第14話「自転車(三)」矢沢陸人(六月)後編

 午後六時過ぎ、喫茶店に戻るとナオがいて、藤井の隣に座っていた。俺に気が付くと右隣の椅子に置いてあったバッグを持ち上げる。俺のバッグだった。

 俺はナオの隣に座った。ナオはニコニコしながら脚をぶらぶらさせていて、藤井は写真集らしき本を眺めている。他にも二人連れの客がいたけれど、離れたテーブルに着いていた。

 俺は喫茶店に辿り着く前から溢れそうだった言葉を、場もわきまえずにナオに切り出した。

「ナオ、済まない!」

「うん」

 ナオは話も聞かずに頷いた。

「俺は飯島に近付きたくて、飯島とナオが別れた理由を詮索してた」

「うん。別にいいじゃない?」

 俺は少し声を荒げた。

「良くない! 俺は汚い。飯島とナオのため、なんて言い訳で自分を騙してた」

「いいじゃない、汚くても」

「誠実ぶって近付いて、飯島とナオが別れて欲しいなんて考えてた」

 ナオが俺の方を向いた。俺の目を真っ直ぐに見て無邪気な笑顔を浮かべる。少し息を吸ったように見えた。

「いいじゃない。リックは前からずっとそうだったし、なんにも悪いことじゃない」

 え!? 俺は混乱した。前からずっとそうだった? いつから? メール交換を始めてからか? 祭りで再会してからか? それとも付き合い始めたと聞いたその日からなのか?

 ナオは俺のことを、ずっとそう思ってきたのか? いや、俺はずっとそんな気持ちを、飯島とナオに抱いてきたのか?

 視界の端にジンジャーエールが置かれた。はっとして前を向くと、髭の店員が微笑んで言った。

「これ、さっき飲み忘れたやつ」

 喉が激しく乾いていたことに、ようやく気が付いた。俺はストローも使わずに、けものみたいにゴクゴクとジンジャーエールを飲み干した。飲み忘れたやつなんて嘘だ。キンキンに冷えていて、炭酸が弾けてのどに沁みる。

「ねえリック」

 ナオが口を開いた。

夏穂かほのことばっか想ってるリック以外と、ぼくはしゃべったことがないよ?」

 その通りかもしれない。飯島のこと以外、飯島に関わる俺のこと以外、何も考えちゃいなかった。今だってそうかもしれない。

「だから、いいじゃない。それよりぼくも詮索したいんだけど、誰にどんな話を聞いたの?」

 一瞬、話すべきかどうか迷った。だけどナオに詫びにきた俺が、隠しごとなんてしてはいけない気がした。

「黒崎から、飯島とナオが別れたって聞いた」

 ナオの笑顔が一瞬、消えた気がした。気のせいだったかもしれない。目の前のナオはやっぱりニコニコしている。その向こうで藤井は、俺がここに座った時と同じ姿勢で、同じ写真を眺めている。

