第12話「鉤の手」立石直(六月)後編

 土曜の九時になった。カーテンを閉め切ったアパートの部屋は本も読めないくらいに暗くて、一昨日から出しっぱなしにしてた「はるになったら」を、ぼくは踏んづけてしまった。

 押入れの前では、畳に直接敷いた布団の上で、ホットパンツとキャミソール姿の母さんが眠ってる。タオルケットをかけようと思って近付いてみたら、部屋の蒸し暑さでうっすら汗をかいていた。表情は穏やかで、なぜだかぼくは安心した。

 玄関のドアがトントン、と鳴る。カホが来てしまった。



 すぐにでも雨が降り出しそうな、薄暗い空だった。つい憂鬱な気持ちで見上げると、カホはすぐに、いつも通りじゃないぼくに気付いた。

「どうしたの? ナオ、体調悪い?」

「わるくないよ」

「ほんと?」

「うん」

 ぼくはいつも、傘を持たずに家を出る。

 外から鍵をかけてポケットに入れて、すぐにカホの手を取る。どちらともなく歩き出して、手をつないだまま階段をかん、かん、と降りる。カホは自転車にひっかけてあった傘を手にとって、今度は自分の左腕にひっかける。

 それからわざわざ身体をかがめて、ぼくの顔をすくい上げるように見る。

「ナオ、今日はお散歩の日だね」

 ぜんぶいつも通り。

「うん。お城へ行こう。カホ」

 自分で別れるって決めたのに、こころから別れたくないと思う。そんなことってあるんだ。



「そういえば昨日の夜中に、キミからへんなLINE来てて」

「どんなの?」

「九時ってはやくね? カホもいっしょ? って書いてあった」

「返事した?」

「ううん。もうちょっと後で。九時だと早いみたいだから」

「うん」

 ぼくは、カホの手を握って歩き出した。

 朝の袋町ふくろまち人気ひとけがなくて、夜よりずっとひっそりしてる。いろんな色の看板が、さっきの母さんみたいに穏やかな顔で眠ってる。

 ぼくらがこんな風に手をつないで歩けるのはきっと今日が最後。そう思うと、いつも通りの景色がこころの隅々にしみ込んできて、涙が込み上げてきそうになる。想い出って何のためにあるんだろう。もしもそれがこれから、カホにつらい思いをさせるのなら、ぼくがぜんぶ吸い込んでしまいたいと思う。

「やっぱなんか変だよ。ナオ、ぼうっとしてる」

「変じゃないよ?」

 袋町ふくろまちの出口でカホは立ち止まって、ぼくのおでこに手をあててくれる。カホの手はあったかい。ぼくは寒がりだから、秋とか冬にも手をつないでみたかった。

「熱があるかどうか、わかんない」

 手を離すと今度は、ぼくの首の後ろに回して、ぐっと力を込めてくる。おでことおでこが音もなくぶつかる。カホの息づかいが聞こえる。一、二、三。こころで十まで数えたとき、やっぱりカホは顔全体を押し付けてきて、少し経ってから離れた。

「へへぇ。やっぱ、わかんなかった」

「熱なんてないよ」

「そ?」



 ぼくらは袋町ふくろまちを出て、海野町うんのまちのアーケードを歩く。歩道をお掃除してくれてるおばちゃんに挨拶したり、支度中のお店の中をちらっとのぞいてみたり、自転車で追い越していく高校生を目で追ってみたり。

「来週、松高祭だね」

「うん。丘高もそうだよね」

「なんで日程同じなんだろ。観にいけないじゃん」

 こんな一言でもぼくは、ぼくの中に隠し持っている未来にこころをかき乱される。今、という現実を未来につなげるのに、人間の意思が要るってことを思い知る。

「ん? ナオも残念がってるの?」

「うん。すごく残念」

「へへぇ」

 アズサの住むマンションが見えた。高市神社たかいちじんじゃの小公園の前を通る。運の石、なんて縁起の良い神石が飾られてる。ぼくが神様を信じたら、カホはつらい思いをしなくて済むのかな。それならぼくはこころからお祈りをして、ぼくが持ってるものなんかぜんぶ、ここにお供えしてしまうのに。

 中央交差点は青だった。ぼくはわき目もふらずに渡ろうとする。カホの手に力が込められて、ぼくは少し、手が痛くなる。カホは顔を横に向けて、ぼくの様子を見てる。ぼくはいつもの通り、ぜんぶいつも通り。すっとぼけて、ニコニコしながら歩いてる。

「やっぱ変。すごく変」

 カホはぼくをよく見てくれてる。

「うん。ちょっと気になってて」

 そろそろだ。ぼくは言ってみた。

 大手門の鉤の手を過ぎて、市役所前の交差点が見える。ぼくは歩き続ける。カホのこころがざわつき始めるのがわかる。

「なに? なにが気になってんの?」

「うん。ちょっと」

「ちょっとじゃわかんない」

「着いたら話すよ」

「今、話してよ」

「うん」

 右へ曲がるとキミコの家のほうだ。ぼくはちらりと右を向く。カホもつられて横を向く。ぼくはちょっと歩みを速めてまっすぐ進む。カホがちょっと慌ててる。いつも気にしなくてもぴったりだったカホとぼくの足取りが、二ヶ月ぶりにばらばらになっていく。

