第11話「鉤の手」立石直(六月)前編

「ナオ、おくち」

「ん、またやっちゃった」

 カホが微笑みながら、ペーパーナプキン代わりのティッシュでぼくの口のまわりを拭いてくれた。ぼくは上手にものを食べることができないみたいで、口の周りがすぐに汚れてしまう。

 六月半ばの土曜日。外は雨だったけど、ぼくらには一滴の憂鬱だってしみ込む隙間はない。今夜はナポリタンスパゲッティーを作ってみた。やっと味加減をほめられて、ちょっと気を抜いちゃったのかもしれない。

「ひじ、のせちゃだめ」

「あ、またやっちゃった」

 いつの間にか、テーブルにひじをついてたみたい。ほとんど放任されて育ったからか、ぼくには知らないマナーがたくさんあって、カホはちょっとずつ、ぼくに教えてくれている。

「なんか、子どもかおとうとができたみたい」

 カホはとてもうれしそうに笑う。ぼくはそんなカホにすごく感謝してるけど、まだまだ子供なんだってことを強く思い知らされる。

 デザートはビワだった。案の定、種がうまく出せなくて苦いところまで噛んじゃって、カホは笑いながらティッシュをぼくの口にあてがった。

「ナオ、果物ぜんぜんだめなんじゃない?」

「そんなことないよ」

「いちごとか?」

「うん。あと、種なしのサクランボとかブドウとか」

「ん? わたし、種なしって嫌い。ことばが」

「なんで?」

「なんか、こころがなくて、ぜんぶ食べられるためだけにいるみたいで、つらくなる」

「そっか」

 神妙な顔で話してるけど果物にこころなんてないし、カホの嫌いな食べ物はそれしかないんじゃない? と思うと吹き出しそうになる。

「ナオは嫌いなものないの?」

「食べ物なら、あぶらのかたまり」

「あははー、そーだった。それで、嫌いなことばはあるの?」

「嫌いってわけじゃないけど、なるべく言わないようにしてることばはあるよ」

「どんなの?」

「しぬ、とか」

「えー? ごめーん、わたしちょー使うよそれ」

 ぼくがなるべく言わないようにしてることばは、ほかにもいくつかあった。

 それは相手への誠実さとかじゃなくて、口に出したら取り返しがつかなくなる気がして、本当に大切な相手に、本当に大切な場面でしか言わないでおこう、と、ぼくが決めてただけだった。

「へへぇ……ねぇナオ、しぬほど好き」

「うん。うれしい」

「でしょ? ナオは?」

「ん?」

「しぬほど好き?」

「うん」



 カホがアパートに来るのはこれで八回目になる。雨だったから、今日の午後は材木町ざいもくちょうの図書館で過ごしたあと、スーパーで食材を買って五時半頃にアパートに帰った。

 海野町うんのまちから八百屋さんが無くなって以来、買い物はいつもすぐ近くにできた大きなスーパーマーケットに行ってる。ここにもぼくを覚えてくれてる人がいて、ぼくらはレジのおばさんや、ほかにも何人かのお客さんと挨拶を交わした。

 アパートへ向かう道、横町よこまちの交差点を渡るとき、母さんのお店の常連さんとすれ違った。ヒコさんがよく連れて来てくれる、六十歳近い感じのおじさん。ぼくが会釈をしようとすると、すっかり慣れっこになっちゃったのか、カホのほうから先に挨拶をした。こんにちは。照れ臭そうな小さな声だったけど。

 会釈を返してもらった少しあと、後ろから、かほちゃん? と聞こえる。ぼくは横断歩道で立ち止まって振り返って、ちがいますよ、と微笑んでこたえた。おじさんは、ばつが悪そうな顔をして、手刀を切って立ち去っていった。

 母さんはたしかに若く見えるし目立つほうだとは思うけど、見間違えられたカホはちょっと気の毒じゃないかな、なんて思いながら、先に行っちゃったカホを追いかける。

「歩いてると、いっぱい知ってる人に会うんだねー」

「うん」

 当たり前だよ? 人は、街を形づくる材料の中で一番大事な存在なんだから。

 カホはまだ、少し照れ臭そうにしてた。



 夕食のあと、ぼくらはちょっとだけ未来のことを話した。

「ナオ、夏になったら海いこ?」

「うん。行ってみたい」

「ね、ね、もしかして海、はじめて?」

 見たことはあった。小学校の修学旅行で横浜の山下公園へ行ったとき。ぼくが口をぽかんと開けて大きな船を眺めてたら、キミコがぼくの隣りに来た。キミコは時々しか見せないまじめくさったかわいい顔をして、チビリ、船のりたい? と訊いてきて、ぼくは、うん、とこたえた。

