第10話「ノーMノーライフ」小野健一(六月)

「調子はどう?」

「絶好調だぜ!」

 オレはマリーに、左手でサムズアップしてみせる。

「ちょっとそのまま、手を開いてみせて?」

 マリーは眼鏡を外す。美顔プリクラですか? ってくらいに目が大きくなった顔は、やっぱかなりのオレ好み。うっすらと浮かぶそばかすが肌の白さを際立たせてて、オレはドキドキし始める。

 マリーの顔が近づいてくる。

「うん。タコできてる。でも、小指ちょっとサボってない?」

 ギターの練習量をチェックしてくれたみたい。

 六月半ばの昼過ぎ。今週はテスト週間だから学校は半日授業。ミカサの五号球がサッカー班のオレを教室の壁の向こうで待ってるのに、不本意ながら強制的に休まなくちゃなんない。しかもオレは教室でマリーの厳しいチェックを受けてる。この日々が、いつまでも続けばいいのに!

「ちょっとやってみせてよ」

「ここで? 恥ずかしくね?」

「いいから」

「しょーがねーなー」

 マリーの頼みじゃ仕方ない。オレは大きく息を吸い込んだ。

「ギャーギューギャ、ギョーギューギャ」

「声、いらない!」

「すいません」

 オレは魅せる。無言で右腕を左手で押さえてるだけだけど、たっぷり四小節。

「それだけ?」

「すいません」

 マリーはすごい。スコアなんて売ってない曲なのに、バンド結成の翌日にはコード譜を書いてきた。あとは耳コピでお願い、なんていう一言もカッコいい。オレの場合、どのみち楽譜なんか読めないんだけど。

 エアーじゃないギターを買って三週間。日頃から多忙を極めてたオレは、まずは練習時間の確保に努めた。深夜のエアーチェックをハーレム物アニメだけに絞ったし、原さんや仁美さんにもオレはサヨナラを告げて、眠る直前のわずかな時間だけ、マリーと二人で愛とか夢とか将来とかについて語り合うことにした。全員、エアーだけど。

 ファイナルファンタジーだってクリアできないで飽きちゃったオレが、今回ばかりは投げ出すことなく練習を続けてる。チューニングもできるようになったし、オレたちの最初の小さな夢、LONGMANのOffsideもコードだけなら一通り押さえられるようになった。

 まだアンプがないからジャラジャラとしか聞こえないけど、たぶん大丈夫。イヤホンで原曲を聴きながら練習してるときなんか、もしかしてオレって天才? なんて思っちゃうくらいバッチリ弾けてて、聴きほれすぎて両手が止まってるのに気付かなかったこともしばしばあった。

「一回、ちゃんと音出して合わせてみる? 週末でテスト終わるし」

「そうしようぜ!」

 オレは威勢よく応えてマリーの提案を待つ。で、音出すって、どうすればいいの?

「スタジオ借りよう。海野町うんのまちにLOOPってライブハウスがあるから」

 スタジオ! オレたちもうレコーディング入んの? 超プロっぽくね?

「あ、お金持ってきてね。四千円くらい」

 たけえっ! アンプ買う前にオレん家が破産しちゃうよ? 兼業農家だけどお米もう作ってないから主食にも困るし。

 露骨に歪めたオレの顔を見て、マリーはオレを慰めてくれる。

「初回は入会金がかかるから。次からは二千円くらいで大丈夫だよ」

「安心したー。武井さん、どんなセレブかと思ったよ。乗馬やゴルフじゃないんだから」

 次回から半額! すげーお得な気分。

「とにかく予約しないと。日曜なら班活ないよね?」

 マリーはそんなこと、気をつかわなくたっていいのに。今は音楽活動に専念したい大切な時期だから、サッカー班もこれを機に泣く泣く無期休業に入っちゃう、ってのはどうかな? 