「ナオ!」

「うん」

「まってよ!」

「うん」

 ぼくのすっとぼけた顔はもう、カホには通用しないみたい。カホはいつだってぼくのぜんぶ、ぜんぶをよく見てくれてた。しゃべり方、食べ方、笑い方、拗ね方、考え方、感じ方、触れ方、それから、眠り方。

 ぼくだってそうだ。カホのことなら、ぼくはカホよりもよく見てた。本当に大切だった。



 二の丸橋の正面に着いた。大手の信号は赤だった。カホは不安げで、少し興奮し始めてた。

「ねえナオどうしたの? なんかあったの?」

 ぼくはもう、たまらない気持ちになってしまった。信号待ちの交差点で、カホ、とつぶやいて首の後ろに腕を回す。ぐっと引き寄せて、カホのおでこにおでこをぶつける。

「やー、ちょっと、はずかしい」

 カホはかすれた声で言う。ぼくは迷った。今まで生きてきてたぶん一番迷ったと思う。さっきのカホみたいに、ぼくもここでカホに顔全体を押し付けてしまいたい。そうしないときっと後悔する。でも、そんなことをしたら、この後カホはもっと混乱して、やっぱりぼくは後悔する。

 カホの匂いがする。覚悟を決めたみたいに、目を閉じてくれている。

 ぼくも覚悟を決めた。そのまま顔を離して、回した腕をほどいた。

「ええー?」

 青になった信号をぼくは渡り始めた。からかわれたと思ったのか、カホは足音を強めてついてくる。

「ナオ、ひどいよー」

「うん」

「ちょっとー」

「うん」

「そういえばさーナオってさー」

 カホは少し怒り始めてる。

「一度もあやまってくれたことないよねー」

「うん」

 カホがぼくの隣に並ぼうとする。ぼくは前を向いたまま、二の丸橋をわたってケヤキ並木に向かう階段をくだる。

「ちょっと今日のナオ、ひどすぎない?」

「うん」

 カホが駆け寄ってくる。

「ねえナオっ!」

 プラットフォーム跡に降りかけて、ついに腕をつかまれた。ぐい、と引っ張られてぼくはよろける。なんとか踏みとどまって、カホの正面を向いた。

「どうしたのっ? ねえっ?」

 叱ってくれるカホは見たことは何度もあったけど、ぼくを怒ってるカホを見たのは初めてかもしれない。こんな時なのに、ぼくはカホに見とれてしまう。

「なんか言ってよっ!」

 ぼくはとぼけた顔から、ゆっくり深刻そうな顔に変えてみせる。カホもきっと初めて、ぼくのこんな顔を見たんだろう。ひるんだのがわかる。

「カホ」

 カホはこたえなかった。

「カホ」

「……なに?」

 さっきとは違うかすれた小声だった。ぼくは小さく息を吸い込んで、一生言わないだろうと思ってたことばをカホに告げる。

「ぼくはカホと別れる」

 カホの表情から、怒りもひるんだ色も消えた。

 ぼくはカホの眼をじっと見ていた。カホもぼくから目を離さない。まばたきをしないでいると、カホが知らない人みたいに見えてくる。すごく好みのタイプの女の子が、ぼくと向き合って視線を合わせてくれてる。

 カホが口を開こうとしたとき、今度は大きく息を吸い込んで、やっぱり一生言いたくなかったことばを告げた。

「やだ!」「ごめん! 付き合いたい人ができた」

 目を見開いてるカホが見えた。

 けやきの木々が枝一杯に葉を繁らせて、しめった優しい手をカホに差し伸べている。カホはそんなことにはお構いなしに、春からずいぶん伸びたミルクティ色の髪を、さわさわと乱し始める。

 カホの目が鋭く尖った。睨まれて、ぼくは胸がとくんとした。そうか、これが憎しみっていうんだ。

「だれ?」

 これ以上、カホに言うことなんてなにもない。ぼくはいつものとぼけた顔に戻ってみせる。

「だれなの?」

 いたたまれない気持ちになる。視線をふと、カホのポーチに落として戻す。そんな小さな動きにも、ぼくをよく見てくれてるカホは、ちゃんと気付いてくれる。

「もしかして」

 ぼくはカホから視線を外して、歩き出した。背中から叫ぶような声が聞こえる。

「キミ!?」

 振り返らずに階段をのぼる。足音が近付いてきて、ぼくを突き飛ばした。

「キミなのっ!?」

 ぼくは姿勢を戻して、また階段を上り始める。ぼくはもう、ぼくらの未来を捨ててしまって、別の未来に向かって歩き始めてる。

「キミもナオも許せない! ぜったい、キミには会わせない!」

 カホが階段を駆け上がっていく。なんとなく勘違いさせちゃったかもしれない。今度はぼくが追いかけた。

 大手の信号は、また赤だった。カホは飛び出そうとする。ぼくは力一杯カホの手をつかんだ。

「はなしてっ!」

 まだ駄目。あと十秒くらい。

「はなしてよっ!」

 もしも今、カホを身体ごと抱き寄せたら、きっとぜんぶ、元通りにできる。

「あんたなんかしんじゃえ!」

 鳩の鳴き声みたいな音が聞こえ始めて、ぼくは手を離した。カホは立ち止まったままだった。ぼくがつかんだ指の痕がとても痛そうに見える。

 ぼくは黙ってカホの横を通り過ぎて、横断歩道を渡り始めた。カホはまた走り出して、ぼくを追い越していく。

「ぜったい会わせないっ!」

 カホの後ろ姿は、鉤の手に消えてすぐに見えなくなった。

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