第8話「自転車(二)」矢沢陸人(五月)

「でさーナオ、彼女とどこまでいってんの?」

「軽井沢とか。電車で」

「そーじゃねえって。ドコまで進んでんの?」

「ないしょ」

「毎週末会ってんだろ? ずっと」

「うん」

「あー彼女いるやつがうらやましーぜ。ケージ君にもいるらしーし」

 五月下旬の金曜の昼休み、宮澤は相変わらず、聞きたいことを聞いて言いたいことを言っている。小野は自分の席で、武井との会話に夢中の様子だ。

 あの日、真田まつりで飯島と再会してから、俺は帰り道の遠回りをめた。だけど、変わったことと言えば帰宅時刻が三十秒、早くなっただけだ。黙って抱え続けてきた俺の片想いは、実現の可能性を失ったせいで絶望の色を深めて、以前より厄介なくらい、俺の心の中で存在感を高めてしまった。

「そういやリック、飯島さんとおんなじ中学だったよな?」

 宮澤が話を振ってきて、俺はどきっとした。

「ああ」

「やっぱアレかな? あの子、すげーモテてたの?」

「ああ」

 俺が知っている連中だけでも、飯島は人気があった。俺はいつも黙っていたけれど、話題に良く上った。

 マサのことを思い出す。サッカー部のキャプテンで、中三の時は同じクラスだった。小柄だけれど運動神経は抜群で、どんなミスパスでも脚でも伸びたみたいに喰らい付いてゴールを決めるから、仲間や後輩からはルフィ、年輩の教師からはロビンフットと言われていた。無鉄砲で喧嘩っ早くて、いい加減だけれど男気があって、仲間に囲まれていて、いつも高い声で笑っている。青春バカの代表みたいな男だった。

 マサも飯島のことが好きだった。一度もはっきりとは聞いていないけれど、見ていればすぐに分かる。不思議なものだ。あれだけ天真爛漫に生きていて、どんな夢でも実現出来そうな男でも、こと恋愛の話になると奥手で、何一つ浮いた話は無かった。俺はマサに、こっそりシンパシーを感じていた。

 ナオと目が合った。無邪気な表情なのに色々見透かされているような気がする。俺はナオに何か後ろめたい思いでもあって、自意識過剰になっているのだろうか。少し動揺して、さりげなく目を逸らした。



「飯島と話、した?」

「いや、まだ」

 班活が終わると、黒崎に訊かれた。再会とはいうものの、祭りの行軍中に一瞬、通りすがっただけだった。あの日以来、見かけたことすらない。

「中二の時、そこそこ仲良かったらしいじゃない?」

「え? まあ」

 どうして知っているんだろう? いや、俺の視野が狭すぎるのだろう。黒崎の顔の広さは、俺の想像なんか及びもつかない。その上、俺では気が付きもしない細かいところにも目が行き届いている。ローマの指揮官は八十人近い兵士を率いて最前線で生活し、戦ったというけれど、黒崎なら優れた指揮官になれただろうと思う。

 黒崎は、何気ない会話をしているように見えても無駄な話はしない。そこには意図がある。四月に俺は、何かあったら頼む、と言われていた。残念ながら、今の飯島と俺の関係ではその役は果たせそうもない。

 黒崎は五、六秒、俺の話の続きを待って、話題を切り上げてくれた。

「じゃあ、また明日!」



 班活が終わっても、梅雨入り前の空はまだ明るい。心地良い風が吹いているけれど、俺は汗を浮かべながらひたすら自転車を漕いでいく。

 飯島ランドリーの工場が見える。遠回りを止めても、それは否が応でも目に飛び込んでくる。ここは先代社長だった照彦会長の頃の本社で、今は飲食店向けに絞って先代が細々と取り仕切っている。とはいえ実務は古参の従業員に任せて、馬場町ばばんちょうで気ままな隠居暮らしをしているらしい。今の幸彦社長、つまり飯島の父親の代になってからは、病院や介護施設、旅館やホテルなど大口の仕事が主になっていて、郊外の住吉地区に本社工場を構えている。

 俺はまた、自分への苛立ちを募らせる。飯島と同じ自治会とはいえ、家業とか、住居とか、自転車とか、そんなことばかりに詳しくなっていく。飯島本人について、俺はまるで分かっていないのに。

