第3話「千本桜」立石直(四月)後編

 キミコ達が戻ってきた。雰囲気が変わっちゃったのに気付いたのか、キミコはテーブルよりちょっと手前で足を止めた。

「チビリ、またなんかやらかした?」

 今からやらかすんだ。ぼくはキミコ達に近づくと、カホの手首を軽くつかんだ。

「二人で話がしたい。外いこうよ」

 カホは一瞬、きょとんとしたあと、困ったような顔をしてキミコを見た。

「チビリ最悪!」

 ぼくに毒づいたキミコは、カホに向き直って優しい声で言う。

「カホ、嫌じゃなかったらちょっと行ってきなー。襲われるとかは絶対、ないから」

 遠回しに釘も刺されてるけど、ぼくはキミコに感謝する。

 ゆっくり歩きだすと、手首を振りほどく様子はなかった。ただ、なんかごそごそしてる。キミコ達を振り返ってるみたい。

 ぼくも振り返ると、カホはちょっと身を強張らせた。ぼくはその景色に見とれて、つかんだ手首を離す。

 どこにでもありそうなフードコートの眺めから、カホだけが切り離されて見える。ガラスの壁を横切る千曲川が杏色あんずいろにさざめいていて、カホを浮かべてるみたい。金赤色きんあかいろの山並みは遠くなるほど淡い色になって、その突き当たり、子檀嶺岳こまゆみだけの向こうにはうっすらと北アルプスが見えた。今にも沈みそうな夕陽からは絹の糸みたいな天使の梯子が幾筋も降り注いで、空や山や川、そしてカホを優しく包み込んでる。

 一幅の絵画か、一葉の写真みたいだと思った。野良猫が、生まれ育った街角の風景から切り離すことができないように、ぼくらもまた、ふるさとの光や、風や、水の流れを、身体中に染み込ませながら形づくられていくんだろう。

 カホに視線を戻したあと、ぼくはこころから真剣な顔で首をかしげて、黙って問いかけてみた。

 ——ほんとは、どうしたい?

 カホは強張った面持ちのままだったけど、ついてく、そんな目でぼくにこたえてくれた。



 エスカレーターに縦並びに乗った。ぼくは振り返って、満面の笑顔をつくってカホに向ける。

「来てくれてありがとう。ぼくうれしい!」

「……てか、ちょっと、引いてるんですけど」

 カホは真顔のままだ。

「うん。それでも来てくれてうれしい!」

「……あと、かなり、恥ずかしいんですけど」

「うん。でもぼくはうれしい!」

 カホは黙ってしまった。

「ありがとう!」

 エスカレーターの一段下から、顔を見上げて伝えた。カホの大きな猫目と小さな口が、もにゃもにゃ、と曖昧な形になる。

 縦に並んだまま歩いて、建物の外に出た。新幹線の高架橋が視界を大きく横切って、その上で東の空が紺色こんいろに染まりかけてる。

 夕暮れ時の猫の集会みたいに、ぼくらは広い駐車場の片隅でおしゃべりをする。

「立石君って、その、……チャラい人なの?」

「チャラくないよ。そんな風に見える?」

「……ごめん。ちょっと、そう見える。だって、普通の人はこんなことしないし」

「そっか。じゃ、見た目はチャラくていいや」

「えーと、見た目がチャラいんじゃなくって、やってることが」

「見た目はチャラくないの?」

「まあ、うん」

「じゃあ、見た目はどんな感じ?」

「えっ? ……ないしょ」

 今だ。ぼくには伝えたいことがある。

「ねえカホ」

「なに?」

「ぼくはカホを見たとき、すごく好みのタイプだな、って思っちゃって」

 カホは、はっとしたような顔をした。

「二人っきりで話をしたくなっちゃって」

 カホは小さく頷いてくれる。

「カホがどんな人なのか知りたい。ものの見かたとか、感じ方とか、考え方とか」

 カホの目が、ゆっくり優しくなっていく。 

「だからぼく、ちょっと勇気を出してみた」

「うん。……え、ちょっと?」

 ぼくは笑った。

「さっき、ポーチがぶーぶー言ってたよ」

「え? キミからLINEかな?」

 スマホを取り出して右手で画面をなぞる。小さな手から伸びた細い白い指。桜色さくらいろの小さな爪に塗られた透明なマニキュアが、スマホの画面を小さく映し出してる。ぼくはやっぱり、ぱくっ、とくわえてみたくなる。

