかんでぶっ飛ばしたい。
「クラスがすごくまとまってるとか、タカがいきいきしてるのはノブのおかげだとか」
タカが活躍してんのは俺のオカゲなんかじゃねえ。タカは、自力でラッキーを呼び込んで、ツキを引き寄せて流れに乗っただけだ。
心の中の毒づきを声に出そうかどうか、少しだけ迷った。
「ねえノブ、会えたら言いたかったことがあって」
俺はまだ無視していた。息を吸い込む音が聞こえて、ナオはハッキリと言った。
「ぼくはノブの話を聞くたびに、ヤキモチを妬いてるんだ」
俺はカップを持ち上げかけたまま、カウンターの奥、いや、虚空を眺めた。
「ばーか」
アズサが呟く。照れも呆れも含まれていない、乾いた声だった。計算尽くだよ。ケージの言葉を思い出す。俺に向けた言葉のように見せかけて、アズサに揺さぶりをかけているのかも知れない。
そう思うとカッとなった。俺は横を向いてナオを睨みつける。目が合った。
ナオは俺を真っ直ぐに見ていた。無邪気な微笑みを浮かべている。見開いた瞳はアズサみたいにキラッキラしていて、その二つの光の中に俺の顔が在った。怒っている、そのあと目を丸くして、呆然とする。俺の嫉妬なんかとっくに見透かされていたことを、なぜだか確信した。
ナオの瞳の中で、俺は余裕ぶった表情を作ろうとして顔を歪ませる。ハハッ! ようやく絞り出した声が、俺自身を嗤っているように響く。勝負にならねえ。ナオが瞬きをした隙に、俺は目を逸らした。
勝負を捨てかけた俺を飛び越して、ナオはアズサに話しかける。
「ねえアズサ、もしもノブが先に告白してたら、どうしてた?」
「は? なに言ってんのナオ」
「教えて欲しい」
「いや!」
「たまたま早かっただけってのは、もうやなんだ」
たまたま早かった。その偶然には十分な価値があるのに、ナオは拒もうとする。
俺にとって、この屈辱的な状況はチャンスなんだろうか。今ここでは、峯村一族の惣領の沽券も、アスリートの矜持も、正門の歴史もまるで役に立たない。何もかもが霧雨の中で灰色に煙って、輪郭が曖昧になってしまっている。すっかり見透かされた俺が独り、傲慢でワガママなガキの頃に引き戻されて、べっとりとシャツを濡らして立ち尽くしている。——ケン、タカ、ありがとな。少しだけ分かった。自由を満喫するってのは、ちっとも楽なことなんかじゃなかった。
ナオに言わされたわけじゃない。俺は自分で、言おうと決断した。
「アズサ、俺と付き合ってくれねえか?」
アズサはカウンターを眺めている。表情は無い。ナオは俺の隣で、足をブラブラ揺らしている。
「ごめんなさい。ノブは、非の打ちどころが無いんだけど」
一度、言葉を切る。
「決めたの。直感で、ナオと付き合ってみるって。怖いもの見たさで、気になって仕方が無くて」
こんな奴が怖い? 俺はナオに向き直る。ニコニコ笑っているナオの瞳の中に、傲慢でワガママなガキが、しょぼくれている顔が見えた。
「ナオ最低だよ、こんなこと。迷ってなんかないのに」
アズサは怒る。違うぜ? ナオがやらかしたのはきっと、俺のためだ。
「ありがとうアズサ。ぼくうれしい!」
ナオはまた、俺を飛び越して言い放つ。俺は意地悪な気持ちになった。
「おいナオ、お前はどんな風にヤキモチを妬くんだ?」
「ないしょ」
「言えよ? 俺はフラれたんだぜ?」
こんな開き直り方をしたのは、生まれて初めてだった。
「ぼくはお節介を焼きたくなる。妬いた相手の」
「そんな妬き方あんのかよ?」
「あるよ」
「他にねえのか? 悔しくなるとか、腹が立つとか、情けなくなるとか」
「ぼくは、拗ねてみることはある」
拗ねてみる? 嫉妬すらも利用するのか? 俺は自覚した。ナオなんか大っ嫌いだ。
やっぱり意地悪な気持ちになったんだろうか、アズサが割り込んでくる。
「ノブ以外に、誰にヤキモチ妬いてた?」
「ないしょ」
「言って! 私は彼女だよ?」
「言ったら、アズサがヤキモチ妬くから」
「私は妬かないよ!」
「リックと」
矢沢のことか? 一体どれだけやらかしてるんだ、ナオは。
「……と、あとは誰?」
アズサが問い詰める。俺はふと思う。ケージ、だろうか。
「え? りくと、って言ったんだよ?」
ナオはしれっと言い直す。アズサはまた無表情になって黙り込んだ。妬かないなんて、まるで嘘じゃねえか。
やっぱりナオなんて大っ嫌いだ。心の中で毒づきながら、冷めかけのコーヒーを一気に飲み干した。俺は少し目を瞑る。心の中で正門をくぐるためじゃない。大通りでさっき見た、霧雨の光の筋を思い出していた。
♦
いつの間にか店内にはピアノの音が響いていた。ジムノペディの何番だっけ。ナオはエプロンを掛け直し、ホールの端に背筋を伸ばして立っている。なんとなく気まずいような、気恥ずかしいような、でも焦りも腹立たしさも消え去った心持ちで、俺はようやく二杯目のコーヒーを味わい始める。
アズサは、ちょっと夕食、と言って店を出ていった。荷物は置きっ放し。どんだけ彼氏と一緒に居るんだよ、そう毒づこうと思ったらもうドアは閉まっていた。
「ナオ」
俺はカウンターに視線を向けたまま声をかける。
「アズサと白井がうまくいってねえんだ。……ナオは何をやらかしたんだ?」
「やってないよ。中二の夏に付き合い始めて、その年の十月に連絡が来なくなった」
屈託のない声でさらりとナオは答える。
「ナオのせいで、白井に悪い噂が流れて苦しんでたって聞いたぜ?」
「うん。ぼくも聞いた。タケちゃんが四中にリナを見に行ったら、リナが不良と付き合ってるって噂になっちゃったみたい」
声色には少しの翳りもない。でも冷淡ってわけでもない。そうか。白井の家にしつこいくらいに訪ねてきた男ってのはナオだったんだな。やれることをやれるだけ、ナオはやったんだ。
アズサもとうに聞いていることだろう。俺は意外に思った。アズサなら誤解を解くために、自分から白井と向き合いそうなものなのに。
俺が思っていたより、アズサも脆くて繊細な女の子なのかも知れない。俺はアズサの飾りっ気のなさや、ハッキリしたところに惹かれていたけれど、ナオはきっと、そうじゃないアズサにも気付いているんだろう。
ナオはしれっと言った。
「会えばいいんじゃないかな? リナとぼくがちゃんと話をするよ」
ああ、それがいい。ナオならきっと、また何かやらかしてくれる。
「ねえノブ、リナとぼくが話をする機会をつくって欲しい」
静まっていた感情が揺れた。ナオなんか大っ嫌いだ。ただ、その目的のためなら俺はぜひとも協力したい。
「ああ、承知した」
シャツはすっかり乾いていた。コーヒーカップを傾けた俺は、空っぽだったことを思い出して苦笑する。視界の端でナオが、俺に合わせて微笑んだ気がした。
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