 ペダルを踏みしめて坂道を上る。人気ひとけの無い、黄金沢川こがねざわがわ沿いの新田しんでん公園の脇を、沢の急な流れに逆らうように走り過ぎる。一息に上り切って交差点を曲がり、少し先の角にある自分の家に駆け込んだ。



「ナオん家、行ったことある?」

 土曜の班活。弁当を食べながら黒崎が宮澤に訊いた。

「おーあるある。すげえボロアパートでびびった。お袋と住んでんだっけ? あれ絶対、部屋数足りねーよ」

 宮澤が俺に話を振ってくる。

「リックは行ったことねえよな? 場所知ってる? すげーとこにあるぜ」

「いや。場所は大体分かるけれど」

「リックも今度行こーぜ。でさー、近くのガールズバーとかちょっと覗いてみようぜ?」

 ナオのアパートが袋町ふくろまちにあることは知っていた。大体しか分からないけれど、行けば見つけられるだろう。

 それより黒崎の意図が気になった。いや、黒崎が会話していた相手は宮澤だ。俺は、誰かに打ち明けたとしても今さら何の意味もない想いを抱えて、自意識過剰になっているに違いない。



「お疲れさまでしたぁっ!」

 身体を動かして、自分を苛め倒している時間は救いだ。余計な物思いをしないでいられる。だけどそれが終わった途端、心の片隅に転がしておいた厄介な想いが存在を主張し始める。最近の俺はそこから目を逸らしたくて、いつも急いで汗を拭いて服を着替え、全力で自転車を飛ばして家に帰ることにしている。

「リック、頼みがある」

 小走りに帰ろうとした俺を、黒崎が引き止めた。

「週明けくらいまでに、飯島にメールを送っておいて欲しい。本人にはキミコを通して伝えてある」

「え? 俺から?」

「アドレスはリックのスマホに送っといたから。よろしく」

 黒崎は何と言って伝えたのだろう。キミコというのは、確かあの制服を着た女だ。やっぱり黒崎は、俺を気にかけている。自分では練習に集中しているつもりでも、分かってしまうものなのかもしれない。いや、もしかして、ナオを気にかけてるのだろうか? 何かあったら頼む、そんなことを言われても、俺には飯島のことも、ナオのことも、どうすることも出来ない。

 自転車置き場まで行って、やっぱり気になってバッグからスマートフォンを取り出す。飯島のメールアドレスがあった。こんな状況でも嬉しくてたまらなくなっている自分に気が付いて、また苛立ちを覚えた。ただでさえ口下手な俺が、口下手を言い訳にして何もしてこなかった俺が、今さら飯島と繋がりを持てたとしても、何を話し、どんな関係を作れるというのだろう。

 午後六時を過ぎていた。俺はとりあえずスマートフォンをバッグに入れる。青いTREK FXは、いつもの場所で俺を待っていた。



 自転車を走らせる。市役所前の交差点を渡らずに真っ直ぐ進んだ。偶然じゃない。気まぐれでもない。今日はナオの家の前を通って帰ろうと思った。

 大手門の鉤の手を斜めに横切って、中央交差点を渡って海野町うんのまちの通りに入る。ここまで自転車で、たった二分くらいの距離だった。バス停近くの細い路地から、迷宮のような袋町ふくろまちに入る。盛り場の灯りが点り始めているけれど、まだ人通りは少なかった。俺はハンドルを強く握ってスピードをぐっと落とす。一本目の小さな辻を右に曲がれば、おそらくその辺りにナオのアパートがあるはずだ。

 胸騒ぎがする。俺は今、何をしようとしているんだろう。今まで、何をしてきたっていうのだろう。浮かんだ疑問をほったらかしにしたまま、ゆっくりと迷宮を進む。

 路地は一足早く夕闇に翳っていた。車一台通るのがやっとの幅に雑居ビルがひしめいている。壁には乱れた本棚のように小さな看板が突き出して、くすんだ原色の光を放っている。