「かえってくんな、だって。ヒトミとナナミからも来てる。えーと……」

 画面を見ながら苦笑するカホ。

「なんて?」

「ないしょ」

「そっか。ねえカホ、お城に行こうよ。千本桜まつり」

 カホは頷いて顔を上げた。すごく好みのタイプの笑顔で、ぼくと向き合って視線を合わせてくれた。



「ナオ君には最初っからびっくりしたよ。ミルクティとか」

「あーミルクティボブ。すごく似合ってるよね」

「え? へへぇ、そう言われるとうれしい」

「どこの美容院?」

「JUDE。信大の近く。常田ときだって場所?」

「やっぱり。あそこ評判いいよね。予約難しくなかった?」

「知ってんだ? 予約はママ……お母さんにお願いしちゃた。入学前に勇気出して行って良かったー」

「だいぶ髪型変えたの?」

「うん。中学んときの写真とか見せらんない。まゆげも違うし」

「写真持ってる?」

「え? まあ、スマホに入ってるけど」

「見たい」

「やー」

「駄目?」

 ぼくは覗き込むように聞いてみる。

「……えっと、うーん、笑わない?」

「うん」

「こころの中でも?」

「うん。頑張ってみる」

「えー、ひどーい」

 四月になっても、上田の夕方の風は少しだけ肌寒い。ぼくらはちょっと早足で新幹線のガードを抜けた。崖の上に松高が見える。天神の交差点を曲がって、けやき並木の入り口を目指した。

「そういえばさー、キミってすっごいきれいじゃない?」

「うん」

 カホは次の言葉を考えてるみたい。あっさり肯定しすぎたかな? なんとなく勘違いさせちゃったかもしれない。

「うんそーだよねー、住む世界が違うって感じで初めて会った時びっくりしたー。性格もお姉さんみたいだし」

 カホは一息にしゃべる。こんなとき、ぼくは心地いいもどかしさを覚える。心配ないよ? カホで一杯になっちゃってるぼくの気持ちを伝えたくて、手をつないでみたくなる。

 腕を伸ばすと、ぼくのほうも思いのほか緊張してたみたいで、小さな手を優しく握ることができない。代わりにそっと手のひらをつかんだ。えっ、と小さな声がしたけど、振りほどかれはしなかった。指を伸ばしたまま強張っているカホの手のひらはしっとりとしてて、そしてあったかかった。

「……さっきキミ、またやらかした、とか言ってたけど」

「うん」

「こういうこと、よくするんだ?」

「しないよ。無理矢理女の子連れ出すなんて、初めて」

「じゃあ、なにやらかしたの?」

「小学校のとき、みんなの前で女の子にに告白したことがあって」

「ええー?」

「引いてる?」

「……ちょっと。でも、小学生の頃だしねー」

「やっぱ引いてるんだ」

 ぼくはへこんでみせる。カホはちょっと慌てた顔になる。

「でもでも、実際告られてみたら、あんがい感動するかも」

「そんなこともあるんだ」

「相手次第、かなー」

 カホはきっと、嘘をつけない人なんだ。気がかりや、不安や、今、感じてる本音なんかが、なんとなく伝わってきてしまう。その点ぼくは卑怯だ。嘘はついてないつもりだけど、話をはぐらかしてみたり、何かをごまかしてみたりする。人を試すようなことも。ただ、その卑怯さを糺すのは今日でなくていいや、とも思う。ぼくの世界には神様はいまさない。都合のいい偶然なんて起こらない。待ってたって物事は始まらないし、望んだようには変わらない。やらないほうが後悔するならやる、やったほうが後悔するならやらない。ぼくはずっと、それだけで行動を決めてきた。

「実は前からナオ君のこと、キミからちょいちょい聞いてて。写真も見てたし」

「どんなこと聞いてたの?」

「生まれたときからお父さんがいないこととか」

「うん」

「スマホ持ってないこととか、バイト始めたこととか」

「うん」

「お漏らししたからチビリって呼んでるとか」

「うん」

「ちっちゃくて猫っぽいとか。……ほんとは今日ね、ヒトミと一緒に結構楽しみにしてきたんだよ?」

 ぼくはこっそり苦笑する。ヒトミとは、楽しみの中身がずいぶん違う気がする。

「ぼくは想像通りだった?」

「えっ?

