第9話「唐沢」峯村信行(五月)
正門の瓦屋根が落とす影が、ずいぶん濃くなってきた。
五月最終週の朝七時、門扉の
ふと思う。同じ電車通学なんだから、ケンもこの時間に来させてみよう。もっと話せる時間もできるし、奴も様々なことに気付くかも知れない。
ケンはムードメーカーだ。ただ居るだけで周囲の空気を和ませてくれる。本人には自覚が無くて、悩むこともあるようだけど、その悩みさえも二日と続いたことが無い。
中学二年、キャプテンを引き継いで最初の試合を思い出す。俺達はプレッシャーで緊張していた。ケンは試合には出られなかったけれど、苦しい場面では必ず、なんだかズレたアドバイスを叫んでくれていた。大真面目だったのかも知れないけど、俺達はそのお陰でリラックスできて、巡って来たチャンスを拾って勝つことができた。
俺は、運、ツキ、そして流れというものが存在すると思っている。身近なところでは、弟達とポーカーをやっている時にも実感する。毎回シャッフルしているのに、勝てる日は勝ち続ける。強気にドローするほど手が良くなっていくし、フォールドするかどうかの見極めも的確にできている気になる。
厄介なのはワイルドカード、道化師が描かれたジョーカーだ。正式ルールでは使わないと聞くけれど、俺達子供の遊びでは欠かせない。
ジョーカーは数字を持たないくせに、どんな数字とも並び立つ。無力なのに無敵、自由奔放なのに狡猾。これを使われて負けると、それまでの運もツキも流れも台無しになってしまう気がする。俺の勝ち急ぐ気持ちを見透かしてる、カミサマそのものみたいだと思う。俺の中のカミサマは感じるものであって、顕現して対峙することにでもなったら勝負にならない。
正直に言えば、何事にも原因があることは分かっている。だから不運とか運の尽きとか、悪い流れは断つための努力ができる。原因を追究して、分析して、対策を打つことだ。
ただ、ラッキーを呼び込んでつかみ取る方は対策が難しい。今の俺が心がけているのは、目一杯努力しても結果が分からない時、運に任せる以外に方法がなければ勝負に打って出て、ツいたところで流れを作る努力をすることだけだった。
だから俺は少しばかり恵まれた幸運に対しては、たまたま、と呼んでカミサマに感謝する。心底ラッキーな時にはなおさら感謝して、
♦
「ミツヨーちょー似合ってるよ! その髪型」
「ありがとぉケーコ! ジュード、日曜にやっと行けた!」
「すごいじゃーん。あそこ平日も予約入んないんだよねー」
朝練を終えて教室に着くと、窓際の一番後ろ、つまり俺の背後にたむろっていた原と青柳のお喋りが聞こえた。いやむしろ、聞こえるように会話をしていたのかも知れない。原も青柳も、丸山も
「それで店出たらさぁ、ジュードの前の通りって
「あーたまにいるよねー、そういうオッサン」
「そーそー。キモいなぁって思って二度見したら、そいつ唐沢だった! ヤバくない?」
「こわっ。ミツヨ大丈夫ー? 盗撮されてない?」
少し離れてはいるが、唐沢はもう着席している。聞こえているのか二、三度、チラチラとこっちを振り返っていた。
唐沢はアズサと喋っている時以外、だいたい独りでいる。カメラ雑誌や写真集をカンニングでもしてるみたいに机の下の物入れから引き出して、真剣に眺めていることが多い。男子高校生なりに色々な欲求はあるだろうけれど、アズサと仲が良いのだから悪い奴じゃないだろう。仲間に甘い俺は、勝手にそう評価している。
原達の気持ちも想像できないわけじゃない。けれども唐沢はその時、原を盗撮していたわけじゃないだろう。男同士なら、そんなわけねえだろ、なんて一喝しているところだけれど、女子が相手ではどう対応していいのか分からない。何か言っても、逆効果になる気さえする。
アズサか白井がここに居さえすれば、こんな話題にはならない。アズサはさりげなく話の流れを変えてしまうし、白井は人の噂話やカゲグチが始まると、露骨に嫌そうな顔をする。
今は残念ながら、アズサは離れたところで奥村達と喋っていて、白井は登校前だ。丸山と
「原、髪切ったのか? 似合うな」
俺は振り向いて言った。
「え、似合う? うれしー! 前と比べてどぉ?」
話の流れは変えた。でも、原や青柳の心の中は変えられないし、唐沢が傷ついたのだとしたら、それは癒されないだろう。鈍感な俺だったら同じことを言われても気にもしないけれど、感性は人それぞれだから全く参考にならない。
原は照れくさそうにしながら首を左右に回している。少し明るめのセミロングの毛先が絶妙なバランスで跳ね回っていて、俺は不本意ながらまじまじと見てしまう。大きな丸い襟のシャツと七分丈のパンツも良く似合っていた。ケンが
