サブストーリー:鴻鵠は我が手を離れて
飛行機は必要とされて生まれてくる、これは確かなことだ。メーカーである私だって我が子たる彼ら一機一機を慈しむ責任があると思うし、実際彼らの中には「呼ばれたので生まれてきた」というようなことを言うものがいる。漠然とそう感じるらしい。
また機人というものは不思議なもので、どうやら生まれ変わるのはそう珍しいことではないらしい、ということも経験上知っている。というのも、航空機が完成し機人として顕在化したばかりのはずなのに、教えなくともよどみなく私の名前を呼んだり、私を父と知っているらしいそぶりをするものが、たまにいるからだ。けれど例外なく、ほんのひとときで彼等はそのことを忘れ、その後は新しい機生を生きる。成長し受領日に旅立っていく彼等の背中に、私もいつか見た面影を感じることはあるけれど、それも朧気で、確証は持てない。
また機体が任を終え解体されたりして消えるときにも、「またすぐ戻ってきます」と言うものさえいる。彼等は自分が消えた後どこに行くか、或いは生まれ変わることを漠然と知っているみたいで、けれどこれから行く向こう側がどういうものなのかは、彼等もよくわからないのだという。
私達はそこを便宜的に「非在の域」と呼んでいる。まだないものがある場所、そして、もうないものが行く場所。こちら側に降りてきて、いつかあちら側に去っていく。またこちらへ戻るものもいる。そんな曖昧な領域。
かくいう私だって「法人」が消滅後に行くところのことなんてわからない。
私のいる欧州には、かつて多くの航空機メーカーがあった。そのうちの幾つかが私へと続いたわけだけれど、もう飛行機を作ることをやめてしまった者や、どこにも続かずに消えてしまった者も少なくない。そういうふうに消えた会社がどこへ行くのかは私も知らないし、もっと言うならばかつて個として存在していたはずの私のルーツのそれぞれもの記憶がすべて私に引き継がれているかといえば、そういうわけでもなかった。同時期に存在した幾つもの会社の記憶が全部あったら流石に自分もパンクしてしまいそうな気がするし、そういうもので、それが一番いいのかもしれない。自分自身の記憶、というより、今に至るまでの歴史知識として折り畳まれた彼らの記憶や足跡は、けれど確かに今の私へと続いている。
いまこうやって、仲間としての社員や、子どもたちである飛行機に囲まれていると、ずっとこういう日々が続くことを願うし、そのためには私は変わり続け、より新しくなり続けないといけないのだろうと思う。その場に留まり続けるためには、全力で走り続けなければいけないように。
A380もまたその変革と前進によって生まれたものだったが、それ以上に……ありていに言って、かの機種は私の悲願だった。
私が私、
戦後、欧州が焦土からの産業復興に時間をかけている間に米航空メーカーは輸送機をベースに旅客機部門で先んじ、また特許を押さえ、結果的に高いシェアを叩き出した。こちら側のコメットの失敗も、彼らには追い風となったらしい。かつて互いにしのぎを削っていたはずの欧州は、今や互いにシェアを食い合い、結果的に足を引っ張り合っていた。
私が生まれることになったのは、ここで負ける訳にはいかなかったからだ。ここで負けたら、欧州の航空産業はきっと途絶えてしまう。そして欧州の各社は手を取り合い、私が生まれた。A300は掟破りな売り込み方をしたために非難する者もいたが、なりふり構っていられなかった。ここで翼が途絶えれば、どうなる?
そうやって私は生まれたその時からずっと走り続けて、やがて世界に認められて、生産と販売は軌道に乗って。そしてやっと、やっと彼の背中が見えて、そこに手が届いて、そうして彼を、今こそ追い越せると…。
私には彼を打ち倒すための機種が必要だったのだ。彼が独占していた超大型機市場、世界に名を馳せるボーイング747、「ジャンボジェット」に勝る、素晴らしい超大型機が。
ふつう、強度試験機は…少なくとも私のもとで生まれた機種においては、そもそもはっきりとした機人の姿をとること自体稀だった。ときおりぼんやりと呟く声だけが聞こえるもの、姿の見える者が限られるもの、姿こそあれど何も聞こえず見えもしていないらしく実験中じっと傍らに佇んだままでいるもの、そういう不完全さを感じることが多かった。抱きしめて会話ができたのなんて、A300の試験機とあの子くらいだ。強度試験機は空を飛ぶ仕組みを持たず、厳密には飛行機ではなく実物大模型に近い性質のものなのだから、それが一因としてあるのだろう。
また彼らは生まれながらにして、他に代わる者のいない大きな重責と文字通り粉骨砕身する過酷な試験、短い一生、空を飛ばない定めを背負っている。だから私も彼らの存在に感謝しながらも、苦痛しか与えてやれない位ならばそれを飛行機として見做さず、模型だと思うように努めていた。
A380でも、MSN5000の次にドレスデンで生まれた疲労試験機、MSN5001の声を聞いた者は私しかいないという。5000とは違い、彼女は工場の人間にも実験を請け行った法人の前にも姿を表すことが稀で、そのいずれのときも言葉を交わすことはなかった。私に対して話したのも、解体を前にドレスデンを訪れた私にただ一度、「どこへ?」と、ぽつりと漏らしたのみだ。どこか遠いところを見上げながら、盲いた瞳にきっと私は映っていなくて、あれが彼女自身の独り言であったのか、本当に私に向けたものだったかさえ、私には自信がない。