「うん。波、触ったことない」

「へへっ……ナオはじめてかぁ。楽しみー」

能生のうの海水浴場なら、早く電車に乗れば九時頃に着くみたい」

「えっ、電車で海っていけるの? ってかわたしたち、車じゃいけないよね」

「うん」

「ナオどうやって調べたの? スマホとかパソコンとかないのに」

「時刻表」

「駅に貼ってあるやつ?」

「違うよ。本」

「えっ? 時刻表って本あるの?」

「うん」

 海だけじゃない。ぼくは上田の街と、しなの鉄道の沿線以外、ほとんどどこにも行ったことがない。

「ナオ、キャンプもいこ?」

「うん。行ってみたい。でも、テント張れるかな?」

「だいじょぶ。ガールスカウトガールで結構いってたから」

「そうなんだ。火も起こせるの?」

「それはむり。バーベキューならできるよ? やるよね?」

 カホはおっとりした雰囲気に見えるけど、あんがい活発で大胆で世話好きで、そして食いしんぼうだ。

「バーベキュー、やったことない」

「え! そうなの?」

「よくやるの?」

「うん。パパがお庭でやってくれたり、会社のイベントに連れてってくれたり」

「そっか。……そういえば、明日は会えないんだっけ」

「うん。父の日だから、パパのことお祝いしないと」

 カホは出会った日こそ言い直してごまかしてたけど、すぐにパパ、と言うようになった。ただ、ぼくとおんなじで気恥ずかしいのか、カホの家族にはまだ会わせてもらえてない。

「いつか、ナオもいっしょにお祝いしよ? 父の日」

「うん」

「うん、いつか、ぜったい」

 海でも山でも父の日でも、カホはぼくの初めてを一緒に過ごすのがすごくうれしいみたい。ぼくらにはたくさんの初めてがありすぎて、どれだけ時間があっても足りないくらいだった。



「よろしくお願いします、ジュンさん」

「ナオ、お客様」

 木曜日の五時ちょっと前、珍しく晴れ間が見えた日だった。

 学校でタカとおしゃべりをしてたぼくは、いつもよりちょっと遅れてカフェに帰った。ぼくを待っているという知らないおじさんは、アズサの定位置に座っちゃったみたいで、アズサは二つ開けた右側に座っていた。

「こんにちは。ぼくに何か」

「ナオ君ですね? 私は飯島です。飯島ユキヒコと言います」

「はい」

「ご相談があります。一緒に来ていただけますか?」

 ユキヒコさんは小柄で痩せてるけど、濡羽色ぬればいろのスーツがぴったり合ってて上品な感じがした。四十代後半くらいに見える。一目見てなんとなくわかる。カホのパパだ。ぼくを見る大きな目に、真剣さがあった。

「ナオ、行ってきなさい」

 ジュンさんが言う。優しい声だったけど、命令みたいな話し方をすることは、少なくともここ五年間はなかった。逃げるつもりはないけど、良くない話が待ってるような気がした。

「ユキヒコさん、この格好のままでいいですか?」

 ぼくはクロップドパンツにTシャツ。ちゃんとしたスーツのユキヒコさんに、ちょっと失礼な気がした。

「構いません。行きましょう」

 ユキヒコさんはコーヒーを飲み干して立つ。オーダーシートは置いてなかった。

 ぼくは黙ってついていく。向かいの駐車場に車があった。よくCMで見かけたプリウスに似てたけど、CMとは少し顔つきが違う。黒い車はとても綺麗に手入れされていて、ところどころに晴れ間が見える空が、鏡みたいにボンネットに映り込んでいた。