「土曜でもいいかも。班活行けないのはやむなしで」

「駄目! ケンは自分を甘やかしすぎ!」

「すいません」

「その言い方もヘタレっぽいよ? すみません、って言える?」

「すいません、すみません」

 オレをビシビシ責め立てたあと、マリーは笑って言った。

「じゃあ、そろそろ帰ろっか?」

 今週に入ってオレたちは急接近していた。ツーショットで下校を続ける毎日。まずは廊下や階段で、ちょっと顔を赤らめながら照れくさそうに三歩遅れてパタパタついていく、オレ。言葉は交わしてないけど、それは二人の心が通じ合ってるからなんだと思う。オレ的には。それから下駄箱で靴に履き替えて、古くっさい木造の校門をくぐる。マリーは背中を向けたまま、路上で立ち止まってオレを待ってる。わかる。やっぱ照れくさいよねー。近付くオレの足音に合わせて右手を少し上げる。

「じゃあ!」

「……あ、うん。さようなら、武井さん」

 一回だけ手を振って、振り返りもしないで左へと曲がっていく素っ気ないマリー。オレはまっすぐ進んで上田駅に向かう。二人で楽器屋さんまで歩いたあの日を思い出しながら、ひとりぼっちで真田坂を下ってく。

 ぶっちゃけ、ギターの練習も班活も勉強も、やるべきことをサボらずに続けられてるのはマリーのおかげだった。態度は厳しいけど、自分にとことん甘いオレをすげー支えてくれてる。マリーがいなかったらオレ、今ごろどうなってたんだろう。そう考えると身のすくむ思いがする。

 立派な人間だったら、ひとりでも頑張れちゃったりするのかな? オレはノブ君やケージ君を思い出す。小さな夢を抱くまでのオレは、このリスペクトすべき二人を仰ぎ見て、イケてるとかイケてないとか、人間として上だとか下だとか、そんなことばっかしキョロキョロ気にしてた。ところが最近、そういうことがあんまし気になんなくなってる。まずは小さな夢を果たそう。ひとりで頑張っちゃうなんてオレには無理! だけど、マリーがいてくれるなら必ずやり遂げられそうな気がする。

 ノーミュージック・ノーライフじゃなくて、ノーマリー・ノーライフ。凡人未満のどんくさいオレは、今は甘えてばっかしだ。だけどいつかオレの方からも、マリーを支えられるようになりたい。実はそれが、オレの今の中くらいの夢なんだ。



「オレ、すっげーことに気がついちゃったんだけど!」

「ケン、またくだらない話かよ? その分寝てろよ。背が伸びるかもしれねーぜ?」

 テストが終わった金曜日。午後は班活があるから、気分転換のためにちょっと哲学的な話題を振ってみたオレ。

 テツはオレの天性の閃きに必要な膨大な時間、だいたい二分間くらいを気づかってくれる。オレもそんな気がして、才能に恵まれすぎた自分を恨めしく思う。

「なんだ?」

 リックはここ最近、ちょっと明るくしゃべれるようになってきた。夢に向かって心ここにあらず、なオレが演じてる陽気っぽい振る舞いをリスペクトしてくれてるんだと思うと、心が痛む。

「ぼく聞いてみたい」

 もちろんナオも、オレをリスペクトしてやまない。

「音楽と恋愛って、違くね?」

 それは昨晩眠りにつく直前、マリーとのほんの一瞬の語らいの中で聞いた話だった。エアーだけど。

 テツがポカンとしてて、やっぱ感心してるみたい。リックは音楽はからっきし駄目で、きっとカフェとかで音楽が流れててもぜんぜん気付かないタイプだから、理解できなくっても仕方ない。

「違ってて当然じゃね? そもそも別物じゃねーか」

「いや、そういうんじゃなくって、哲学的な意味で」

 わかんないかなー? テツには。

「どう違うの? くわしく教えてほしい」

 最高の友人、ナオの瞳がキラキラしてる。オレは三人に向かって、もったいぶって言い放った。

「音楽はさー、すげー色々ある中から自分が好きなものを選べるけど、恋愛は選べないじゃん?」

「悪い。やっぱり分からねー」

「恋愛はそもそも選ぶものじゃないだろう?」

 なんか伝わってないっぽい。オレは最大の理解者、ナオに哀しげな顔を向けて賛同を促す。

「ぼくの場合、ぴんとこないみたい。音楽は人が選んだ曲しか聴かないし、恋愛は自分が選んだ人としかできないし」

 最低の知人のナオは、オレをディスリスペクトしてやまない。賛同しなくてもいいけど、反論はやめて!

「だ、だからさあ、音楽に片思いってないじゃんっ!? 恋愛は片想いってあるじゃんっ!?」

 テツは顔を背けて、英単語帳をめくり始めてる。リックはちょっと遠い目になって、ある、と答えてくれた。

「そっか。ケンも片想いしてるんだ」

 かっ片想いなんてしてねーよ! 彼女持ちってだけが取り得のナオが話の腰を折る。だいたい、自分と違う意見が出たくらいでムキになって終いには感情的になっちゃうなんてナオのお子ちゃまぶりには呆れるのを通り越してイライラするわムカムカするわでやってらんねーよ!

