第12話「鉤の手」立石直(六月)後編
土曜の九時になった。カーテンを閉め切ったアパートの部屋は本も読めないくらいに暗くて、一昨日から出しっぱなしにしてた「はるになったら」を、ぼくは踏んづけてしまった。
押入れの前では、畳に直接敷いた布団の上で、ホットパンツとキャミソール姿の母さんが眠ってる。タオルケットをかけようと思って近付いてみたら、部屋の蒸し暑さでうっすら汗をかいていた。表情は穏やかで、なぜだかぼくは安心した。
玄関のドアがトントン、と鳴る。カホが来てしまった。
♦
すぐにでも雨が降り出しそうな、薄暗い空だった。つい憂鬱な気持ちで見上げると、カホはすぐに、いつも通りじゃないぼくに気付いた。
「どうしたの? ナオ、体調悪い?」
「わるくないよ」
「ほんと?」
「うん」
ぼくはいつも、傘を持たずに家を出る。
外から鍵をかけてポケットに入れて、すぐにカホの手を取る。どちらともなく歩き出して、手をつないだまま階段をかん、かん、と降りる。カホは自転車にひっかけてあった傘を手にとって、今度は自分の左腕にひっかける。
それからわざわざ身体をかがめて、ぼくの顔をすくい上げるように見る。
「ナオ、今日はお散歩の日だね」
ぜんぶいつも通り。
「うん。お城へ行こう。カホ」
自分で別れるって決めたのに、こころから別れたくないと思う。そんなことってあるんだ。
♦
「そういえば昨日の夜中に、キミからへんなLINE来てて」
「どんなの?」
「九時ってはやくね? カホもいっしょ? って書いてあった」
「返事した?」
「ううん。もうちょっと後で。九時だと早いみたいだから」
「うん」
ぼくは、カホの手を握って歩き出した。
朝の
ぼくらがこんな風に手をつないで歩けるのはきっと今日が最後。そう思うと、いつも通りの景色がこころの隅々にしみ込んできて、涙が込み上げてきそうになる。想い出って何のためにあるんだろう。もしもそれがこれから、カホにつらい思いをさせるのなら、ぼくがぜんぶ吸い込んでしまいたいと思う。
「やっぱなんか変だよ。ナオ、ぼうっとしてる」
「変じゃないよ?」
「熱があるかどうか、わかんない」
手を離すと今度は、ぼくの首の後ろに回して、ぐっと力を込めてくる。おでことおでこが音もなくぶつかる。カホの息づかいが聞こえる。一、二、三。こころで十まで数えたとき、やっぱりカホは顔全体を押し付けてきて、少し経ってから離れた。
「へへぇ。やっぱ、わかんなかった」
「熱なんてないよ」
「そ?」
♦
ぼくらは
「来週、松高祭だね」
「うん。丘高もそうだよね」
「なんで日程同じなんだろ。観にいけないじゃん」
こんな一言でもぼくは、ぼくの中に隠し持っている未来にこころをかき乱される。今、という現実を未来につなげるのに、人間の意思が要るってことを思い知る。
「ん? ナオも残念がってるの?」
「うん。すごく残念」
「へへぇ」
アズサの住むマンションが見えた。
中央交差点は青だった。ぼくはわき目もふらずに渡ろうとする。カホの手に力が込められて、ぼくは少し、手が痛くなる。カホは顔を横に向けて、ぼくの様子を見てる。ぼくはいつもの通り、ぜんぶいつも通り。すっとぼけて、ニコニコしながら歩いてる。
「やっぱ変。すごく変」
カホはぼくをよく見てくれてる。
「うん。ちょっと気になってて」
そろそろだ。ぼくは言ってみた。
大手門の鉤の手を過ぎて、市役所前の交差点が見える。ぼくは歩き続ける。カホのこころがざわつき始めるのがわかる。
「なに? なにが気になってんの?」
「うん。ちょっと」
「ちょっとじゃわかんない」
「着いたら話すよ」
「今、話してよ」
「うん」
右へ曲がるとキミコの家のほうだ。ぼくはちらりと右を向く。カホもつられて横を向く。ぼくはちょっと歩みを速めてまっすぐ進む。カホがちょっと慌ててる。いつも気にしなくてもぴったりだったカホとぼくの足取りが、二ヶ月ぶりにばらばらになっていく。
「ナオ!」
「うん」
「まってよ!」
「うん」
ぼくのすっとぼけた顔はもう、カホには通用しないみたい。カホはいつだってぼくのぜんぶ、ぜんぶをよく見てくれてた。しゃべり方、食べ方、笑い方、拗ね方、考え方、感じ方、触れ方、それから、眠り方。
ぼくだってそうだ。カホのことなら、ぼくはカホよりもよく見てた。本当に大切だった。
♦
二の丸橋の正面に着いた。大手の信号は赤だった。カホは不安げで、少し興奮し始めてた。
「ねえナオどうしたの? なんかあったの?」
