第13話「自転車(三)」矢沢陸人(六月)前編

「ナオが飯島と別れたよ。さっき」

 黒崎が俺の前に来て、言った。

 班活は昼休みに入ったばかりだった。六月第三週の土曜、朝から曇っていた空から、今は雨が降っていた。

 俺はまた、話の内容が理解出来なかった。昨日の朝だって、飯島からはいつものようにメールが来ていた。短いメッセージと、『ナオげんきですか?』の一言。

 ナオの写真を撮って、一言コメントを添えて飯島に送る。それは平日の日課になっていて、俺の一番の楽しみにもなっていた。

 五月、俺はナオに、飯島に片思いをしていたことを、片思いをしていることを明かした。新たに好きな女が出来るまで、正々堂々と片思いを続けようと決心していた。ナオもそんな俺を許してくれていたと思う。ナオには俺を不安視する理由なんて一つもなかったし、飯島がナオ一筋だってことは、毎日のメールの中で、誰よりも俺が一番思い知っていた。

「飯島がどうしたって?」

「ナオと別れた」

 黒崎はもう一度言った。心の中で黒崎の言葉を反芻する。飯島がナオと別れた。

「ナオからか? どうして?」

「ナオがやらかした。理由は知らない。まぁ、事情があったんだろう」

 黒崎の話には意図があるけれど、嘘は吐かない。今日の俺にはその意図が分かっていたし、乗せられたわけでもない。

「……黒崎、午後の班活休ませてくれ」

「分かった」

 何のためなのか、何がしたいのか、何が出来るのかも分からないけれど、俺は飯島とナオに会わなくちゃならない。それだけは確信出来た。

「ナオがいるところは分かるか?」

「分からない。普段は家かバイト先。今日はバイトに入ってないから、図書館か、街中まちなかを散歩してるだろう」

「バイト先はどこなんだ?」

「カフェ4 o’clock。海野町うんのまちのヤジマ時計の裏手にある」

 もう駆け出そうとしていた俺の足を、黒崎の声が止めた。

「飯島の居場所は知らなくていいのか?」

 俺は躊躇なく答えた。

「教えてくれ!」

「キミコ知ってるよね? 小学校の斜め前の土屋工務店がキミコの家だ。そこにいるはず」

「黒崎、助かる」

 今度こそ、俺は駆け出した。



 昼食も食べずにTシャツに着替え、バッグを背負って自転車に跨る。雨が降っているけれど、傘なんて持っていなかった。

 いきなり飯島に会いに行くには躊躇いがあった。俺は飯島に会わなくちゃならないけれど、何のために、何がしたくて、何が出来るのかも分かっていない。

 まずはナオを探そう。もしかしたら別れた理由を話してくれるかもしれない。理由によっては、二人はヨリを戻すことだって出来るかもしれない。そうすれば、飯島と俺の毎日のメールも続けられる。そこまで考えて、俺はいつものように自分の身勝手さを笑う。

 アパートの前で飯島の自転車を見つけた。なんだ、飯島とナオは別れてなんかいないじゃないか! 俺はつい、そう錯覚してしまった。

 ナオの部屋、二階の真ん中に向かう。飯島とナオが出てきたら何と言おう。ちょっと立ち寄っただけだ、そんな言い訳が通じるだろうか。チャイムを一回、押したけれども誰も出てこない。ドアノブに手をかけると鍵がかかっている。そこでようやく、俺は錯覚から醒めた。

 自転車にもう一度跨がってナオのバイト先に向かった。一分もかからないはずだ。辻を左に曲がって袋町ふくろまちを出る。海野町うんのまち会館の前で車道を渡り、反対側のアーケードの下を走る。ヤジマ時計の手前の角で左に曲がると、「4 o’clock」と書かれた喫茶店に着いた。

 Tシャツとバスケットパンツバスパンが雨で湿っている。ナオだっていない可能性が高い。少し躊躇った後、思い切って喫茶店のドアを開けた。

 五、六人の客がいたけれど、やっぱりナオはいなかった。店を出てしまおうか? そう思った時、いらっしゃいませ、と、髭を生やした店員から声をかけられた。少し気まずいし、ちょうど喉も乾いている。冷たい物を一杯だけ飲むつもりで店の奥に向かった。