 オレは議論になんないヤツらに見切りをつけて、帰ってしまいそうになってたマリーに駆け寄った。マリーのお告げが間違ってるはずなんてないんだ。

「……そういう意味なら似てるんじゃない? 音楽と恋愛って」

「そーだよねー」

 現実のマリーは、似てる派だった。

「音楽も恋愛も、好きなのを選んで視聴するのは自由だし」

「だよねー」

「当事者になると、自分の才能や魅力や努力が必要になるし、それでも選ばれないこともあるし」

「ねー」

 その通りだ。音楽と恋愛は似てる。

 オレは別にマリーに流されて意見を変えたわけじゃない。視点を変えられたんだ。マリーは音楽も恋愛も、自分が当事者になることを前提として考えて答えた。これは、今までのオレには無かった発想だ。オレは音楽をいちリスナーの視点でしかとらえてなかったし、恋愛についてもせいぜい服装と会話に気をつかうくらいで、その会話だって相手に媚びまくっててカラッポで、たまたま気に入ってもらえたらいいなーくらいの受け身なスタンスだった。オレには音楽の演奏者としての、人生の演奏者としての当事者意識がまるで無かったんだ。自分が選んだ何かに向かってなんとかしようとする、その物語の主人公になる、なんて発想自体がなかったんだ。それって、自分のことなのにテレビの中のドラマを眺めてんのとあんま変わんなくね? オレの人生なのにオレ自身で生きてこなかったこととほとんどおんなじじゃね? 

 難しいことなんてなんも考えてなかったけど、がむしゃらに練習を続けてきたここ三週間にすげー救われた気がする。弦を押さえる指が切れて血が出て、タコができて、マリーには厳しいこと言われて、それでもオレはちょっとだけ、演奏者側の気持ちがわかるようになってきてたんだ。

 しみじみしてたら、マリーがオレの顔をガン見してたことに気付いた。ドキドキする。

「私、中学の時さっくすやりたくて吹奏楽部すいぶ入ったんだけど」

 さっくすやりたくてすいぶ? 意味はわかんないけどなんか大人っぽいキーワード。ドキドキしてる胸に追い討ちがかかる。

「希望者多すぎて経験者優先になって、げんばすになっちゃんたんだよね」

 経験者!? マリーの話に動揺しまくるオレ。とにかく未経験でよかった。ところで前から疑問だったんだけど、げんばすってどんな楽器? どうやって吹くの?

「だ、だから続けなかったの?」

「違うよ。今思うと、げんばすをやっててすごく良かった。吹班入らなかった理由は違うよ。こないだ言った通り、音楽性の違い」

「やっぱ、ロックが好きなの?」

「んー、ジャンルでは分けてないかな。ただ、歌声が入ってる方が好き。管楽器だけでかるみなぶらーなをやったときにちょっと萎えちゃって。かんたーたなのに」

「うん。わかるよ!」

 前半だけね。あと、萎えちゃったことと。

「結局、今、自分が感動できる音楽をやりたいんだよね」

 つまりマリーは吹奏楽が嫌になったんじゃなくて、人生の当事者として、自分が好きな音楽をやるために、今、という時間を使うことを選択したんだ。きっと恋愛もそう。オレがこんなに好きになっちゃってるからって情にほだされて好きになってくれることなんかなくて、自分が好きな男子以外には目もくれてくんないと思う。地味な髪型や化粧っ気のない見た目はやっぱ、気のない相手からモテないようにするための予防線だったんだ。

 途端にオレはすげー暗い気分になった。世界中の音楽なんかよりもはるかにたくさんの人間がいるのに、なんの取り柄もないオレをわざわざ選ぶ理由がマジ見当たらない。いくらジャンルでは分けてない、なんて言ってくれてても、そもそもオレ、どこのジャンルにも身を置けてないじゃん。