「いつ?」

「班活の、昼休みに」

「そっか。それから?」

「土屋と一緒にナオん家に行って、ナオの母さんから、飯島とナオがきょうだいだって聞いた」

「知ってたんだ? キミコん家」

「黒崎が教えてくれた。飯島の居場所は知らなくていいのかって」

 笑顔がまた消えた気がした。俺は、ナオを慎重に観察する。

 違和感の原因に思い至る。ぶらぶらさせていた脚が、少し乱れていた。

「そっか!」

 ナオが小さく叫ぶ。その声に俺はどきっとした。ナオの変化に気が付いたことを、気付かれてしまったのかと思った。

「ほかにはないの?」

 ナオは瞳を真っ直ぐ俺に向けてきた。わくわくしたような顔で聞いてくる。藤井はまだ、同じ写真を眺めている。

「ほかには……ナオが、飯島に吐いた嘘を聞いた」

「嘘なんかついてないよ。なんて聞いたの?」

「ごめん、付き合いたい人ができた、って。嘘吐いたんだろ?」

「嘘じゃないよ。ぼくは付き合いたい人がいる。だからここに来たんだ」

 ナオはニコニコしたままカウンターに向き直って、水を飲んだ。

「ねえアズサ」

 俺の存在を忘れてしまったように、ナオは藤井に話しかけた。本に目を落としていた藤井がビクンと動いて、ナオの方を向いた。

「初めて会った時にしたお話、覚えてる?」

「え? あー、うん。大体は」

「ぼくと付き合って欲しい。お互いわかり合うところから」

 俺は驚いた。憤慨とか侮蔑とか、感じている余裕も無かった。藤井も目を見開いて、落ち着いた頃にようやく返事をした。

「えーと……あの話? そんなの無理でしょ」

「ぼくじゃ嫌なの?」

「そうじゃないけど、虫が良すぎない? 私は賭けの保険じゃないんだよ?」

 藤井は冷静な様子で、ナオに諭すように答える。

「保険じゃないよ? アズサは、ぼくが春から一番たくさんおしゃべりしてる人だよ」

「保険でしょ?……だって、ナオ、別れたばっかりじゃん」

 ナオは藤井を覗き込んでいて、俺には表情が見えない。藤井は顔をナオに向けたまま、気まずそうに目を逸らした。

 俺もようやく驚きから覚めて、藤井の意見に同意した。飯島はおそらく、今もひどく悲しんでいる。ひどく苦しんでいる。なのにナオは無自覚な犯罪者みたいに、今日別れ話をしたその口で、藤井に交際を迫っている。

 これを憤慨するのは俺の身勝手か? そうかもしれない。二年以上も無為な片想いを引きずって、二ヶ月も汚らしい願いを押し隠していた俺を尻目に、ナオは独りで軽々と、別れを乗り越えようとしている。

夏穂かほとヨリが戻るなんてことないよ? きょうだいだし」

「そういう問題じゃないでしょ?」

「じゃあ、いつまで待てばいいかな?」

「えっ? ……しつこいなぁ。ええと、なんか、色々落ち着くまで!」

 藤井は少しイライラしたようだった。俺は恋の告白というものに、もっと甘いやりとりを想像していた。これでは押し売りだ。まだ拒絶されていない自分、というカードを一枚手に持って、ナオは駆け引きを楽しんでいるようにさえ見える。

「ぼくはもう落ち着いてるよ?」

「嘘」

「嘘じゃないよ?」

 ナオはまだ藤井を覗き込んでいる。目を逸らしていた藤井は、ようやくナオを見返した。初めは睨みつけるような目付きだったけれど、次第に訝しげな目線に変わる。藤井の瞳を覗けば、映り込んだナオの表情も見えるかもしれない。俺が目を凝らそうとした時、藤井はついに呆れたような目になった。ナオの口が開いた。

「アズサが、ヤキモチ妬いちゃうからでしょ?」

「私は妬かないよ!」

「だったらいいじゃない? 早く一緒にお散歩いこうよ」

 呆れたような目に、諦めのような色が混ざった。藤井もナオのことを悪くは思っていなかったのだろうか、完全な拒絶をしようとはしない。

 ナオは今、何をやらかしているんだろう。状況とか経緯とか、わだかまりなんかも一切、気にもかけずに、藤井の偽らざる本心を引き出そうとしているように見える。

「もう、分かったよ。今から言う条件を呑めるんだったら、考える」

「うん。うれしい!」

 本当に嬉しそうな声に、藤井がたじろいだようにみえた。

「……期間は半年。延長を決められるのは私だけ」

「うん、いいよ。うれしい!」

「……中途解約できるのも、私だけ」

「うん。ほんとうれしい!」

 ナオは質が悪い。うれしい、うれしい、を連呼する無邪気な声に、藤井は調子を狂わされている。

「本当にいいの?」

「うん! うれしい!」

 俺には、藤井がナオのペースに乗せられてしまったようにみえた。飯島もまた、こんな風に押し切られたのだろうか。そう思い至っても、不思議と怒りも失望も感じなかった。今の俺には分かる。そもそも、純粋に誠実な人間なんていやしない。結局はどこかに汚らしい自分の欲がある。だからこそナオは、身勝手さを曝け出して藤井を試しているようにも見える。

「えーと、ヘンなことは何にもしないこと。私、結婚前に急いじゃうような人は信用できない」

「うん。わかった」

「本当に分かってる?」

「うん。ただ、お散歩するとき、手をつなぎたかったんだけど」

「えっ? えっと、じゃあ、手をつなぐところまで」

「うん。ぼくうれしい!」

 ナオは右手を藤井に差し出した。藤井は戸惑いながら、怖ず怖ずと手を握り返す。落ち着かない様子で視線を泳がせて、ふと俺と目が合った。我に返ったように藤井は手を引き抜いた。