5000が5001と違ったところといえば、彼女の組み上げと試験が行われたのが私の本社その場所たるトゥールーズだったことだろう。米航空産業に対しての勝利という大義と共に、これまでの機種にもなお一層増して雄大かつ特別な飛行機になるはずのA380、その最初の機体を見上げながら、私は緊張と自負と共に、「それ」に思い入れずにはいられなかった。私は組み立てられゆくA380を透かして、それが遍く世界の空を駆け、四発機の普遍となる姿をも思い描いていたのだ。
完成したパーツが届くたびに見に行っては完成を心待ちにして、作業の様子を飽かず見上げ……、
5000はトゥールーズで彼女の組み上げが終わる頃、欠けたるところのない、量産機とほぼ変わらないような機人の姿で私の前に現れた。そして彼女は私を見上げて微笑み、「とうさま」と呼んだ。
主翼破壊試験の夜、非常灯がぽつぽつと照らす建屋であの子は泣いていた。
あの子には…娘には酷なことをしてしまったと思う。娘は単に、試験で自分が傷つきつつあることを私が詫びているのだと思っていたようだけれど、それ以上に私が悔やんでいたのは、娘に確固たる自我や存在を与えてしまったのは私だったのではないかという疑念だった。
A380は私の悲願だった。開発に至る紆余曲折や遅延さえも勝利という夢の前には思い入れをなお一層強くする糧となり、思い入れは愛になった。私はA380という機種、ひいてはこのプロジェクトを愛さずにいられなかった。
そして恐らくは…、私は娘のことを「飛行機だ」と認識した。
私はエアバスという企業である。携わる人々がそれを「飛行機」だと感じ、その人々の成す組織としての私がそれを「飛行機」だと信じたかどうかがファクターであったなら。
私は悟った。多くの人の意思や願いや手に手を経て触れる指先や、そういうものが彼等機人を形作るなら、ひときわ強く望まれ生まれた存在ならば、意図せずとも他よりも強い自我が宿ってしまうこともあるのだと。そして望まれた願いをまるで自分自身の願いであるように、錯覚してしまうのだと。思えば5001が5000のようなはっきりした実体を持たなかったのは、私が5000を目の当たりにして、苦しみうる主体を持って生まれさせてしまったことを後悔した後だったからではなかったのか。5000以前に確たる個を持ち得たのがA300の強度試験機だけだったことは、私自身が歩み始めたばかりのあの時、「それ」を見上げ、かの機を透かして、私の使命とこれから私が作ることになる飛行機を愛したからではなかったのか。私自身のものと思っていたその夢想は、私をなす人々の夢想で…
…5000はA380が747を打ち倒す偉大な機種となることを疑うことなく自分の夢として語り、そのためには自らが幾度となく傷つくことも、やがて解体されることさえも、少しも恐れなかった。
そして娘は解体された。
あの子に再び会えるなんて思っていなかった。
しかしそれ以上にあの子の心が、解体されてからも長い間、生まれ故郷であるトゥールーズに縛られ続けていたことに私は慄いた。いつか見た勝利の夢が、娘をここに引き止めていたのだ。けれど、今ここにあるのは…、
私は娘をもう私の夢から開放したかった。しばらく過ごした後、あの子の頭を撫ぜ、私は静かに言い聞かせるように言った。
「お前には長く付き合わせてしまったね。けれどお前はもうどこにもいないのだから、どこだって好きなところへ行きなさい」
そして娘は旅立った。これで娘を縛るものはもうないのだと思った。これであの子はどこか望む場所にたどり着いて、心残りがなくなったとき、やっと非在の域に還るのだろう。傲慢かもしれないけれど、いつかまた私のもとに生まれてきて欲しい、そのときはきっと、かろやかで素晴らしい機体と、どこまでも飛んでいけるようなふたつの心臓を授けてあげよう、そう思った。
しばらく経って、あの子から手紙が届いた。隣国の消印の捺してある封筒の中には、近況と共に写真が1枚添えられていた。747-8の隣で微笑むMSN5000は、とても満ち足りて見えた。私とボーイングが互いに相手のことを分析しながら競って生み出した2機種の試験機なのだから、対象的であり似た者同士でもあり、面識がなくてもよく知っている同士の彼等がわかり合うのは、むしろ当然のことなのかもしれない。そしてあの子にとって、自らがA380の試験機であることのほうが、自らが旅客機となって生きることにもまして大切だったのだと気づいたのは、いまこの時になってからだ。
きっと巨人機の矜持を誇らかに、彼らは手に手を取ってさいはてへ進むのだろう。そしてそこへ辿り着いたとき、彼らは最早、再び双発機の身体に降りてこちら側へ生まれ来ようとは望まないのかもしれない、と漠然と感じた。
「まったく、あんな時代遅れの、どこの馬の骨かもわかりきったような奴を選ぶなんて…こんなことなら花束でも持たせてやるんだった」
嘆息して、デスクに座ったまま天井を仰ぐ。
私はあの子に、何をしてあげられたのだろう。
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