「いい話したつもりなのにどういうこと? ケン、暗い顔なんてぜんぜん似合わないよ?」

 オレはせめて暗い顔だけはするまいと、笑顔をムリヤリ浮かべた。ほっぺたがピクピクと弱音を吐いて、気の利いた言葉なんて出てきやしない。

「はやく班活行っといでよ!」

 背中をパチンと叩かれて、重い腰を上げる。

「日曜十時、楽しみにしてるから!」

 オレは背中を向けたまま、かろうじて左手をサムズアップしてマリーに応えた。



 日曜日は小雨が降っていた。オレは閑静な高級住宅街を走る東急電鉄、の車両を使い回した上田電鉄別所線に乗って、ちょっとキメ顔で窓の外を眺めてる。いつもは青空の下で塩田平しおだだいらいっぱいに広がる緑の田んぼや、山伏でもいそうな独鈷山なんかが都会派のオレをうんざりさせるけど、今日は視界が悪くってあんまし気になんない。

 別所線は二両しかなくて、ぜんぶ各駅停車。時々、端っこのドアしか開かなくて焦るけど、実はオレはこの鉄道を愛してる。オレの地元の有名アイドル、丘高の北条まどかが同じ電車を使ってるからだ。来年には学年も追いつけるかもしんない。だって彼女、二次元キャラだから。ただ、弟の北条かずまには消えて欲しい。わりとマジで。ナオが別所線をPRしてるみたいでムカついて仕方ない。

 オレはいつも以上に乗客の視線を集めて電車に揺られてる。まず、肩に背負ったギターはもちろんギブソン。Tシャツはもちろんアバクロで、黒い細めのジーンズを合わせてる。普段着てるアンブロにもオレなりの主張があるけど、やっぱ今日はアーティストらしさを前面に出したい。オレをガン見してた乗客たちが先に降りてった。おばあちゃん三人、千曲川のほとりのショッピングセンターにでも行くのかな?

 上田駅に着いたら海野町うんのまちまで、真田坂さなだざかを上るオレの足取りも勇ましい。ギターの上から傘を差してて右腕がつりそうになるけど、あちこちに貼ってあるサマーウォーズのポスターの篠原夏希が、六文銭の旗を持ってオレを励ましてくれる。彼女は別にオレ好みじゃないけど、告られたら付き合ってもいいかな是非ともどうかお願いしますできれば一生、程度のレベル。ただ、左隣にいる池沢佳主馬には消えて欲しい。かなりマジで。だって、見た目がナオにちょっとだけ似てるから。ナオがパソコンまでオレより詳しくなっちゃったみたいでムカついて仕方ない。

 スタジオがあるビルの前に着いた。汗だくだし、疲れちゃった。黄金の右腕も、傘なんか持ったせいでしばらくは使い物になんない。まずはお茶しておしゃべりして、その後メシでも食おうよ? ちょうど近くにナオがバイトしてる喫茶店あるし、四千円も持ってるし。何よりドアを開ける勇気が出ない。

 ドアの前でウロウロしてたらLINEが来ちゃった。着いてるよね? マリーから、見透かされてるようなメッセージ。やれやれだぜ、みたいな感じのスタンプも貼ってある。

 思い切って目をつぶってドアを開けた。マリーの姿が見えない。もっと思い切って目を開けてみたけどやっぱし見えない。店の奥にはパンクなお兄さんが二人と、ここには不似合いなくらい可愛らしい二人の女子がいた。

 一人はちょっとクールな感じ。身長はオレよりちょっとだけ小さいくらい。ウェーブがかかった濃い茶色のロングヘア、さりげないアイメイク。ボーダーのシャツに、黒いベストとショートパンツを合わせてる。

 もう一人は完全にオレ好み。オレより十五センチくらい小さい身体にアート系のTシャツとハーフパンツ。絶妙な長さの黒髪ポニーテール。小顔にいい形をした小さな鼻と口と耳、それから大きな目。眉が自然な感じで、化粧っけのない皮膚の薄そうな白い肌。これでそばかすなんかあったら、オレの恋心がぐらついちゃうと思う。マリー、すいません。

「ケン、早くここ来て申込書、書きなよ」

「はいっ」

 やっぱマリーだった、っていうかさすがにオレでも気付いてた。パンクなお兄さんと談笑してる姿なんて見たくなかった。オレだけ子供みたいで、すっかりビビっちゃってる。

 カクカク歩いて店の奥に進んで、ボールペンを受け取って、カクカクの字で入会申込書を書く。ニコニコ笑ってくれてるはずなのに、ニヤニヤされてるように見えちゃう。ナオじゃないけどチビリそう。

「はい、ありがとう。なんでも聞いてね」

 パンクなお兄さんは店員で、そして優しかった。

「オノくんって言うんだ。なるほどー」

 申し込み書を覗き込んでたマリーじゃない方の女子が話しかけてきた。見た目よりおっとりした声で、オレはすっかり緊張が解けていつものクールなオレに戻る。

「はいっ、小野健一ですっ」

あがた高の春原すのはら美咲でーす。マリとは小四からの付き合いだよー」

「中学のときぱーかっしょんやってたから即戦力だよ。中二のころからずっと、いつか一緒にバンドやれたらいいねって話してて」

 名前はなんとか覚えた。ぱーかっしょんってのは知んないけど、それどうやって弾くの?

