第5話「自転車(一)」矢沢陸人(四月)
「お疲れさまでしたぁっ!」
今日の班活が終わった。俺は後片付けを済ませて汗を拭く。
「リック、祭りに出るんだって?」
「ああ」
「ナオによろしく」
黒崎からかけられた言葉に、ほんの短い返事も思い付かない。俺は手だけを上げて黒崎と別れ、自転車置き場に向かった。
俺は無口と思われている。一日に出す声のほとんどは、班活中の掛け声に費やされる。でも、それは性格でも個性でもない。俺はただの口下手で、単なる不器用で、何事もコツコツと積み上げなければうまく出来ないだけだった。
明日からゴールデンウィークに入る。二十九日には
♦
夕闇が静かに街を覆っていた。俺は入学祝いに買ってもらったクロスバイク、青いTREK FXに跨ってペダルを踏む。市役所の前の交差点を渡り、
小学校の手前にある小さな鉤の手を斜めに横切って、
自転車でなければ気づかないくらいの緩い上り坂。俺はペダルを踏み込んで、どんどんスピードを上げていく。風が、音になって聞こえ始める。
丸堀を抜けて、
平日の帰り道はいつも、ここから三十秒だけ遠回りをする。俺はハンドルを強く握ってスピードをぐっと落とす。
飯島ランドリーの工場、その隣の屋敷に灯りが点っている。閉じられた門扉の奥に、真新しい自転車が停まっているのが見える。武骨な俺には絶対に似合わない、卵の殻のような優しい色の自転車。フランスパンや木苺なんかが似合いそうな大きなラタンバスケット。まっさらな「丘高」のステッカー。
飯島はこの屋敷の中にいる。俺はいつも通り、なんとなくほっとした気分になる。すぐにペダルに力を込めて、自分の家へ向かう。
誰に頼まれたわけでもない毎日の確認作業。その後ろめたさが連れてくるのは自分への苛立ちだ。俺は口下手で不器用な自分にずっと苛立ってきた。黒崎のように、言葉で人をまとめたり、導いたり、励ましたりすることが出来ない。中学に通い始めた弟のように、我侭を主張したり、口喧嘩をすることが出来ない。同じクラスの宮澤や小野のように、彼女が欲しい! と素直に叫ぶことさえ出来なかった。
「矢沢くん、カモクで誠実なひとなんだね」
中学二年の春、初めての会話で飯島はそう言った。俺はそのときからずっと飯島に片思いをしている。俺は寡黙じゃない。口下手なだけだ。本当はもっとたくさん話をしたかったし、ずっと伝えたい気持ちもあった。
♦
「リック、飯島
二週間ほど前、週明けの朝練が終わったときのことだった。黒崎に突然そう聞かれて俺は動揺した。寡黙を装ったわけでもなく、何も答えられなかった。俺の様子から黒崎は何かを察したのか、話を続ける。
「ナオが、飯島と付き合い始めた」
今度は動揺しなかった。話の内容が理解出来なかったからだ。
俺が知っている飯島は、男と会話することはあるけれど、浮いた噂なんて一つも無かった。純真無垢。透き通るような声で喋り、いつだって微笑んでいる。ふんわりと柔らかくて暖かい卵の殻の色をした光に包まれている、天使みたいな存在だ。その光のせいで、近付き過ぎることが躊躇われるくらいだった。
飯島は陸上部で短距離の選手だった。バスケ部が早く終わった日は必ずグラウンドの飯島を探した。身長百六十一センチ。細いけれど骨ばってはいない腕や
「僕は飯島を良く知らないから、リック、何かあったら頼む」
「え? ああ」
何か? 何があるというんだ? ようやく俺は理解して、激しく動揺した。飯島に彼氏が出来てしまった。彼氏は、俺と同じクラスのナオだった。そのことについて、黒崎が何か気にかけている。
飯島とナオがどんな風に出会い、どんな風に惹かれあって、どんな言葉で付き合いを始めたのかは分からない。気になって仕方がないけれど、詳細な事情を聞くことも俺には耐えられそうもない。
俺自身が飯島と付き合う。そんな妄想を抱くことは何度でもあったけれど、実現するためにはどうしたら良いか、と考えたことは一度も無かった。ただ、飯島とナオが付き合い始めたことで、俺の中では天使と変わらないくらい現実離れした存在だった飯島が、自転車に乗ったり、大きな声で笑ったり、恋もしたりする女として、むしろ今までよりずっと身近に感じられるようになってしまった。
とはいえ、話を聞いた翌日からも俺は三十秒の遠回りを止めなかった。毎日、同じ場所に停められた卵の殻の色の自転車を見て、なんとなくほっとして家に帰った。土日も今まで通り、逆に飯島の屋敷を避けるようにして家に帰った。屋敷の灯りが点ってなかったり、飯島の不在を目の当たりにしたくなかったからだ。
ナオにはわだかまりは感じなかった。ナオは俺とは全く違う人間だ。透き通るような声をしていて、どんな男にもどんな女にも明るく接して、じっくり話を聞いて、はっきり物を言う。独りでいることも良くあったけれど、そんな時でもどこか楽しげに見える。