 首を傾げて覗き込んでみた。

「えっと、ないしょ」

 つかんでいた手を一度、少しだけ離してみせた。カホが戸惑った顔をぼくに向ける。ぼくはもう一度手を握り直して、笑顔を向けた。今度は優しく、やわらかく、あちこち凹凸がある手のひらが、ぜんぶぴったり触れ合えるように。

 カホはまた、もにゃもにゃ、という曖昧な表情になった。今度は指にきゅっと力を込めて、ぼくの手を握り返してくれた。



 けやき並木に着いた。お城の外堀の跡で、ずっと前にはここに鉄道も通ってたらしい。お堀の底は両側が土手になってて、ほどよい狭さで視界を遮ってくれてる。土手の両側からはケヤキが箒みたいにたくさんの枝を伸ばしてて、季節ごとに彩りを変えるアーチをつくってくれる。ほんの短い距離だけど、ぼくはこの静かな小径こみちをお散歩するのがいつもの楽しみのひとつだった。

 日はすっかり沈んで、濃藍色こいあいいろの空の端っこに少しだけ丹色にいろの残照が浮かんでる。千本桜まつりの今夜は小径に点々と明かりが灯されて、優しい夢の中を歩いてるみたいだった。

「お父さんってどんな人だろうとか、気になったりしない?」

「いないのが当たり前だから、考えたことないよ」

 カホはぼく以上に、ぼくと話をしたかったのかもしれない。手をちゃんとつなぎあった分、こころを開いてくれてる気がする。

「でも、いないと、いろいろ苦労しない?」

「ずっと面倒みてくれてる人たちがいるから、苦労したことないよ」

「そうなの?」

「うん。バイト先のマスター。いつか一緒に行こうよ」

「あ、うん! ……って、いつか?」

 まだ駄目。あと半年くらい。でも、カホとなら大丈夫な気がする。

「うん、いつか」

「ふーん。バイトやってるってことはスマホ、持つ予定なの?」

「予定はないよ」

「なんで?」

 カホの表情がちょっと曇った。LINEとかできないじゃん? そう思ってくれてるのならうれしい。

「必要ないから。まちなかをお散歩してるとき以外は、学校か図書館かバイト先か、アパートのどっかにいるから」

「ほんと猫みたい」

 カホは一瞬微笑んだけど、すぐに視線を落とす。

「でも、どうしてるの? 話とかしたくなったら」

 少し大きな声を出して、ぼくは自信満々にこたえる。

「会えばいいじゃない!」

「えっ?」

「さっそくだけど、明日も会える?」

「え? あ、うん!」



 プラットフォーム跡に二人でのぼった。目の前の二の丸橋の上に人だかりが見える。アーチは夕闇の底で赤墨色あかすみいろに染まって、図鑑で見た京都疎水みたい。ぼくらは上下左右から人工のライトに照らされて、不揃いな淡い影を四方八方に伸ばす。水晶の結晶みたいだと思った。