「はいっ。春原すのはらさん、よろしくお願いしまっす」

「よろしくねー。すのみー、でいーよー」

「はいっ。春原すのはらさんっ」

 天然なんだー、とか、たぶんミネラルウォーターのことをコソコソ話してる声を聞きながら、さっそうとスタジオ入りする。超重そうなドアを開けてもらって、上手かみて側の壁にクールにもたれかかって一息ついた。

 優秀なスタッフたちが手際よく準備を始める。その様子を満足げに眺めるオレ。

 ぶっちゃけ、初めてのスタジオでオレは真っ白になって立ち尽くしてた。マリーがパンクなお兄さんにあれこれ相談しながら、ツマミをねじったり線を挿したりしてる。

 マリーはついにオレに視線を向けた。

「ケン、ボリューム落として」

「はいっ」

 オレはギブソンのエクスプローラー、は買えなかったけど、飽きちゃったゲームをぜんぶ売り払って買った愛機エピフォンを構えた。すっかり手に馴染んでるから、ボリュームくらい見なくたって調節できる。オレは迷わず、四つぜんぶのツマミを回した。マリーは目をこらしてオレを見つめてて、ツマミを回し終わったら小さく頷いた。どうやら、回す方向は合ってたみたい。

「ケン、しーるど挿して」

「はいっ」

「しーるど」

「はいっ?」

 しーるどってなんだろ? とりあえずオレはエピフォンを盾に見立てて、防御の姿勢を取ってみた。ドラムをいじってた春原すのはらさんと目が合う。笑い出す春原すのはらさん。穴があったら入りてえ!

 マリーがオレのところに駆けつけた。オレからエピフォンを奪い取って、線をギターの穴に挿す。せっかく調節したツマミも、下の方をグリグリ回す。呆然としてるオレを横目にパンクなお兄さんに向かって、お願いしまーす、と声をかけた。

 マリーは六本の弦を引っ掻いた。ギャーン。Gだ。ギューン。Emだ。あれオレ、コード聴くだけでわかってんじゃん。

「ん? 音はだいたい合ってる」

 マリーは今度こそ笑顔を向けてくれた。調子にのるオレ。頑張っちゃうよ? サムズアップした左手に、エピフォンが戻ってくる。

 今日だけは笑われたって仕方ない。オレは段取りをぜんぶ覚えるつもりで、みんなの動きを眺めることにした。けど時々、ほんの時々マリーに見とれちゃう。マリーの身体にベースはすげー大きくて、フレットの先っぽを押さえる腕がピンッと伸びててめっちゃ可愛い。上下に動くヘッドがボールみたいに弾んでみえて、シッポの長いリスが楽しそうに駆け回ってるみたい。

 オレ、マリーに出会えて本当によかった。



 後半の段取りの半分の八割ぐらい覚えたところで、準備は終わったみたいだった。

「じゃあ、始めよっか」

 マリーが声をかけて、春原すのはらさんがバチを叩き始める。正確なビートが響く。今だ! ギュヤーン。

 オレ、失敗。ありもしないコードを引いちゃった。初めてってこんなもんだよね。苦笑するマリーと春原すのはらさんを見回して、ペコリと頭を下げる。

「もう一回ね」

 マリーは言う。春原すのはらさんがバチを叩く。今だ! ギュヨーン、ギュヤギュヨン。

 今度はオレ、ピックに力が入りすぎた。ドラムが止まってベースも止まる。誰のせいにもできなくて、オレは顔をうなだれる。

「もう一回行こう!」

 ちょっ、ちょっ待って。心の準備が。そう思ったときには出遅れた。オレ、三たびの失敗。またうなだれて目をつぶる。

 あーあオノケン。立ってらんないくらいの焦りと一緒に、思い出したくなかった記憶が胸までこみ上げてきてオレは吐きそうになる。速攻でねらい打ちされたドッジボール、オレが踏んだせいで止まっちゃった長縄跳び、飛び越せなくて残り二人になっちゃった六段の跳び箱の列、校内の球技大会だってのに補欠にされたバスケ、三点差がついちゃった最終試合で引退記念に出してもらっただけの塩中サッカー部。