 ナオは俺に振り返ってしれっとした口調で言う。

「ぼく、アズサと付き合うことになったから。夏穂かほをよろしく」

 俺は呆気にとられるしかなかった。後ろから藤井の声が聞こえる。

「ナオ最低! やっぱやめる」

 ナオは急いで藤井の方を向く。どんな表情を見せたのか、藤井は少し驚いたような顔で小さく口を開けた後、苦笑してため息をついた。



 翌日、朝から曇り空だったけれど、雨は降っていなかった。俺は、一足早く梅雨明けを迎えた気分だった。俺の心の中は、惨めなくらい卑屈な気持ちや、軽蔑したくなるほど汚い企みや、哀れみたくなるほど空しい言い訳なんかで一杯だった。それを認めてしまった今となっては、本当に自分が望んでいることに、目を向けられるようになった気がする。

『預かっている自転車を届けます。少し会えますか』と、午前十時を待って飯島にメールを送った。その後は、ずっと飯島の自転車の整備をしていた。

 午後五時を過ぎて返事が来た。『6時ころおねがいします』俺はすかさず『六時に近くの新田しんでん公園でどうですか』と入力する。メールを待ち焦がれていたことを気味悪がられやしないかと躊躇して、少しだけ送信を遅らせようとした。二分待つのが限界だった。


 日没までは時間があった。なのに曇り空の下の新田しんでん公園は薄暗くて、桜の葉緑もくすんで見えた。飯島は部屋着のような格好で出てきた。パーカーみたいな白いTシャツに、ジャージのハーフパンツ。シャワーを浴びたのか髪は濡れていて、拍子抜けするほど明るい表情をしていた。

「いやー声かれちゃってて」

 泣きすぎたせいなのか? 俺はなんて声をかけたらいいのか分からない。

「今日ずっと、キミたちとカラオケいってた」

「カラオケ?」

「そ。ヒトミなんか容赦ないよ? 失恋ソングばっか選ぶし。聴いたらまた泣いちゃって」

 飯島は、失恋で泣いたこともさらりと話す。俺は飯島の強さを眩しく感じた。

「あ、自転車ありがと。あと、昨日も」

「ああ」

 俺はグリップを握る手に力を込めた。自転車を返したら、飯島はそのまま帰ってしまう気がする。詫びならおそらく、今しかない。

「飯島、済まない!」

「え、え、なに?」

 飯島の視線は、俺じゃなくて自転車に向かった。自転車を壊したんじゃないかと思ってるのかもしれない。

「昨日いろいろ動いてたのは、飯島のためじゃなかった」

「ん?」

「俺自身のためだった。毎日送ってるナオの写真だって、純粋に飯島のためってわけじゃない」

 後ろ手を組んでいた飯島が少し首を傾げた。何があったって汚れることがない、白い百合の花みたいだ。

 花が揺れた、そう思った時、飯島は少しだけ気まずそうな笑顔を浮かべて言った。

「いやー、さすがにわたしでも、なんとなく気付いてたんだけど」

「気付く?」

「いいじゃない? わたしもナオの写真、欲しかったし」

 飯島は、人の恋心を利用したこともさらりと話す。俺は苦笑するしかなかった。

 自転車を手渡しながら、伝えるべき最後の話をする。これで俺は、いつでも消えられる。

「俺は卑怯者だ。今も、別れたばかりの飯島に付け込もうとしてる」

 飯島は受け取った自転車に目を落とす。サドルを撫でながら、ふっと微笑んだ。

「矢沢くん、誠実なひとだね」

 違う。ただの下心ばかりだ。俺は黙ってうつむきかける。ほんの数メートルの川幅しかない黄金沢川こがねざわがわから、音量は小さくても激しい水音が聞こえる。

 突然、飯島は叫んだ。

「ほんとのこと言って!」

「えっ!?」

「……って言われたら、ぜったい言っちゃうでしょ?」

 どきっとした。俺は慌てて答えた。

「あ、ああ」

「矢沢くん、わたし今回のことで思ったんだけど」

 飯島は、優しい表情で話し始める。

「誠実さって、その人のこころの中なんてどうでもいいんじゃないかな? 態度とか結果とかの積み重ねを、受け取る方がどう感じるかで、決めちゃえばいいような気がしたんだよね」

 飯島はグリップを握り直して、屋敷の方を振り返った。

「ほんとは何考えてるかわかんないくらい誠実なひと、知ってるから。矢沢くんも結局、誠実なことばかりしちゃうんだと思うよ」

 そこまで誠実な人が誰なのかは俺には分からない。でもその人はおそらく、俺が飯島に会うよりずっと前から絶え間なく、たくさんの態度と結果で、飯島を大切にし続けてきたのだと思う。