 澱んだ湿っぽい空気が満ちている。生暖かくてカビ臭いエアコンの排気の中に、肉や調味料の香りが入り混じる。他人の呼吸に挟まれてしまったような生臭い大人の街だ。薄暗がりや酔っ払いや派手な女しかここには似合わない。ふんわりと柔らかくて暖かい光なんて、およそどこにも見当たらない。

 ぽっかりと雑居ビルが途切れた空間に出た。風が吹くだけでも建物全体が揺れそうな、薄汚れた壁の二階建てのアパートが見える。

 ——まだ新しい、卵の殻の色をした自転車があった。

 赤錆だらけの外階段の下、ちょっとした隙間の砂利の上に、それは従順な犬みたいに停められていた。幅の広いサドル、大きなラタンバスケットが目に入る。別人のものであってくれ。目を剥いて自転車を眺め回している自分に気が付いたけれど、止めることが出来ない。

 「丘高」と書かれたステッカーが、悲しいくらいにはっきりと見えた。

 アパートには六つの小さな玄関ドアがあって、そのうち四つから明かりが洩れていた。ナオの家がどこなのかは知らない。俺は自転車に跨ったまま片足だけで地面に突っ立って、しばらく立ち尽くしていた。

 つらい。心からつらい。飯島の存在を、今までで一番はっきりと認識する。

 どこかに出掛けているのか、それともあんな薄暗くて狭苦しそうなアパートの中に二人でいるのか、実際のところは分からない。でも俺にとっては、どっちだろうと関係なかった。ナオと一緒にいる飯島が、息が届くくらいの距離からナオを見つめている飯島が、はっきりとイメージ出来てしまった。

 鳩尾が熱くなる。俺は二回、深呼吸をした。背中を伝って何かがこみ上げてきて、目頭は熱くなかったはずなのに下のまぶたに涙が溜まった。

 まばたきをしてもう一回、深呼吸をする。俺はペダルを思い切り踏み込んだ。自転車はどんどん加速して、すれ違う人影が皆、煤けた紙人形みたいに見えた。

 飯島ランドリーの工場は、もう気にならなかった。



 家に着いてすぐ、汗を洗い流した。頭から熱いシャワーを浴びると、また少しだけ涙がこぼれた。

 俺は飯島と出会って二年間、ナオとのことを知って一ヶ月間、何をしてきたんだろう? 何もしてこなかった。口下手なんて言い訳だった。不器用なんて気にしなければ良かった。自分の本心、それがどんなに認めがたいものでも、目を逸らして黙っているべきじゃなかった。

 飯島にちゃんと気持ちを伝えて、駄目でもちゃんと振られて傷付いておけば良かった。

 ナオに悔しい気持ちを思い切りぶつけて、そんなやり方でもちゃんと祝福しておけば良かった。



 月曜の朝練前、飯島にメールを出した。

『黒崎からアドレスを聞きました。今後ともよろしく』

 朝練を終えて教室に戻り、返信を確認する。この期に及んで興奮している自分に気が付いた。相変わらず未練がましい男だな? 俺は自分を笑った。嗤ったわけじゃない。

 返事が来ていた。俺はやっぱり、嬉しくてたまらなくなる。

『矢沢くんメールありがと! キミからきいてたよー ナオがスマホ持ってなくてごめんね これからもよろしく!』

 一行空けて、続きがあった。

『ナオげんきですか?』

 俺は深呼吸をして、今度は苦笑した。苦くて仕方なかったけれど、確かに笑うことが出来た。自分を。

 飯島ふざけるな! 昨日もナオと会ってたじゃないか。



「宮澤、写メってどうやって送るんだ?」

「はぁ? 今どき写メなんて言わねーし」

「そうか。分かるか?」

「ちょー貸して。……メール書いてここ押してカメラで撮って、OK押して送信」

「済まない」

 俺の行動が意外だったのか、宮澤は意外そうな表情で俺の顔を見て、それから少し嬉しそうに笑った。

「ナオっ!」

 ナオもまた、意外そうな表情で俺を見上げた。

「後で話があるから、顔貸せ」

 おどけながら凄むと、うん、と応えた。落ち着き払った様子がまた腹立たしい。

 俺はナオのすっとぼけたベビーフェイスをアップで撮ると、迷わず送信ボタンを押した。

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