 ドアまで開けてもらって、ぼくは助手席に座った。

「いきなりで申し訳ありません」

 音もなく車は走り出した。ユキヒコさんは、前を向いたまま話を始める。

「私は、夏穂かほの家族の者です」

「はい」

夏穂かほは、今日、私がナオ君と会っていることを知りません」

 ユキヒコさんのほうを見た。左腕の時計は長針と短針が一直線になって、SEIKOとSと書かれた文字を斜めに横切っていた。

「ちょっと、静かなところで話をさせてください」

「はい」

 車は横町よこまちの交差点で曲がって鍛冶町かじまちを抜け、突き当たって川原柳町かわらやきまちを進む。いつもなら誰かと挨拶を交わしながら歩いてる道なのに、街行く人がミニチュア写真みたいに止まって見える。

 きっと良くない話が待ってるのに、ものごころ付いて以来初めてのまちなかのドライブに、ちょっとわくわくしてしまう。ぼくはいつもそうだ。避けようがないと覚悟した物事のことは、考えてなんかいられない。

 国道十八号を渡って急坂をのぼる。城下町からもう一段、丘を上がると、住吉すみよしのバイパス沿いの街並みが見えてくる。

「もうすぐ着きます」

 バイパスを渡って、インターチェンジまで一気にまっすぐのぼる。ユキヒコさんの肩越しに小さく見えた飯島ランドリーの住吉工場が、そのまま後ろへ走り去っていく。十分ちょっと。車は玄蕃山げんばやま公園で停まった。ここはまだ、ぼくのお散歩コースの範囲内だった。

 ユキヒコさんとぼくは車の外に出た。上田の街全体が小さく、視界の向こうに見える。

 七月も近いのに涼しい風が絶え間なく吹いていた。梅雨空なのにたくさんの晴れ間が見えて、低い空には墨色すみいろの細長い雲がせわしく這い回ってる。良いことも悪いことも本当も嘘も、ごちゃ混ぜになって落ち着くことがない現実世界を、空一杯に描きなぐってるみたいだった。こんな空の下では、上田の街はすっかり縮こまって、水が抜けた沼の底に張り付いてるように見えた。

 ユキヒコさんについて歩く。歩く姿と背筋がとても凛としていた。自分の身体より大きな何かを背負って、それでも歩き続けられる人のように見える。

 展望台には誰もいなかった。東屋みたいに屋根と低い壁があって、その向こうに、ぼくらのふるさとの小さな街が見えた。

「ナオ君」

 ユキヒコさんはぼくに身体ごと向き直ると、ザッ、サッ、と小さな音を二つだけ立てて、ためらいもなく土下座した。

夏穂かほと、別れてください」

 それはできません、用意していた言葉を返せない真剣さがあった。でも、退けない。

「どうしてですか」

 ユキヒコさんは正座したまま背筋を伸ばして顔を上げた。背中の向こうに、雲と晴れ間を這い回る影が見える。

「悪いのは私です。夏穂かほと、別れてください」

「納得できません」

 カホのことじゃなかったら、すぐに納得していたと思う。ぼくはやっぱり子供だった。凛と歩く大人に、しなくてもいい話をさせようとしている。

「妻の妊娠中、恋人ができた。本気だったが、すぐに別れた」

 ユキヒコさんは話し出してしまった。

「恋人には、忘れられない相手がいたようだったから」

 ぼくは黙ったまま聴いた。誠実なユキヒコさんの言葉を、一言だって聞き逃さないように。

夏穂かほが産まれた日、私の父が、まず私のところに来た。……かほ、と書いた紙を渡された。名前はこれにしろ。社長も譲る。これからの人生は、家族と会社を育て上げるためだけに使え。そう言われた」

 ユキヒコさんはまっすぐに背中を伸ばしたまま、ぼくのほうを見ている。

「……恋人は、同じ名前だった」

 ぼくははっとして、自分の身体にユキヒコさんの視線の行方を捜そうとした。

「責任を取ることも、償うこともできない。だから」

 どうしても見つかんない。視線の行方が。

「示された道で、精一杯まっすぐに、役目を全うすることに決めた」

 ユキヒコさん、もう、いいじゃない!