 すいません、マリー。オレは本当はこんなにどんくさくて、度胸もなくて、一度だって何かの舞台に立ったことなんかなくて、一度だって誰かに選ばれたことなんかないんだ。唯一、毎日コツコツ続けたつもりになってたギターだってこのざまで、そもそも、何かができる気になっちゃってたオレが間違ってたんだ。

 ボーンボンボンブーン、タッタカタカタタタ。マリーと春原すのはらさんは呆れ返ったような音を出す。すいません、すみません、マリー。

「オノケン」

 一番聞きたくなかったオレのあだ名が聞こえてきた。マリーの声だった。もともと薄っぺらだったオレが、ますます透き通って消えてしまいそうな気がする。

「オノケン!」

 マリーの声音が強くなる。オレはますます萎縮して、耳まで塞ぎたくなる。どうせオレなんて、どんくさくて薄っぺらで知ったかぶりでお調子者のオノケンなんだ。ゲーム売らなきゃよかった。今期のアニメも見てりゃよかった。うなだれっぱなしのオレに、また容赦なくマリーの声が響いてくる。

「オノケン! 弾いてみてよ! なんでもいいから、思いっきり!」

 あれ? マリーはオレをバカになんかしちゃいない。それだけはなんとなくわかった。ベースとドラムの音が消えた。なんの音も聞こえない。オレはヤケクソな気分で目を開けて、コードを掻き鳴らす。

 ギャーン! もう一回。ギャ、ギャーン!

 ドラムの音が聞こえ始めた。ベースがオレのでたらめなコードにあわせてリズムの粒を吐き出し始める。オレはすっかり身体で覚えたOffsideのサビを繰り返し鳴らすことにした。

 G#、Cm、Fm、Cm、C#、Cm、C#、D#

 いつの間にかベースがオレを引っ張って、ドラムがオレを支えてる。なんか、すげえ音楽っぽい。そーか。何回やったか忘れちゃうくらい繰り返し練習してれば、どんくさいオレの身体だって覚えててくれるんだ。

 ビートがどんどん速くなる。すげー気持ちいい。調子に乗ったオレは、マリーとすのみーを振り返る。二人とも笑ってる。マリーの口が動いた。聞こえた気がする。いいよオノケン、そのまんまで!

 二人を見ながらゆっくり息を吸い込んだ。マリーも息を吸い込んでる。せーのっ!

 

 流れゆく時はいつでも 儚く切なさをのせて

 ただ先を行くまっすぐに 振り返ることは一度もなく

 すげー、マリーとハモってる! 鳥肌が立つ。両手が勝手に動く。笑顔がこぼれる。

 いつまでも僕のそばに このまま続けばいいのに

 少しずつ変わっていく日々を 立ち尽くして見ているだけ

 

「マリー、すのみー! オレ、すっげー感動してる。まだ感動してる」

 マイクに向かってオレはつぶやいた。完全なキメ顔だ。オレにはこの感動を二人と共有できた自信があった。

「マリー?」

 楽器の音が消えて、武井さんと春原すのはらさんの声が被った。二人とも、まずはキョトンとした。沈黙が流れる。さっきオレが音を出すのを待っててくれた時とは違う静けさ。オレには思い当たる節があって、顔が火照ってくる。

 すいません。武井さんもやっぱ照れくさいよねー。チラッと見たら武井さんは自分を指さして、春原すのはらさんと目を合わせながら今にも吹き出しそうな顔してた。

 ヤハハハハアハハハ! 甲高い笑い声がスタジオ中に響いた。武井さんと春原すのはらさんは、マリーって、マリーって、とだけ繰り返しながら苦しそうに息をしてる。

 オレはもう一度ヤケクソな気分になって、G#を思いっきし鳴らしてマイクに向かって叫んだ。

「今日からチビリ! のメンバーは、マリー、すのみー、そしてオレ様、オノケンだ!」

 マリーもすのみーも笑い続けた。マリーは左腕を突き上げて、親指を立てて言った。

「いいよオノケン。そのまんまで!」

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