 ぼくは手を離してカホの正面を向く。冷たい風が流れ込んできて、けやきの影が少しだけ揺れた。

「ねえカホ、ぼくと付き合って欲しい」

「あ、うん……えっ!?」

 返事をしてから、カホは意味を理解したみたいだった。

 風は凪いだけど、けやきの影はまだ揺れてて落ち着かない。人だかりのざわめきが、ぼくの耳に届き始めた。お祭りの中心が、もうすぐそこにある。

「いやいやいや、ナオ君いきなりなに言ってんの? 早すぎない?」

 ぼくはただ、満面の笑顔でうれしさを伝える。

「ありがとう! ぼくうれしい!」

「でも、会ったばっかだし。なんか、軽すぎっていうか」

「そんなのいいじゃない? ぼくはうれしい!」

 カホはばつが悪そうな顔をして後ろ手を組んでる。ぼくは半歩、前に出る。

「ありがとう!」

 ほとんど同じ高さにあるカホの目を、まっすぐ見ながら伝えた。

 カホの大きな猫目と小さな口が、はにかんで笑った。ぼくはまた、カホの手をつかんで引いた。



 二の丸橋に上がって、ぼくらは祭りの賑わいの中に飛び込んだ。右手には夜店がずらりと並んでる。

 夜店を廻るのはすごく楽しい。ぼくは覚えてる。小さな頃から街に夜店が出るときは欠かさず、カフェのマスター、ジュンさんや、母さんのお店の常連のお爺さん、ヒコさんに連れて行ってもらってた。小四の時に聴いた、ヒコさんの話も思い出す。夜店の楽しみ方には順序がある。まず、大人に連れられて行ってわくわくしろ。次に、知り合いや好きな子と会えることにどきどきしろ。もう少し大きくなったら二人でいることを楽しんで、最後は、連れてった子供をわくわくさせてやれ。……今夜、二人になったぼくは思う。その楽しみ方は当たり前みたいに思えるけど、当たり前の小さな想い出が集まって、積み重なって、繰り返して、お祭りの一体感や歴史をつくり上げてきたのかもしれない。

「うわー、きれー!」

 水をたたえた内堀に鏡写しになった大振りの桜を見て、カホが声を上げた。写真撮りたーい! ぼくの手を離すとスマホを取り出して、傾けたり持ち上げたりしながら懸命にフレームに収める。

 撮り終えると、突然ぼくの腕を引き寄せて、ためらいもなく顔をぎゅっと近付けて腕を伸ばした。満開の桜の枝がスマホの画面を埋めつくして、その手前にぼくらの顔がある。ぼくはちょっと戸惑ってて、カホは心底うれしそうに笑ってた。

 ナオ君笑お? そう言うとカホは、さっきまで自然だった笑顔をいったん引き締めて唇を引いて持ち上げ、上目遣いの視線を上手に小さなレンズに向ける。ぼくも真似してみた。

 今日出会ったばかりのカホは、ごまかされやすくて流されやすくて、気を許すほどに大胆になってくる。幼くって無防備で、薄っぺらにも見えるかもしれない。でもぼくは思う。カホは、フードコートで手を離して問うたとき、きっともう決めてくれてたんだ。ぼくについてきて、ぼくをちゃんと見てやろうって。

 チャラいぼくとチョロいカホ。それでいいじゃない? ぼくらは野良猫とたいした違いなんかなくて、ふるさとの街の中で、じゃれたり悪さをしたりして全力で生きて、成長していけばいいんだと思う。

「クレープ食べたーい!」

 ひとしきり写真を撮り終えると、カホは元気よく言った。ぼくらは人混みの中を手をつないで、夜店を眺めて歩き始める。

「わたしのパパ……両親ってお祭りがあんまし好きじゃないみたいなんだよね。ていうか、まちなか自体があんまし好きじゃないみたいで」

「うん」

「お祭りとか海野町うんのまちとかは、おじいちゃんと一緒に行ってた」

「そっか。お家は遠いの?」

「ううん、新田しんでんだし、二キロもないとおもう。おじいちゃんは馬場町ばばんちょうでひとり暮らししてる」

 カホはチョコバナナクレープを選んだ。ぼくがお金を払おうとしたら、そういうのはだめっ、と弟を叱るように言う。食べてる最中にタピオカのお店を見つけて、ためらいもなくパールミルクティを買う。桜のことは忘れてるみたいだったけど、カホの楽しそうな様子は、満開の桜が枝ごと揺れてるみたいだった。