「かわいーよねーミツヨー」
青柳の言葉は本心だろうか。それとも、心の中では違うことを考えているのだろうか。丸山や
原と青柳が髪型について詳しい話をごちゃごちゃと始めたころ、白井が後ろのドアから入ってきた。
うす。俺は肩の辺りまで手を上げて挨拶をする。白井も小さく手を上げて、ピアノでも爪弾くように指をヒラヒラさせて挨拶を返してきた。浮かべた微笑みには少し陰があるけれど、入学当初からずっとそうだった。B組という、たまたま作られた小さな集団の中とはいえ、断トツに目立つ女子。黄色いワンピースに黒いレギンス、女王蜂みたいな色使いを着こなせるのは、B組では白井くらいだろう。
「リナー、おはよー」
「おはよーリナぁ」
「おはよ。ん? ミツヨ、髪型変えた? 似合うね」
「あ、うん。そうかな?」
俺はもう一度、教室全体を見渡した後、読みかけのサッカークリニックを開き直す。アズサは今日も椅子にまたがって、背筋を真っ直ぐ伸ばして子供みたいに笑っている。唐沢はカメラ雑誌を真剣に眺めているようで、さっき見せた動揺は治まっている。心なしか、俯いた姿勢の中でも瞳だけが輝いて見えた。
♦
「くじ引きでいいんじゃねえか?」
「やっぱ、そうだよね」
三限目前の短い放課に、級長の
♦
入学早々からそうだった。級長に立候補する人間が誰もいなくて、押し付け合うように三、四人の名前が挙がった。結局、強く断れなかった
俺の席からはクラス全員の背中が、横顔が、左拳の置き場所や握り締め具合がよく見える。委員名を書き出す度に、一人一人のそわそわした感情や逡巡する想いが見えた気がした。
委員を募り始めた時、男子については、迷っている奴等の背中を押してみることにした。
「では、代議員」
「
教室中からそわそわした雰囲気が消えて、
「では、清美委員」
「大澤、お前どう?」
「では、応援委員」
「丸山やれっ!」
——峯村だけ何にもやってないじゃねえか。そんな文句は、誰からも出なかった。
♦
「ノブ君はこの席、気に入ってんの?」
「ああ」
会話の終わりに
数学の廣田の授業。話が脱線した時の白けたムードと、それに気づかない廣田。でもクラス全体を眺めると、三、四人くらいは真剣に脱線話を聞いている人間がいる。手塚とか大澤とかはいつものことで、アズサもまぁ、そうだ。真剣というわけじゃないけれど、いかにも興味深げな表情をしていた。
♦
「アズサ、青っぽいのは染めてんの?」
「染めてないよ? ブリーチもしてないし」
「パーマは?」
「かけてない。すごいクセっ毛だから、レイヤー入れるとスゥイングしちゃうんだよね。リナの艶っツヤのロングがうらやましいよ」
「え、これ? 一年半くらい伸ばしっぱなし。先の方だけ切って巻いてるけど」
昼休み、白井達と一緒に飯を食うことが多くなった。アズサと白井は二人で、今ごろになって髪型の話で盛り上がっている。
丸山と
俺はアズサ達に意を注いでいた。アズサは興味深い存在だ。白井はアズサと喋る時に限って、退屈そうな顔をしない。アズサには失礼な言い方かも知れないが、白井という女王蜂が空の下に出て、働き蜂と交わってブンブン飛んでいるようもみえる。代わりに原と青柳が、少しだけ大人しくなる。
しかもアズサは、丸山が言うところの「白井さんのグループ」の正式メンバーじゃない。クラス中ほとんど全員と打ち解けていて、気付けば教室中の椅子にまたがっている。いつものように、背筋を真っ直ぐ伸ばして。
女子の中で、白井、原、青柳の発言力は強い。それは俺にも責任がある。週に一回は連れ立って街に遊びに行っているし、男子のまとまりに影響を与えないワガママには、干渉しないからだ。ただ、白井たちとあまり仲が良くない奥村、市木、多田の吹班(吹奏楽班)グループにアズサが加わると、B組女子の集団内の力関係が逆転する。松高祭の係決めの時、俺はそのことに気付いた。
実はアズサは、細心の配慮でクラスのバランスを保っているのかも知れないし、単に天真爛漫なだけなのかも知れない。どちらでも構わないのだけれど、俺はもっとじっくり話をして、アズサのことを知りたいと思っていた。
♦
今日の席替えは、運ともツキとも流れとも無関係に終わった。
封筒に番号を書いた紙切れを放り込んで、
俺は最後だった。ノブ君、最後の一枚でゴメン、なんて手を合わせながら、
くじの結果は左端の最後尾、窓際。やっぱり、ここが俺の定位置だった。
この定位置は、俺が勝手に気に入っているだけの場所ではなくなってしまった。級長という責任を背負った者から与えられた賜り物だ。俺はその対価として、役割を果たさなくてはならない。