 俺は天使に救われた気がした。薄暗い公園に一輪、眩しく咲いた白い百合は、人の恋心をちょっと利用したりもするけれど、やっぱり何があったってけがれることはないように思える。

 微笑んでいた飯島の横顔が、苦笑いに変わった。

「あ、ナオのことじゃないよ? ひどいよね、あのうそつき!」

「ナオが嘘吐き?」

「だって、付き合いたい人ができた、なんて言うんだよ? ほんとのこと言ってくれればよかったのに。……勘違いして、キミにひどいことしちゃった」

「え? だって……」

 俺はてっきり、飯島は何もかも知っているのだと錯覚していた。飯島は俺の不用意な言葉と戸惑った顔を見逃さなかったのか、はっとした表情を見せる。飯島は、なんとなく、気が付いてしまったように見える。

 しまった。俺はナオに嵌められた。昨日言っていた、夏穂かほをよろしく、の意味をようやく理解した。ナオは、最初から俺の下心に気が付いていたと言ったけれど、誠実にしか振る舞えない不器用さにも気が付いていたに違いない。

 飯島の疑念が確信に変わる前に切り上げよう。そう思った時には手遅れだった。飯島は俺の顔を見ていた。失恋で泣いたことをさらっと話した時の、少し無理をした笑顔はどこにもない。

「矢沢くん。だって、って、なに?」

 怒りでも悲しみでもない、無表情の中に凄みだけがある。瞳が光を帯びて、俺を射るように見ている。

「ナオ、なんか、あったの?」

 飯島の声が震えている。俺は反射的に目を逸らす。

「ほんとのこと言って!!」

 飯島は叫んだ。抗えなくなって飯島の目を見る。俺が何かを答える前から、飯島の目には涙が溜まり始めていた。

「ナオは、昨日……」

 まだ引き返せる。このまま黙って逃げ帰ったっていい。飯島が追いかけてきたら、振り切ってしまえばいい。でも、俺は全部言ってしまいそうだ。口下手だからか? 不器用だからか? ナオのせいか? 飯島に抗えないからか? 俺が、誠実だからか? 全部、全部違う。飯島の自転車を拭う自分が最悪の変態だと気が付いた時なんか比べ物にならない。俺は、自分の中に恐ろしいものを見た。果てのない昏い穴だ。俺は、俺の言葉で飯島がナオに呪いの言葉を吐いて、俺の声で飯島が絶望する姿を、心から見たいと望んでいる。それも今、思ったわけじゃない。ナオの写真が欲しくて俺とのメールを利用していたと知ってから。あの薄汚いナオのアパートで飯島の自転車を見かけてから。祭りですっかり垢抜けた姿を見てから。ナオと付き合い始めてから。高校が別れてしまってから。中三でクラスが離れてしまってから……ずっと、ずっとだ。

「彼女、出来たよ」

 飯島はゆっくり口を開けて、目を瞑りながらうつむいた。何かつぶやき始めて、次第に声が大きくなる。なんで? なんで? なんで? 同じ言葉を繰り返しながら、飯島は嗚咽を始める。ナンデ? ナンデ? ナンデ? 声は叫びと変わらなくなって、ついには意味を為さなくなる。飯島が、喉の奥から声ともつかない音を出して泣き叫んでいる。春の夜中に聞こえる、猫の叫びみたいだ。

 俺は心というものを甘く見ていた。

 想いを遂げるまで、この穴は決して塞がらない。それどころか、目を逸らすほど深く昏くなっていく。だったら、とことん拒絶されるまで続けるしかない。この底無し沼のような片思いを。幸いにも俺は、誠実さ、という言い訳が無ければ、余計なお節介も報復も出来ない卑怯者らしい。この一線を超える日が来たら、その時こそ俺は消えようと決心した。この世から。

 今、俺がとどめを刺してしまった飯島が、目の前で泣き叫んでいる。俺の理想そのものだった飯島の顔が、生まれたての赤ん坊の泣き顔みたいに真っ赤につぶれて、涙も鼻水も涎まで、垂れるがままにさせている。

 もちろん、俺は見蕩れた。飯島の心が、無様なくらいに活き活きと身悶えしているその姿に。

 俺にはまだ出来ることがあった。ずっと前からしなくちゃならないことだった。自転車を挟んで、俺なんかには目もくれずに泣き叫ぶ飯島の隣に立った。涙を拭うためじゃない。抱きしめるためでもない。グラグラ揺れる飯島の自転車のサドルをがっしりと掌で押さえつけて、俺もけだものみたいに哭いた。自分のために。

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