「お家、もしかして新田の飯島ランドリーの近くとか?」

「えっ? ちょ、そこ、うちの工場。えー、恥ずかしー」

「おしぼりもやってるよね? バイト先にも母さんのお店にも入ってる」

「ええっ? うわー恥ずかしー」

「恥ずかしくないよ」

「うん、でも、なんとなく」

 うん。その気恥ずかしさは、なんとなくわかる。

「お母さん、お店やってるんだ?」

「スナックの雇われママ。……スナックって言ってもわからないかな」

「えーと、あれ。椅子がふかふかでカラオケあってお酒飲むところ? わたし、何度か行ってるかも」

「え? それほんと?」

「おじいちゃん家に泊まったときに、何度か。両親にはないしょなんだけど、やっぱ変かな?」

「珍しいかも。印象はどう?」

「お店の人たち、すごいきれいだし優しかったよー。お化粧とかネイルとかもうまくて、小学生のころだけどわくわくした」

 カホのお祖父さんはどんな思いで、孫娘をスナックに連れてったんだろう? 社会勉強かな? たしかに夜の街の存在は、人がちゃんと集まる街の絶対条件だと思う。

 ぼくは母さんの仕事柄、スナックには普通に出入りしてる。小さい頃はヒコさんに迎えにきてもらってて、小四くらいからは独りでも行くようになった。夜の袋町はぜんぜん怖くなんかなくて、狭い路地の角々にはいつもの客引きのお兄さん達がいて、ぼくに声をかけてくれる。夜中まで開いてる花屋やお菓子屋を覗くと、やっぱりそこでもぼくに声をかけてくれた。

「でも、自分ひとりで行きたいとは思わないし、働くとかはムリかなー? お酒も飲めないし」

「ははぁ、お酒って。まだ十五歳でしょ?」

「うん。八月二十九日生まれ。ナオ君は?」

「一月六日」

「んん? 年下? ……へへぇ」

「同級生だよ」

「年下だよ? へへっ、ナオ!」

 カホはやっとぼくを呼び捨てにしてくれたみたい。ぼくはタピオカを奪い取ると太いストローから二口、大きく吸い込んで、やっぱりひどくむせながらカホに返した。カホはストローをくわえながら、ぼくの様子を見て笑った。

 片手にタピオカを持って、カホはぼくの左手を取りながら言う。

「実はわたし、付き合うのとか初めてなんだよね。今日も予想外だったし」

「うん」

「でね、どうしてたらいいのかわかんないんだよね」

「今とおんなじでいいじゃない? 素直なまんまで、自分のペースで」

 カホは黙ったまま、ぼくの手を強く握った。握り返したらまた力を込めてきて、そのうちリズムの伝え合いみたいになる。ぼくにはぜんぜんわからなかったけど、ぼくの数少ないレパートリーの中からは一つだけ、カホに伝わったみたいだった。

「君とー同じ未来をーずっと一緒に見ていたいー」

 カホはちょっと早口に小さな声で歌うと、ぼくを見上げて微笑んだ。



 本丸まで廻り終えてもぼくらはずっと、二の丸橋の上でおしゃべりをしてた。大手の信号が青に変わって人の波が動いたとき、やばっ、とカホは呟いて、スマホの画面を見た。「九時にまでにキミん家に戻れって言われてた!」

 九時半を過ぎていた。ぼくらは顔を見合わせて笑ったあと、横断歩道を渡って鉤の手を曲がった。

 メールでも打ってるのかな。スマホを操作しながらカホは歩く。

「キミコん家、すぐだよ?」

「うん、でも、一応」

 スマホの淡い光が、横顔にかかる前髪をやわらかく照らしてる。画面に目を落としたまま、カホはつぶやく。

「キミん家やっぱ知ってんだ。ちょー仲いいよね」

 また、心地いいもどかしさを覚える。ぼくは手を伸ばしてカホのミルクティ色の髪を小さくひとつかみしたあと、頭を撫でてみた。

「やー」

 カホは首をすくめてぼくを見た。照れくさそうに笑ってる。カホもゆっくり右腕を伸ばしてきて、ぼくの髪を触ってくれた。まずはひとつかみ、次にひとにぎり、それから頭ぜんぶ。

「……明日も、会えるんだよね?」

「うん。何時がいい?」

「九時! は、むずかしいかなー。夜ふかししそうだし、着がえに帰んなきゃだし」

「じゃあ、お昼のあとで、二時。迎えに行こっか?」

「やー! 恥ずかしいからだめ。わたしが街に下りるから。自転車だし」

「じゃあ、真田太平記館の前のベンチの辺りでどう?」

「うん。わかった。二時」

 小学校が見える。キミコの家の灯りも見えてきた。ここにも小さな鉤の手があって、街灯の光からちょっと外れた辺りでぼくらは少し立ち止まったあと、また明日、と照れながら言って二つの影に戻った。

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