「だから、悪いのは私だ。……夏穂かほと、別れてください」

 ぼくはついに目をつぶってしまった。

 ユキヒコさんはぼくに、命令じゃなくてお願いをする。ぼくは断るか、先送りするか、決めることしかできない。

 今この瞬間にもぼくを想ってくれてるかもしれない、カホの姿が浮かぶ。ちょっとだけ未来の約束も、たくさん残ってる。海やキャンプや父の日や。ユキヒコさんが喜ぶお祝いを選ばなきゃ。それはやっぱり、今ここでお願いを聞くことなのかな?

 ——半年経っても彼女との未来をちゃんと考えていられたら。ジュンさんの言葉も思い出す。半年後、カホとの未来を考えていられるかな? 見えなくなるような先の未来なんか考えるのを止めちゃって、ちょっとだけ未来をだましだまし繰り返してくだけじゃ駄目なのかな?

 ユキヒコさんは、示された道で精一杯まっすぐに役目を全うするなんて言ってみせた。人生を、家族と会社のためだけに使うなんて言ってみせた。良いことも悪いことも本当も嘘も、ごちゃ混ぜになってて落ち着かない現実の世界には、都合のいい偶然も、一点の曇りもない誠実さも、人生をかけなきゃなんないほどの責任も償いも役目もきっと存在しない。これはユキヒコさんの、強烈なわがままなんだろう。生き方を決めてしまうという、誰のせいにもできないわがままだ。

 ぼくは間違ってた。野良猫と人間は、ちっとも同じなんかじゃなかった。今この瞬間をしたたかに生き抜いてく力、それは同じかもしれない。でも人間だけが持ってる力があった。それは、なにより自分のために、それから自分を取り巻く世界のために、より望ましい未来をいくつも考えて、選んで、決めるためにある。

 ぼくは決めた。大切なことばを言わなくちゃなんない。大きく息を吸って、目をひらいた。

「わかりました。別れます」

「ナオ君、……ありがとう」

 ユキヒコさんはよろけることもなく立ち上がる。ユキヒコさんの視線はとらえられなかったけど、両目はちょうどぼくと同じくらいの高さにあった。

「でも、カホとずっと関わらないで生きてくことは、ぼくにはできないと思います」

「私も、できるなら良い関係を続けて欲しいと思っています。恋愛でさえ、なければ」

「カホにもいつか、このことを話したいと思います。いいですか?」

「私が恨まれるのは構いません。夏穂かほがちゃんと大人になって、本人が苦しまず、母親のことも苦しめないと判断できたなら」

「ユキヒコさん、ぼくはあなたとも無縁ではいられないと思います」

「私も、そう思います」

「ユキさんと呼んでもいいですか」

「よろこんで。ナオ君」

 ぼくはもう一度、息を吸った。

「ユキさん、名前を与えたお父さんは元気ですか?」

 ユキさんはようやく、ぼくの目を見てくれた。

「……元気だ」

「ありがとうございます。あと、ぼくも隠しごとをしなくてはなりません。隠し続けることは、苦しいですか?」

「苦しい。私は意志が弱くて、むしろ常日頃は忘れてしまっているんだが。……幸せを実感した時ほど、かえって苦しくなる」

 ユキさんは黙って展望台を降りていく。ぼくは意思が弱すぎて、苦しみさえも感じられないかもしれない。さっき見た晴れ間は雲の裂け目みたいに帯になって、そこから幾筋か、天使の梯子が降り注いでいた。ぼくらのふるさとの小さな街で絶え間なく繰り返されてる、良いことや悪いことや本当や嘘に、気まぐれに光をかざしてるみたいだった。



 車の中でぼくは、ちょっとだけ未来のことを考えた。海やキャンプやバーベキューのことじゃない。カホと別れることと、そのあとのカホのことだ。ぼくは別れ方なんて知らない。カホの苦しみが、なるべく早く消えればいい。

 海野町うんのまちを通り過ぎて、鷹匠町たかじょうまちで降ろしてもらう。ありがとうございます、降りぎわに言うとユキさんは、ナオ君、と言いかけて、丁寧におじぎをしてくれた。カホといつ別れるか、どう別れるかは訊かれなかった。

 ぼくはバイトに戻る前に、ケージの家の前で短い立ち話をした。

「ケージにお願いがある」

「また何かやらかすのか?」

「明日の夜遅くになったら、キミコに伝えて欲しい。土曜九時過ぎに行くみたい、って」

「誰が?」

「土曜九時過ぎに行くみたい、って」

「わかった」

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