「ヤザワリクト?」

 カウンターに着くと、一番奥の席に座った女が俺に声をかけてきた。飯島の声なら良かったのに。今日の俺は、初対面の女に呼び捨てにされても驚きも戸惑いもしなかった。袴みたいなスカートに、羊みたいな色のシャツ。松高で見かけたことがある顔だった。

「そうだけど、同級生か?」

「B組の藤井アズサ。アズサユミのアズサ」

 藤井は小さな身体で屈託なく微笑んでいる。どこかナオみたいだ。俺は少しだけリラックスして、藤井から一つ空けた椅子に座った。バッグを床に置いて、財布だけを取り出す。

 髭の店員が水とおしぼりを置いた。おしぼりを握ると飯島のことが強く思い出されて、再び気がいてくる。メニューを適当に眺めて、ジンジャーエールを頼んだ。

「E組でしょ? ナオと良く一緒にいるよね?」

 ナオ、と聞こえて俺は驚いた。思いがけない繋がりがあった。

「ここの常連なのか?」

「毎日来てるけど、常連なんて言い方、オジサンみたいだからやめて?」

 今の俺には、余計な会話をしている心の余裕も器用さもなかった。

「ナオ、今日はここに来るのか?」

「今日は来ないよ? 週末は彼女とデートだから」

「飯島を知ってるのか?」

「飯島っていうの? 彼女」

 藤井は何も知らないかもしれない。俺は迷った。ただ、今の俺は少しでも、どんなことでも話を集めておきたかった。

「今日、飯島とナオが別れたらしいんだけど、何か知らないか?」

「えっ!?」

 ナオとどんな関係なのかは知らないけれど、藤井はとても驚いていた。眉をしかめて何やら考え始める。藤井を眺めているうちにジンジャーエールが出てきた。

「ジュンさん! この間ナオに会いに来た人、飯島ユキヒコって言ってたよね?」

 髭の店員はジュンさんと呼ばれているらしい。カウンターからの返事は無かった。

「ジュンさん! ナオの彼女と何か関係があったりする?」

 俺はその名前を知っている。飯島の父親だ。

「藤井、飯島の父親と同じ名前だ。いつ来たんだ?」

「一昨日の夕方、来たんだけど」

「ナオと話してたのか?」

「ナオを連れて出てった。二時間くらい」

 飯島の父親の姿が浮かぶ。二日前、ナオは飯島の父親から訪問を受けて、何か話をされたんじゃないだろうか。

「ナオは、戻ってきた時どんな様子だったんだ?」

「普通だったよ? ねえジュンさん?」

 カウンターからは、やっぱり返事は無かった。その人が飯島の父親かどうか、俺は確認を取る。

「その人は、何歳くらいでどんな容姿だったんだ?」

 藤井も何かを感じたのだろう。真剣な表情で俺の質問に答えようとする。

「四十代ぐらいで、細くて小柄で、声はわりと高めの若い感じで」

 話が続きそうな様子に、俺も真剣に耳を傾ける。

「サラサラの髪で白髪は目立たなくて、目は大きいけど垂れ目じゃなくて」

 おそらく間違いない。その人は飯島の父親だ。俺は藤井に伝えようとする。藤井はまだ、記憶を辿り続けていた。

「そうそう、ナオにちょっと、雰囲気が似てた」

 違う。飯島が父親に似ていて、ナオは飯島と雰囲気が似てるんだ。飯島の姿が、ナオの姿が浮かぶ。小柄なのに腕とあしがすらりと長く見える。走る、跳躍する。二人の姿が重なった。

 ナオは飯島の父親に何かを言われて、飯島と別れたに違いない。その時ナオは、どんな話をどんな風に切り出したのだろう。俺は、矢も盾もたまらず立ち上がった。

「藤井、ありがとう」

「えっ? もう帰るの?」

 ジンジャーエールに口も付けないまま、財布を握ってレジに向かった。髭の店員は、用意していたかのように釣り銭を俺に渡した。俺は釣り銭を財布に放り込みながら店の外に出る。