ナオは運動神経は飛び抜けてはいないけれど、しなやかなバネを持っていた。小柄なのに腕や肢がスラリと長く見えて、走ったり跳んだりする姿には感心することもあった。
正直に言えば、ナオが躍動する姿に飯島が重なって見えたことも何度かあった。
♦
「リック、身体でかすぎじゃねーか。甲冑がブラみたいだぜ?」
宮澤が淡々とした口調で俺をからかう。
「でもテツ、リックの顔、まんま戦国武将だよ? すげーハマってる!」
「馬っ鹿だなケン。俺らは武将じゃなくて足軽だろ?」
「馬鹿にすんなテツ! オレら十勇士くらいイケてるって!」
小野はいつも陽気で前向きだ。
「リックん家、これと
「ああ」
ナオの声を聴きつけて、宮澤の矛先が変わる。
「ナオ、お前は女武者の方に混ざった方がいーぜ?」
四月二十九日、上田の街では「上田真田まつり」が行われる。鉄砲隊の演武や十勇士の戦いもあるようだけれど、俺達は一介の足軽に過ぎない。武者行列の頭数合わせの一人として、甲冑を着て街を練り歩く予定だった。
俺達を集めたのは小野だ。サッカー班でも声をかけたらしいけれど、押しが足りなかったのかもしれない。結局、同じクラスの仲間である宮澤とナオ、そして俺が参加することになっていた。
「飯島さん、観に来てんのか?」
宮澤の声に、俺はどきっとした。当然のようにナオが答える。
「うん」
「そーか。えーと、カナイさんも一緒?」
「うん。テツ、気になる?」
「別に?」
「ナオ! ヒトミさんはっ!?」
「来るよ。キミコも」
不思議な感覚だった。俺は高校入学以来、飯島本人と一度も会っていない。俺は毎日、ナオと顔を合わせて、夕方には飯島の自転車を、飯島の存在を確認している。そのどちらとも重なり合わない世界で、飯島とナオは二人の時間を積み重ねている。
今まさにレギュラーだけが練習をしている、バスケットコートの様子が頭に浮かんだ。俺は体育館のドアから締め出されて、渡り廊下に立ち尽くしているような錯覚を覚える。
俺のいる渡り廊下が現実で、体育館の中に入ることは実現出来ない夢なのか? そんなことは無いはずだ。俺はコツコツ積み上げて克服出来る課題については、俺なりに努力を積み重ねて乗り越えてきた。では、飯島とナオの世界のドアはどこにあるのだろう。それは、どんな努力をすれば見つけることが出来て、どんな努力をすれば開けられるのだろう。そもそも、努力で克服出来ることなのだろうか。
♦
「ケン行くぞー」
宮澤の淡々とした声が、俺を現実に引き戻してくれた。
「ヒトミさん、どこかなー?」
「背ぇ小さくって見えねーだろ」
「大丈夫だよっ! キミさんのオーラが見えるから!」
「馬っ鹿だなケン。まだオーラオーラ言ってんの?」
「馬鹿にすんなテツ! 絶対最初に見つけてみせるっ!」
大手門の鉤の手を超えて、
「キミコ、
「えっ!? どこ? どこ!」
ナオは飯島より先に、キミコという女に気が付いたようだった。小野は行軍中にも関わらず、居場所も分からないままでたらめに手を振り始めた。
「ケン、行軍中だぜ!」
宮澤が小野を叱る。ナオが右を向いて小さく手を上げたのが分かる。俺も横を向きたくて仕方がなかったけれど、太郎山と目を合わせたまま前進を続ける。
蛭沢川の暗渠を渡り、郵便局を左手に見る。
ふと、ナオがまた小さく左手を上げて、今度はひらひらと動かした。太平記館の前に、飯島はいた。俺は息を止めた。
飯島は卒業アルバムの写真より、俺の記憶なんかより、遥かに輝きを増していた。
天然の栗色だった髪が、今は淡いくらいの茶色になっている。顔を幼く見せていた眉が、今は大人っぽさを引き立てている。桜色だった唇に、今は光沢さえ浮かべている。派手になったのか? 俺にはそうは思えない。背伸びをしている風もなく、世間ずれしてしまった様子もない。飯島の顔は俺の理想そのものだったけれど、その理想を今、飯島自身が上書きしてしまった。
かつて飯島を包んでいた柔らかな光が、今は眩しくてたまらない。俺が覚えているどんな笑顔と比べても、今日の飯島が一番、嬉しそうに笑っている。
首だけは前を向け続けていた俺は、耐え切れずに飯島の方を向いた。俺に気が付いてくれたような気がする。ナオに向かって振っていた手の角度を少しだけ変えて、俺の方に向けてくれたような気がする。
ナオが俺を見た。嬉しそうに笑っている。左腕を曲げて俺を指差して、ナオは飯島に向かって叫んだ。
「リックだよ! りくと!」
飯島はやっぱり俺に気が付いてくれていた。ナオの声に小さく頷いて、もう一度、今度ははっきりと俺に向かって手を振ってくれた。
俺達の前では宮澤と小野がなにやらごそごそ言い合いをしているようだった。飯島は友達と一緒にいるらしい。制服を着た派手な女だけが記憶に残る。
俺はもう興奮と嬉しさのあまり、細かいことは覚えていられなくなってしまった。
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