「おい
思い通りにならなかった丸山が騒いでいる。
「丸山うるせーぞ。俺と交替してやってもいいぜ?」
「え、ノブ君? ……あー、なんでもねー」
教室が静まる。
運試しのない席替えは、ラッキーも呼び込んではくれなかった。アズサは、隣の列だけど前から二番目に座っている。俺の前には唐沢が移ってきたけれど、それはどうだっていい。いや、たまたま、くらいには考えてみようか。——そんなことはない。これは、ラッキーだ。
♦
放課後すぐに、俺は唐沢に声をかけた。唐沢にとってはいい迷惑かも知れないが、俺は気にしない。
「なあ唐沢」
「あ、はい」
「今朝、読んでた雑誌、見せてくれよ」
「え、見てたんですか?」
唐沢が差し出したのは、B5ノートくらいの分厚いカメラ雑誌だった。俺は黙ってページをめくり、唐沢が眺めていた辺りを開く。モノクロ写真の投稿ページだった。
「モノクロ写真撮ってんのか?」
「あ、はい。フィルムじゃないんですけど」
「投稿もしてんのか?」
「はい。でも、始めたところで、まだ」
「何撮ってるんだ?」
「
「人は撮らねえの?」
「う、本当は、人が撮りたいんです。ストリートスナップが好きで。できれば学校でもスクールスナップとか撮りたくて。でも」
唐沢は自分のやりたいことをハッキリと言ったけど、叶わない望みを嘆くような声だった。
思い付いた。良いアイデアかどうかは分からねえけどやってみよう。
「俺を撮らねえか? 男でわりぃんだけど」
「え、いいの?」
「いつ撮ってもいいぜ? ただ、勝手に他人に配るのは勘弁な」
「う、うん!」
人の気配がした。窓に向かって身体を捻っている唐沢の真後ろ、俺の右斜め前にアズサが立っていた。笑顔だ。瞳がキラッキラしてる。どうせ初めから聞いていたんだろうけど、俺にとっては予想もしていなかったラッキーだ。
高く澄んだ、明るい声で割り込んでくる。
「私も撮っていいよ? ただ、勝手に他人に見せるのは勘弁ね。ネットとかも」
「ええっ!? 撮っていいの?」
「ノブと話してよかったね。タカ、楽しみにしてる!」
アズサの唐突な申し出に、俺は内心、唐沢以上に驚いていた。ラッキーを呼び込んでツキを掴んだのは唐沢だった。こうなったら、写真で俺を感動させてくれよ? 俺は声援を送ることしかできねえけど。いや、写真家になった唐沢孝、タカに、峯村長兵衛賞で良ければ出せるかも知れないぜ?
「タカ、カメラ持ってちょっと付いて来いよ?」
ツイてるときに流れをつくる、それは今だ。俺は廊下へ出た。タカは黒くてごついカメラを首から提げて、緊張した面持ちで付いてくる。D組へ向かう。そこには、黒崎がいる。あいつを被写体仲間に巻き込もう。
黒崎とはクラスも班活も違うけれど、ちょくちょく話す機会があってそれなりに気心が知れている。一方的かも知れないが、共鳴できることもいくつもあった。
中学時代から黒埼慶次郎という名前だけは聞いていた。二中のバスケ部のキャプテンはすげえ。佐久長聖から特待が来てるとか、
D組に入る。生徒はほとんど残っていたけれど、長身の黒崎はすぐに見つかった。誰かと喋りながら、目だけで、どうした? と聞いてくる。俺は親指と人差し指を突き出して、ちょっと話がある、と伝えた。
黒崎はゆっくり歩いて俺の前に来た。
「こいつタカ、唐沢孝。写真やってるんだけど、黒崎のことも撮ってもいいか? 勝手に他人に見せたり配ったりはしねえから」
「ん? ああ、いいよ」
黒崎は細かいことは問わず、すんなり承知してくれた。黒崎の目がタカに向く。
「どんな写真を撮りたいの?」
「す、スナップです。
「そっか。じゃあ、他の奴も紹介するよ。
萎縮していたタカの瞳が、また大きく輝いたように見えた。独り言みたいな自己紹介の中で「写真が好き」と言った時、机の下でこっそりとモノクロ写真のページを開いた時、アズサと俺を撮ることになった時、それから、今。
さっそくシャッター音が聞こえた。黒崎と俺のツーショットだ。
タカは本当に写真が好きなんだろう。俺がサッカーを、人間を好きなように。
俺はタカに感謝した。ラッキーを呼び込んでつかみ取る力の正体が、少し見えた気がする。それは、何かが本当に好きでたまらなくて、そのことをハッキリ自覚できていて、いつだって行動を起こす構えができている、自分の心の持ちようだ。
「唐沢君、ちょっと一緒に来れる?」
黒崎の誘いに、タカはためらうことなく頷いた。
「じゃあな、タカ。サンキュー、黒崎!」
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