 雨は止んでいた。ワイヤーロックを外して自転車に跨がった。土屋の家は近い。



「チビリっ!!」

 怒声と共にドアが開いた。

 土屋が出てきた。俺を見て怪訝そうな表情を浮かべる。ナオが来たんだと思ったのかもしれない。今日も制服を着ていた。ひどく皺くちゃで、長い茶髪もあちこちが乱れている。頬の上の方には引掻き傷もあった。

「矢沢? なに?」

 土屋は不機嫌だった。元々持っている迫力と相俟って、俺は怯みそうになる。だけど俺は、土屋と喧嘩をしにきたわけじゃない。俺は飯島とナオが別れた理由を知りたいだけだ。

「飯島が、ナオと別れたって聞いて」

「だから、なに?」

「黒崎から、飯島はここにいると聞いた。あと、別れた理由について確かめたいことがある」

「あんたには関係ないっしょ?」

 土屋は冷淡に言い放つ。俺には関係ない、確かにそうだった。土屋のように、飯島本人が訪ねてきているわけじゃない。黒崎のように、おそらくナオ本人から直接聞いたわけでもない。俺はただ、俺自身のためにこの件に首を突っ込んでいるだけだったことに気が付いた。そうだ。今、俺がやっていることは俺のためでしかないのかもしれない。飯島との毎日のメール交換、その楽しみが消えようとしている。それが我慢出来ないだけなのかもしれない。

「俺には、関係がある」

「はあ? どんな」

「俺は二年間、飯島に片思いをしてる。ナオにも、それを話してある」

「だから?」

 土屋は不機嫌な表情のままだったけれど、会話を続けることは出来そうだった。

「妙な話を聞いた。俺は、本当のことを知りたいと思ってる」

「妙な話って、なに?」

「一昨日、飯島の父親とナオが会っていたらしい。……俺の憶測だけど、飯島の父親が、ナオに別れるように言ったのかもしれない」

 土屋はしばらく黙った後、ちょっと、と言い残して家の中に戻った。

 俺は土屋を待った。本当のことを知ったからといって何が出来るのか、考えはまとまらない。待っているうちに、また少し雨が降り始めた。

 土屋は髪を整えて出てきた。制服の皺も消えていた。目が赤くなっているように見える。理由は分からないけれど、少し泣いてきたんじゃないかと思った。

 自転車を一瞥した後、俺に傘を差し出して、徒歩、と告げた。黒くて大きなコウモリ傘だった。俺はしゃがみこんで自転車にワイヤーロックをかける。毅然とした土屋の立ち姿を見上げると、とんでもなく美しい女だったことに気が付いた。俺はふと、バスケ班では噂だけでしか聞いたことがなかった黒崎の彼女は、土屋のことなんじゃないかと思った。

「どこ行くんだ?」

「確認。ナオん家とか」

 俺達は黙って歩いた。通い慣れた道なのに、歩くのは真田まつり以来だったことに気が付く。女と二人切りで歩くのが初めてで、しかも相手が黒崎の彼女かもしれないことにまで思い至ると、俺は動揺して歩調を速め、列を崩した。しばらく先を歩いていたけれど、俺より長いんじゃないかと思うくらいすらりとしたあしが、俺を鮮やかに抜き去っていった。

 袋町ふくろまちの路地に入ると土屋の歩調が緩んだ。さっきまで憤っているように見えた土屋が、しんみりした様子で独り言のように言う。

「チビリが夏穂かほに言ったこと、あたしはぜんぜん納得いってない」

 チビリ? さっきも言っていた。ナオのことだろうか。

「何て言ったんだ?」

 土屋は呆れたような声で言った。

「ごめん、付き合いたい人ができた。だってさー」

 ナオは嘘を吐いている。根拠もないまま、俺は断定した。

「チビリはごめんなんて言わない。自分から別れて彼女を乗り換えるなんてことも、するわけがない」

 意外だった。土屋は、飯島を思うあまり憤慨しているのだとばかり思っていたのに、ナオにも思い入れがあるようだった。俺はどうだろう。問えば問うほど、飯島への思い入ればかりだ。また、考えたくもないことにまで思いが至る。もしかしたら俺は、飯島とナオが二度とヨリを戻せない確証を得たがってるんじゃないだろうか。

 土屋はナオのアパートに着くと、飯島の自転車を一瞥して、躊躇いもせずに外階段を上った。チャイムを鳴らしても、やっぱり誰も出て来ない。それでも土屋は表情も変えずにチャイムを連打する。キンコンキンコン! はぁい、と気の抜けた若い女の声が聞こえた。