ぼくはもう、たまらない気持ちになってしまった。信号待ちの交差点で、カホ、とつぶやいて首の後ろに腕を回す。ぐっと引き寄せて、カホのおでこにおでこをぶつける。
「やー、ちょっと、はずかしい」
カホはかすれた声で言う。ぼくは迷った。今まで生きてきてたぶん一番迷ったと思う。さっきのカホみたいに、ぼくもここでカホに顔全体を押し付けてしまいたい。そうしないときっと後悔する。でも、そんなことをしたら、この後カホはもっと混乱して、やっぱりぼくは後悔する。
カホの匂いがする。覚悟を決めたみたいに、目を閉じてくれている。
ぼくも覚悟を決めた。そのまま顔を離して、回した腕をほどいた。
「ええー?」
青になった信号をぼくは渡り始めた。からかわれたと思ったのか、カホは足音を強めてついてくる。
「ナオ、ひどいよー」
「うん」
「ちょっとー」
「うん」
「そういえばさーナオってさー」
カホは少し怒り始めてる。
「一度もあやまってくれたことないよねー」
「うん」
カホがぼくの隣に並ぼうとする。ぼくは前を向いたまま、二の丸橋をわたってケヤキ並木に向かう階段をくだる。
「ちょっと今日のナオ、ひどすぎない?」
「うん」
カホが駆け寄ってくる。
「ねえナオっ!」
プラットフォーム跡に降りかけて、ついに腕をつかまれた。ぐい、と引っ張られてぼくはよろける。なんとか踏みとどまって、カホの正面を向いた。
「どうしたのっ? ねえっ?」
叱ってくれるカホは見たことは何度もあったけど、ぼくを怒ってるカホを見たのは初めてかもしれない。こんな時なのに、ぼくはカホに見とれてしまう。
「なんか言ってよっ!」
ぼくはとぼけた顔から、ゆっくり深刻そうな顔に変えてみせる。カホもきっと初めて、ぼくのこんな顔を見たんだろう。ひるんだのがわかる。
「カホ」
カホはこたえなかった。
「カホ」
「……なに?」
さっきとは違うかすれた小声だった。ぼくは小さく息を吸い込んで、一生言わないだろうと思ってたことばをカホに告げる。
「ぼくはカホと別れる」
カホの表情から、怒りもひるんだ色も消えた。
ぼくはカホの眼をじっと見ていた。カホもぼくから目を離さない。まばたきをしないでいると、カホが知らない人みたいに見えてくる。すごく好みのタイプの女の子が、ぼくと向き合って視線を合わせてくれてる。
カホが口を開こうとしたとき、今度は大きく息を吸い込んで、やっぱり一生言いたくなかったことばを告げた。
「やだ!」「ごめん! 付き合いたい人ができた」
目を見開いてるカホが見えた。
けやきの木々が枝一杯に葉を繁らせて、しめった優しい手をカホに差し伸べている。カホはそんなことにはお構いなしに、春からずいぶん伸びたミルクティ色の髪を、さわさわと乱し始める。
カホの目が鋭く尖った。睨まれて、ぼくは胸がとくんとした。そうか、これが憎しみっていうんだ。
「だれ?」
これ以上、カホに言うことなんてなにもない。ぼくはいつものとぼけた顔に戻ってみせる。
「だれなの?」
いたたまれない気持ちになる。視線をふと、カホのポーチに落として戻す。そんな小さな動きにも、ぼくをよく見てくれてるカホは、ちゃんと気付いてくれる。
「もしかして」
ぼくはカホから視線を外して、歩き出した。背中から叫ぶような声が聞こえる。
「キミ!?」
振り返らずに階段をのぼる。足音が近付いてきて、ぼくを突き飛ばした。
「キミなのっ!?」
ぼくは姿勢を戻して、また階段を上り始める。ぼくはもう、ぼくらの未来を捨ててしまって、別の未来に向かって歩き始めてる。
「キミもナオも許せない! ぜったい、キミには会わせない!」
カホが階段を駆け上がっていく。なんとなく勘違いさせちゃったかもしれない。今度はぼくが追いかけた。
大手の信号は、また赤だった。カホは飛び出そうとする。ぼくは力一杯カホの手をつかんだ。
「はなしてっ!」
まだ駄目。あと十秒くらい。
「はなしてよっ!」
もしも今、カホを身体ごと抱き寄せたら、きっとぜんぶ、元通りにできる。
「あんたなんかしんじゃえ!」
鳩の鳴き声みたいな音が聞こえ始めて、ぼくは手を離した。カホは立ち止まったままだった。ぼくがつかんだ指の痕がとても痛そうに見える。
ぼくは黙ってカホの横を通り過ぎて、横断歩道を渡り始めた。カホはまた走り出して、ぼくを追い越していく。
「ぜったい会わせないっ!」
カホの後ろ姿は、鉤の手に消えてすぐに見えなくなった。
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