 ナオの母親らしかった。下着みたいなタンクトップ、短パンからはあしがすっかり見えている。俺は急いで目を逸らした。

「あーキミコちゃん、ひさしぶりー。あえてうれしいわぁ。あいかわらずきれいねー」

 土屋は何の前置きもしないで、単刀直入に聞いた。

「カオリさん、飯島夏穂かほって知ってるでしょ」

「えー、んー、しってるよぉ?」

 眠そうな声でナオの母親は答える。

夏穂かほって、きょうだい?」

 きょうだい? 俺は耳を疑う。

「あー、うーん、まぁいっか。……そーだよ。ママはちがうけどねぇ」

 飯島とナオがきょうだいだって? どういうことだ?

 飯島の父親はそれをナオに明かして、ナオはそれを飯島に言わないために、嘘を吐いて別れたっていうのか?

夏穂かほと付き合ってて、今日別れたんだけど」

 土屋は短かすぎるんじゃないかと思うくらい、端的に状況を伝えた。古びた鉄の外階段に雨が当たる音が響く。俺はナオの母親から顔を背けたまま、屋外に置かれた洗濯機をじっと眺めていた。

「……そおなんだ。夏穂かほちゃん、だいじょうぶ?」

 土屋は質問には答えずに、ナオの母親に訊いた。

「あたしが知ってるヒコさんて、苗字は飯島?」

「んー? まぁ、うん」

「あのクソジジイっ!」

 土屋は吐き捨てるように呟くと、黙ってしまった。

「キミコちゃん、もういいじゃない? いろいろあるんだから、ね?」

 ナオの母親は宥めるような声で言った。土屋は、カオリさんありがと、と礼を言い、踵を返して階段を降り始めた。俺はお辞儀をして土屋を追う。顔を上げる時、ナオの母親の白いあしだけが見えた。

 階段の下で土屋が待っていた。ちょっと行くとこあるから。そう言ってポケットから何かを取り出して俺に手渡す。声は落ち着いていた。

「これ、夏穂かほのチャリの鍵」

 顎で飯島の自転車を指す。

「運んどいて。夏穂かほは今日か明日、車で送ってくから。家、どうせ知ってんでしょ?」

「え、ああ」

 俺は逆らえなかった。正直に言えば、飯島の自転車を運ぶ、その行為に惹かれてしまっていた。土屋は元来た道を少し歩いた後、帰り道から逸れて馬場町ばばんちょうの方へ曲がっていった。



 ロックを外してグリップを握る。俺の自転車とは違う種類の乗り物のように思える。幅の広いサドルもずっと低い位置にあって、俺はしみじみと眺めてしまう。飯島が毎日、いろんな想いで走らせ続けている自転車。卵の殻みたいなやさしい色、大きなラタンバスケット。

 サドルに座ることが躊躇われて、手で引いて歩いた。何の役にも立たないけれど、自転車を庇うように黒い大きなコウモリ傘を差しかける。左半身がずぶ濡れになったけれど、俺は満足だった。

 自転車を引きながら考える。飯島とナオの事情は大体分かった。ただ、俺に何が出来るというのだろう。飯島の側にいてやりたい、それも自覚出来ている。でも飯島は俺に何も求めてはいない。俺が何をどうしたところで飯島の救いにはならない。それなら、俺を突き動かしたのは何だったのか。

 不思議なことに、真剣に考えているつもりでも気が重いわけじゃなかった。飯島とナオはきょうだいだった。それなら、別れたとしても仕方がない。飯島にも、土屋から本当の理由は伝わるだろう。家族とはこれから大変なことになるだろうけれど、少なくともナオは突然の心変わりなんかじゃなかったのだから、納得しながら立ち直っていけるんじゃないだろうか。

 国道を伝って大きな交差点を渡ると、飯島ランドリーの工場が見えてきた。車道を下ってきたミニバンが盛大に水溜りをはじく。俺はとっさに背を向けて自転車を庇うけれど、結局、俺も自転車もずぶ濡れになった。抱きかかえたサドルが飯島本人のような気がして、今度は慌てて手を離す。ガタン、音を立てて自転車が倒れた。

 周りから見たら、俺はどれほど滑稽だったろう。狂っているようにも見えたかもしれない。空回りするペダルを見下ろしたとき、自分の中で目を逸らしていた本心を、認めざるを得ないと観念した。

 飯島との毎日のメール交換で満足しているつもりになって、俺は自分の本心をごまかしてきた。それは、不甲斐ない片思いを続けている自分を受け容れる、なんて慎ましい気持ちなんかじゃなかった。俺は心のどこかでずっと、飯島とナオが別れることを望んできたに違いない。俺は今、飯島とナオの決定的な別れを知って悦んでいる。弱っている飯島に付け込むチャンスとさえ思っている。誰よりも早く飯島に駆け寄って、支えたいと思っているのは、俺自身のためでしかない。

 飯島、ナオ、済まない! 俺は最低の人間だ! コウモリ傘を閉じて脇に抱え、抱き起した自転車を引きずって駆け出した。ペダルがむき出しの脛にぶつかって、その度に転びそうになる。飯島の屋敷が見えてくる。門の前まで辿り着いて、俺は立ち尽くした。

 門扉は閉まっていた。俺は今までで一番長い時間、門の向こう側を眺めていた。全身がずぶ濡れになった頃、自転車もずぶ濡れになっていたことに気が付いた。

 いたたまれなくなって門の前からも逃げ出した。それでも自転車を置き去りには出来なくて、俺はまた、自転車を引きずりながら自分の家へ走った。雨が容赦なく顔に降りかかって俺は息が苦しくなる。最低だ! 俺は最低の人間だ! 息も絶え絶えになって、ようやく自宅の庭に転がり込んだ。

 自転車を納屋の屋根の下に停める。ずぶ濡れの身体のまま、前輪の上のバスケットから後輪の脇のスタンドまで、頂き物の新品のタオルを何枚もおろして自転車を拭いた。グリップ、ペダル、サドル。俺が触れたせいでけがしてしまった部分は、特に念入りにタオルを何度もこすりつけた。

 丘高のステッカーが貼られた泥除けは、どれだけ拭いても真新しさが戻ってこなかった。必死になっているうちに、飯島本人を拭っているような気分になっていたことに気が付いた。最低の俺は、最悪の変態でもあったことを思い知る。俺は自分が恐ろしくなった。

 家に入って熱いシャワーを浴びた。転んだ時に引っ掻いた肘や、ペダルをぶつけた脛が痛む。何もやる気が起きない。部屋の畳に寝転んで目を開けたまま、土屋と歩いた道を、飯島の自転車と歩いた道を、逃げるように登った坂を辿り直した。

 飯島に付け込もうとした俺の罪は償えない。それなのに、この期に及んでも飯島に期待している俺が、俺の中にいることが分かる。俺はそいつを嗤おうとして、逆に嗤い返される。自分を責めることに耐え切れなくなって、今度は黒崎とナオを恨もうとする。どうしてこんな最低で最悪の俺なんかを、飯島に近付けたりするんだ?

 そうだ。飯島のメールを全部消してしまって、俺は消えてしまおう。青いTREK FXに乗って、上田の街から逃げ出してしまえばいい。

 いても立ってもいられなくなって起き上がる。バッグを喫茶店に忘れたことに気が付いた。ナオに会ってしまうかもしれない。自転車も土屋の家に置きっ放しだった。飯島に会ってしまうかもしれない。連れ帰ってしまった自転車も返さなくちゃならない。俺は逃げることもままならない。なによりも、いまだに何かを期待して、逃げるのは損だと思っている汚らしい俺が、俺の中にいる。

 ようやく、俺なんかにも出来ることと、やるべきことに思い至った。心から、飯島とナオに詫びることだけだ。こんなにも汚らしい気持ちを抱えて飯島とナオに関わっていたことを全部明かして、軽蔑されても拒絶されても耐えてみるしかない。それでも耐え切れなくなったら、その時こそ俺は消えよう。

 土屋から預かった黒い大きなコウモリ傘を抱えて、俺は家を出た。納屋では飯島の自転車が俺にそっぽを向いていて、隣にあるべき青い自転車も今は無い。俺はもはや自分の身勝手のためだけに、歩いて街に降りることにした。

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